第一章 後悔の色彩
水瀬奏(みなせかなで)の人生は、常に鈍色の後悔で塗りつぶされていた。上司に意見を言えなかった会議の後、友人の誘いを断ってしまった夜、レジで小銭を探す老婆を急かしてしまった朝。些細な、しかし確かな棘として心に残る後悔たちが、彼の輪郭を曖昧にぼやかしているようだった。
その日も、奏は後悔を一つ増やしていた。降りしきる雨の中、傘を持たない同僚に、折り畳み傘を貸す勇気が出なかった。びしょ濡れになる彼を横目に、自分だけが濡れない気まずさが、冷たい雨粒のように肌を打つ。逃げるように駆け込んだのは、駅前の路地裏にひっそりと佇む古書店だった。黴と古い紙の匂いが、現実の湿り気を少しだけ忘れさせてくれる。
書架の間を彷徨ううち、一冊の古びた本が目に留まった。装丁は黒い革で、タイトルも著者名もない。まるで誰かの個人的な日記のようだ。何かに引かれるようにそれを手に取り、そっと表紙を開いた。その瞬間、インクの染みのように、視界が真っ黒に塗りつぶされた。
次に目を開けた時、奏は硬い石畳の上に横たわっていた。黴臭さの代わりに、焼きたてのパンと、嗅いだことのない甘い花の香りが鼻をつく。見上げた空には、乳白色の巨大な月と、それによりそうように浮かぶ翡翠色の小さな月が、双子のように輝いていた。煉瓦造りの建物が並ぶ街並みは、明らかに彼が知る日本の風景ではなかった。
呆然と身体を起こした奏の目に、信じられない光景が飛び込んできた。道行く人々から、ゆらゆらと色のついた煙のようなものが立ち上っているのだ。老婆の肩からは深い紫色の煙が、パン屋の屈強な店主からはくすんだ橙色の煙が、恋人らしい男女の片割れからは、淡いピンクに混じってチリチリと燃えるような灰色の煙が見える。
それはオーラとも気とも違う、もっと生々しく、痛々しい何かだった。そして、奏は直感的に理解した。これは、人々の心から滲み出す「後悔」の色なのだ、と。なぜなら、彼自身の胸からも、見慣れた鈍色の煙が、弱々しく立ち上っていたからだ。ここは一体どこで、自分はどうしてしまったのか。答えのない問いだけが、二つの月の下、静かに響いていた。
第二章 紫煙とパンの香り
異世界「アウレオ」での生活は、戸惑いの連続だった。言葉は不思議と通じたが、奏の持つ知識や常識は何一つ役に立たない。彼にできたのは、日雇いの雑用でわずかな日銭を稼ぎ、街の片隅にある安宿のベッドで、毎夜見知らぬ天井を見つめることだけだった。
しかし、彼にとって最も大きな混乱の種は、日に日に鮮明になっていく「後悔の色彩」だった。彼は人々の纏う色から、その人物が抱える心の痛みを、嫌でも感じ取ってしまうようになった。
宿屋の老婆、エルマの肩から立ち上る深い紫煙。それは、何十年も前に亡くした夫へ、最期に「愛している」と伝えられなかった後悔の色だった。彼女が窓辺で遠くを見つめる時、その紫は一層濃くなり、奏の胸を締め付けた。
パン屋の主人、ゲルドのくすんだ橙色。彼は若い頃、彫刻家になる夢を諦めて家業を継いだ。客の子供が木の枝で人形を作って遊んでいるのを見るたび、その橙は苦々しげに揺らめく。彼の焼くパンは街一番の評判だったが、その香ばしい香りの中に、奏はいつでも消えない夢の残滓を感じ取っていた。
奏は、この能力を疎ましく思った。他人の痛みに触れるのは、自分の無力さを突きつけられるようで辛かった。現実世界でそうしてきたように、彼は人々から距離を置き、目を伏せ、後悔の色を見ないように努めた。自分の鈍色の後悔だけで、もう十分だった。
ある日、奏が広場で荷運びの仕事をしていると、エルマがよろけて石段から落ちそうになった。咄嗟に駆け寄り、その腕を支える。触れた瞬間、彼女の深い紫の煙が、まるで生き物のように奏の腕に絡みついた。脳裏に、病床の夫の手を握りながら、ついに言葉を紡げずに俯く若き日のエルマの姿が、幻のように流れ込んできた。
「……大丈夫ですか」
