忘却の彩響
第一章 色彩の洪水と安らぎの音色
俺の世界は、常に叫び声に満ちている。
人々がそれを「音」と呼ぶものを、俺は「色」として見ていた。街角の雑踏は、無数の絵の具を乱暴にぶちまけたパレットだ。苛立ちの赤、虚栄の黄色、悲嘆の青が混じり合い、目の奥を灼くような汚泥の色と化して意識に流れ込んでくる。誰もが誰かの存在を確かめるために、必死に言葉を、音を紡ぎ続けるこの世界で、俺は情報の洪水に溺れかけながら生きていた。人々は、互いを認識しなくなれば、その存在ごと消滅してしまうことを本能で知っているのだ。だから、彼らは語る。歌う。叫ぶ。存在を主張するために。
そんな耳障りな色彩の中で、唯一の安らぎがあった。
幼馴染のリナ。彼女が紡ぐ音は、他の誰とも違う、澄み切った『翠雨(すいう)』の色をしていた。雨上がりの森に陽光が差し込むような、穏やかで優しい緑色の粒子。彼女が俺の名前を呼ぶだけで、暴力的な色彩の嵐は凪ぎ、世界は静謐な雨音に包まれる。
「カイ、またそんな難しい顔して」
カフェの窓際で、リナが笑いながらカップを傾ける。彼女の声が、テーブルの上に淡い翠の光の輪を広げた。俺は外界の情報を遮断するためにいつも被っているイヤーマフを少しずらし、彼女の音だけを心に取り込む。
「世界の音が、少しうるさくてな」
「いつも言ってる。でも、カイにはそう『見える』んだもんね」
彼女は俺の能力を、ただの個性として受け入れてくれる。その事実に、どれだけ救われていることか。俺は彼女の存在を確かめるように、その翠色の輪郭を瞳に焼き付けた。この色だけは、決して失いたくない。そう、強く思った。
第二章 静かなる侵食
近頃、街では奇妙な噂が囁かれていた。「昨日まで隣にいたはずの男が、誰の記憶からも消えた」「常連だった店の名前が思い出せない」。人々はそれを『無音の侵食』と呼び、恐れた。認識の網の目からこぼれ落ち、忘れ去られた者は消える。その恐怖が、人々をさらに饒舌にさせていた。街の色彩は、不安という名のどす黒い絵の具が加わり、以前にも増して混沌を極めていた。
俺には、その現象が別のものとして見えていた。
街のあちこちに、色が抜け落ちたような「無色の染み」が広がっていくのが分かった。それは音の減衰などという生易しいものではない。存在そのものを構成する色彩が、根こそぎ漂白されていくような、絶対的な虚無。人々はその染みに気づかず、その上を歩き、語り合っている。しかし、染みに触れた存在の音は、確実にその彩度を失っていく。
ある日、大通りを歩いていると、広場の中心にある噴水の色が、まるで古い写真のようにセピア色に褪せ始めていることに気づいた。そして、その中心に、俺は感じた。決して音を発さず、ただ静かにそこにある、純粋な『無』を。それは黒でも白でもない。色の概念そのものが存在しない、底なしの虚空だった。背筋を冷たい何かが駆け上る。あれは、この世界にあってはならないものだ。
第三章 翠雨の褪色
その予感は、最悪の形で現実となった。
いつものカフェでリナと向かい合っていた時だ。他愛もない話をして笑い合う彼女の声は、今日も美しい翠雨の色をしていた。だが、ふとした瞬間、その翠色の輪郭が陽炎のように揺らぎ、ほんの一瞬、色が薄まったのを俺は見逃さなかった。
「……リナ?」
「ん? どうかしたの、カイ」
彼女は不思議そうに首を傾げる。彼女自身には、何の変化も感じられないようだった。しかし、俺の目にははっきりと見えた。彼女の指先が、ほんのわずかに透けている。まるで、世界が彼女という存在を忘れかけているかのように。
胸が氷の塊で満たされたような感覚に襲われた。
侵食は、もうリナのすぐそばまで迫っている。
どうして。なぜリナなんだ。彼女は誰よりも優しく、誰よりも多くの人々と心を通わせている。彼女が誰かから忘れられるはずがない。なのに、世界は彼女を拒絶し始めている。
「いや、なんでもない」
平静を装って答える声が、自分でも驚くほど震えていた。俺はテーブルの下で固く拳を握りしめる。リナの翠雨の色が、この世界から消えることなど、あってはならない。絶対に。
第四章 残響の砂時計
リナを救う術を探し、俺は街で最も古い図書館の、埃を被った禁書庫に忍び込んだ。忘れ去られた伝承の中に、何か手がかりがあるかもしれない。そう信じて、何日も書物を漁り続けた。そして、ついに見つけ出したのだ。羊皮紙に記された、一つの遺物に関する記述を。
『残響の砂時計』。
内包した一つの音の波形(存在)を、世界の認識から切り離し、永遠に保持する器。しかし、砂が満ち、その存在が完全に器に封じられた時、世界はそれを完全に忘却する。
それは、救いであると同時に、絶望的な賭けだった。