声を絞り出した奏に、エルマは「ありがとう、助かったよ」と微笑んだ。その笑顔の裏で、紫煙が悲しげに揺れている。奏は、たまらず口を開いていた。
「あなたの旦那さんは、きっと分かってましたよ。言葉にしなくても、あなたの気持ちは」
エルマは驚いたように目を見開いた。奏は慌てて言葉を続ける。
「……あなたの手が、とても温かいから。その温もりだけで、きっと伝わっていたはずです」
根拠のない、気休めの言葉だった。だが、エルマの目から一筋の涙がこぼれ落ち、彼女の肩から立ち上る紫煙が、ほんの少しだけ淡くなったのを奏は見た。ありがとう、と老婆はもう一度、今度は震える声で呟いた。
その日を境に、奏の心に小さな変化が生まれた。後悔の色は、ただ痛々しいだけのものではないのかもしれない。それは、その人が何を大切にし、何を愛してきたかの証でもあるのだ。彼は自分の能力から逃げるのをやめた。現実世界ではできなかった「他者との関わり」を、この奇妙な能力を通して、少しずつ始めてみようと思ったのだ。
第三章 無色の少女
奏がアウレオの街でささやかな役割を見出し始めた頃、彼はその少女に出会った。広場の噴水で水浴びをする鳥たちに、屈託のない笑顔を向ける少女。彼女の名前はリラ。透き通るような白い肌と、亜麻色の髪を持つ、不思議なほど純粋な気配を纏った少女だった。
そして何より奏を驚かせたのは、彼女から、後悔の色が一切見えないことだった。誰もが大小様々な色の煙を纏うこの世界で、彼女だけが完全に「無色」だったのだ。その存在は、まるで曇り空に差し込む一筋の光のように、奏の目には眩しく映った。
奏は自然とリラに惹きつけられた。彼女と話している時だけは、他人の後悔に心を痛めることも、自分自身の鈍色の後悔に苛まれることもなかった。リラは奏の身の上話を決して詮索せず、ただ彼の隣で穏やかに微笑んでいるだけだった。その沈黙は、どんな慰めの言葉よりも奏の心を癒した。
だが、平穏は長くは続かなかった。街に奇妙な現象が起こり始めたのだ。人々が纏う後悔の色が、ある日を境に急速に薄れ、やがて完全に消えてしまう。そして、色を失った者は、まるで糸の切れた人形のように感情を失い、大切な記憶さえも忘れていく。人々はそれを「色喰い」と呼び、得体の知れない疫病として恐れた。
パン屋のゲルドも、その犠牲者の一人だった。彼のくすんだ橙色は消え失せ、彫刻家になる夢を抱いていたことすら忘れ、ただ機械的にパンを焼き続けるだけの男になってしまった。街から活気が失われ、重苦しい空気が漂い始める。
奏は原因を探るうちに、街の古文書館で、アウレオの成り立ちに関する衝撃的な記述を発見した。この世界は、死の間際に「やり直したい」と強く願った者たちの後悔の念が集まって生まれた、魂の寄る辺。ここにいる人々は、後悔そのものを存在の糧としているのだ。そして、その後悔が浄化され、消え去る時、彼らの存在もまた、この世界から消滅する。
古文書の最後には、こう記されていた。「世界の後悔が飽和する時、それを浄化し、魂を安らかな無に還すため、『調停者』が現れる。調停者は、いかなる後悔も持たぬ無垢なる魂であり、その存在は触れる者すべての後悔を癒し、そして消し去るだろう」
奏は全身から血の気が引くのを感じた。後悔を持たぬ、無垢なる魂。――リラだ。彼女こそが、この世界を終わらせるために生まれた存在、「調停者」だったのだ。「色喰い」の正体は病などではない。リラという存在そのものが引き起こす、魂の浄化作用だった。彼女の純粋な優しさに触れることで、人々は後悔から解放され、安らかに、しかし確実に消滅へと向かっていた。
奏はリラの元へ走った。彼女はいつものように噴水の縁に座り、楽しそうに鼻歌を歌っていた。その無邪気な横顔を見つめながら、奏は絶望的な真実に打ちのめされる。この優しい少女が、人々を、そしていずれは自分自身をも消し去る存在だというのか。自分の安らぎの場所だと思っていた彼女との時間が、実は世界を終わらせるための儀式だったというのか。奏の足元が、ぐらりと揺れた。
第四章 君がくれた赦し
奏は激しく葛藤した。リラに真実を告げるべきか。彼女の行いを止めさせるべきか。だが、止めてどうなる?人々は永遠に後悔を抱えたまま、この仮初めの世界で生き続けるのか。それは本当に救いと言えるのだろうか。
彼は、現実世界で後悔ばかりだった自分の人生を思い返した。あの息苦しさ、無力感。もし、それから解放されるとしたら……。消えることは、ある意味では救済なのかもしれない。しかし、ゲルドの虚ろな目や、感情を失った人々の姿が脳裏をよぎる。後悔は苦しい。だが、夢に焦がれた熱も、誰かを愛した痛みも、すべては後悔と共にある。それを失うことは、生きていた証そのものを失うことではないのか。
数日間、奏はリラを避け続けた。だが、彼の胸から立ち上る鈍色の煙は、これまで以上に濃く、重くなっていた。逃げているだけでは、また後悔が増えるだけだ。彼は、ようやく心を決めた。
奏はリラの元へ向かった。彼女に真実は告げない。彼女を罪悪感で苦しませるわけにはいかない。その代わり、自分にしかできないことをやろうと決めたのだ。
彼はまず、色を失いかけているエルマの元を訪れた。
「エルマさん。あなたの後悔は、あなたが旦那さんを深く愛していた証拠です。その紫色は、誰にも真似できない、美しい愛の色ですよ」
奏の言葉に、エルマは虚ろな目にかすかな光を宿した。薄れかけていた紫煙が、最期の蝋燭のように一度だけ強く輝き、そして穏やかに消えていった。彼女は満足げな笑みを浮かべ、透き通る光の粒となって霧散した。それは、虚無への消滅ではなく、魂の昇華のように見えた。
奏は街を回り、人々が消えゆくその瞬間に立ち会った。自分の能力を使い、彼らの後悔を、彼らが生きてきた人生の証として肯定し続けた。夢を諦めた後悔があったからこそ、人を幸せにするパンが焼けたのだと。友を裏切った後悔があるからこそ、誰よりも人の痛みが分かるようになったのだと。
それは、彼が現実世界で最もしたかったこと――他者と深く関わり、その心に寄り添うこと――だった。皮肉にも、彼はこの消えゆく世界で、ようやく自分の生きる意味を見出したのだ。
やがて、街には奏とリラの二人だけが残された。奏は、自分の胸から立ち上る鈍色の煙が、リラの隣にいるだけで少しずつ薄れていくのを感じていた。消滅の時が近い。
「奏さん、みんな、どこへ行っちゃったの?」
リラが不安そうに尋ねる。奏は穏やかに微笑んで、彼女の頭を優しく撫でた。
「みんな、旅に出たんだよ。自分の人生に満足して、次の場所へ」
「そっか。奏さんも、行くの?」
「ああ。でも、もう怖くない」
奏は自分の胸に手を当てた。鈍色の煙は、ほとんど見えなくなっていた。
「俺は、ずっと後悔ばかりだった。何も成し遂げられなかったし、誰の役にも立てなかった。でも、ここに来て、君に出会って、たくさんの人の最期に立ち会って、分かったんだ。後悔は、無くすべきものじゃなかった。それも全部、俺が生きてきた証だったんだって」
君が、それを教えてくれた。君が、俺の人生を肯定してくれたんだ。
「ありがとう、リラ」
奏の言葉と共に、彼の身体が淡い光を放ち始める。リラは驚きも悲しみも見せず、ただじっと、その美しい光景を見つめていた。
「さようなら、奏さん」
その声は、まるで世界の始まりの音のように、静かに響いた。奏の意識は、温かい光の中に溶けていく。現実世界で感じていた息苦しさも、自己嫌悪も、もうどこにもなかった。心は、生まれて初めて感じるほどの、完全な安らぎに満たされていた。後悔と共にあった人生は、この異世界で、静かに、そして美しく完結したのだ。
誰もいなくなった街に、リラが一人佇んでいる。彼女は空に浮かぶ二つの月を見上げ、そして、まだ見ぬ次の後悔が集まる世界へと、その小さな一歩を踏み出したのかもしれない。あるいは、これがすべての終わりで、彼女の役目もまた、終わったのかもしれない。答えは、もう誰にも分からなかった。