リナの存在を砂時計に移せば、侵食からは守れる。だが、それは彼女を世界から隔離し、俺以外の誰もが彼女を忘れてしまうことを意味する。
迷っている時間はなかった。リナの翠雨は、日増しにその輝きを失っていく。もう決めるしかなかった。
俺は伝承を頼りに砂時計を見つけ出し、リナの元へ走った。
「リナ、少しだけ、君の音を預からせてくれないか」
事情を全て話すことはできなかった。ただ、必死の形相の俺を見て、リナは黙って頷いた。俺は震える手で砂時計を彼女にかざす。すると、彼女の身体から翠色の光の粒子が、吸い込まれるように砂時計の中へと流れ込み始めた。
ガラスの容器が、美しい翠の砂で満たされていく。
それと同時に、目の前にいるリナの姿が、急速に透明になっていく。
「カイ……」
最後に聞こえた彼女の声は、ほとんど色を失っていた。そして、砂時計が完全に満たされた瞬間、リナの姿は掻き消えた。
世界から、リナ・という存在の音が消えた。カフェの店員も、道行く人々も、誰一人彼女のことを覚えていない。俺の記憶の中にだけ、あの翠雨の音色が鮮やかに残響している。孤独と喪失感が、胸を張り裂きそうに締め付けた。
第五章 無色の真実
リナの音を宿した砂時計を胸に、俺はあの「無色の空間」の中心へと足を踏み入れた。翠の砂が放つ微かな光が、俺を虚無の侵食から守ってくれているようだった。
空間の中心には、人型の光があった。色もなければ、音もない。ただ、圧倒的な『存在』だけがそこにあった。俺が『純粋な無色』と感じたものの正体だった。
『来たか。エラーの残滓よ』
声ではない。思考が直接、脳内に響き渡る。
「お前が、この侵食を? なぜリナを消そうとした!」
俺は砂時計を握りしめ、叫んだ。
『我は『忘却の調律者』。この世界の調和を保つ者。この世界はかつて、憎悪と悲しみが織りなす『争いの音』で崩壊寸前にまで陥った。我らは二度と過ちを繰り返さぬよう、その原因となった記憶、それに連なる全ての存在を、根源から抹消しているのだ』
調律者の言葉は、淡々と、しかし絶対的な真実として俺の意識を貫いた。
『リナという個体は、その忘れ去られるべき血族の末裔。故に、抹消の対象となった』
「そんな……勝手な理屈があるか!」
『そして、お前自身もまた、その抹消処理からこぼれ落ちた『悲しみの記憶』の断片が集まって生まれたイレギュラーな存在。だからこそ、我らが見えぬはずの『痕跡の色』を認識できるのだ』
衝撃の事実に、言葉を失った。俺自身が、忘れ去られた過去の亡霊だったというのか。リナを救いたいと願うこの心さえも、プログラムのエラーに過ぎないというのか。
第六章 君の音色を世界へ
調律者は、俺に究極の選択を突きつけた。
『その砂時計をここに置けば、少女の存在は完全に消滅し、世界は偽りの、しかし永遠の平穏を保つだろう。だが、もしその砂を世界に還すならば、少女は蘇る。だが同時に、我らが封じた『争いの記憶』もまた、世界に漏れ出すことになる。世界は再び、過去の過ちを繰り返すかもしれん。選ぶがいい』
偽りの平和か、それとも痛みを伴う真実か。
俺は胸に抱いた砂時計を見つめた。ガラスの中で、リナの翠雨が静かに輝いている。
過ちを忘れた平和に、何の意味がある。痛みを忘れ、ただ安穏と続く世界は、本当に生きていると言えるのか。リナが教えてくれた、あの優しい音色。悲しみを知るからこそ生まれる優しさだって、きっとあるはずだ。
「間違っているのは、お前たちだ」
俺は顔を上げ、調律者を真っ直ぐに見据えた。
「過ちを忘れるんじゃない。過ちと共に生きて、それでも誰かを愛そうとすることにこそ、意味があるんだ!」
俺は砂時計を高く掲げ、逆さにした。
翠色の砂が、光の奔流となって世界に解き放たれる。同時に、俺の身体の内側からも、封じられていた無数の色彩――忘れ去られたはずの『悲しみの記憶』が溢れ出し、世界へと響き渡った。
世界が、震えた。
街は一瞬、悲鳴のような不協和音に包まれたが、やがてそれは、無数の新しい音色へと変わっていった。人々は忘れていた痛みを取り戻し、戸惑い、泣き、それでも、隣にいる誰かの手を握りしめていた。
気がつくと、俺は元の広場に立っていた。
そして、目の前に、彼女がいた。
「カイ……おかえり」
リナが、少しだけ泣きそうな顔で微笑んでいた。彼女が紡ぐ音は、以前よりもずっと深く、そして優しい『翠雨』の色をしていた。
世界はもう元には戻らないだろう。俺たちは、忘却という安寧を捨てたのだ。
だが、俺は後悔していなかった。
リナの翠雨の音色が響くこの世界でなら、きっとどんな未来だって乗り越えていける。俺は彼女の手を取り、色と音を取り戻した世界を、二人で歩き始めた。