音の墓標

音の墓標

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第一章 殺された残響

神保響介の仕事は、時間を遡ることだった。音響修歴師である彼は、傷ついたレコードの溝や、劣化した磁気テープの粒子から、死に絶えたはずの音を掬い上げ、現代に蘇らせる。彼の指先と鋭敏な聴覚は、過去への扉を開く鍵だった。だから、老婆、藤乃千鶴が彼のスタジオの扉を叩き、「音が殺されたのです」と告げた時も、彼はそれを詩的な比喩だと受け取った。

「殺された、ですか。テープの劣化か、あるいは録音時のノイズ混入でしょうか」

響介は、カウンター越しに立つ小柄な老婦人を見つめた。上質だが着古されたシルクのブラウスに、深く刻まれた目元の皺が、彼女の生きてきた年月の長さを物語っている。

「いいえ、違います。響介さん。あれは、明確な殺意をもって消し去られたのです」

千鶴の声は、古いチェロのように低く、それでいて凛とした響きを持っていた。彼女は震える手で、古びたオープンリールのテープが入った箱を差し出した。

「私の、一番大切な思い出の音が。犯人を見つけ、なぜそんな酷いことをしたのか、突き止めていただきたいのです」

響介はため息を隠し、テープを受け取った。高名な元ピアニストであった千鶴は、引退後、亡き夫が遺した広大な屋敷で静かに暮らしていると聞いていた。老いがもたらす感傷だろう、と彼は結論付けた。しかし、プロとして依頼を無下にはできない。

彼はテープを再生機にセットした。ヘッドホンを装着すると、まず雨の音が聞こえてきた。ざあざあと降りしきる夏の夕立。やがて雨足が弱まり、ぱらぱらと葉を叩く音に変わる。そして、微かな風の音と共に、リーン、と涼やかな風鈴の音が響いた。チタン製だろうか、非常にクリアで、長く伸びる残響が美しい。

「……この音ですか」

響介が尋ねると、千鶴は首を横に振った。

「その、次です。雨が完全に上がり、風が一度だけ、悪戯のように吹き抜ける。その時に鳴る、最後の、最後のひと揺らぎ。か細く、消え入りそうで……でも、確かにそこにあったはずの音が」

響介は眉をひそめ、再生を続ける。風鈴の音は、美しい減衰曲線を描きながら静寂に溶けていく。だが、千鶴の言う「最後のひと揺らぎ」は、確かに存在しなかった。いや、それどころか、最後の残響が完全に消える直前、まるで鋭利な刃物で切り取られたかのように、ぷつりと不自然に途切れている。スペクトルアナライザの画面上でも、その断絶は明らかだった。

「これは……テープの物理的な損傷ですね。この部分だけ磁性体が剥がれ落ちたのでしょう」

響介は、あくまで科学的な見地から説明した。しかし、千鶴は静かに、だが断固として言った。

「いいえ。テープだけの話ではないのです。私の記憶からも、この世界のどこからも、あの音は消えてしまった。昨日までは、確かに聞こえていたのに。あれは、殺されたのです」

その言葉には、狂気と紙一重の、しかし揺るぎない確信が宿っていた。響介は初めて、この奇妙な事件が、単なるテープの修復依頼ではないことを悟った。彼の日常は、非科学的な響きを伴って、静かに覆されようとしていた。

第二章 不協和音の屋敷

翌日、響介は最新の音響分析機材を携え、郊外に立つ藤乃邸を訪れた。蔦の絡まる洋館は、まるで時が止まったかのような静寂に包まれている。出迎えたのは、千鶴の甥だという倉田正隆と、若い家政婦の早乙女美咲だった。

「叔母の戯言にお付き合いいただき、恐縮です」

正隆は神経質そうに眼鏡を押し上げながら言った。彼は叔母の財産管理をしており、その莫大な遺産を心待ちにしているという噂を、響介は耳にしていた。

「最近、少し物忘れがひどくなられて。思い出に固執されているのですよ」

家政婦の美咲は、黙って響介たちにお茶を淹れていた。その伏せられた目に宿る感情は読み取れないが、彼女が千鶴に献身的に仕えていることは、その丁寧な所作から窺えた。

響介は千鶴に案内され、問題の風鈴が吊るされているサンルームへと向かった。ガラス張りの天井から陽光が降り注ぎ、埃がきらきらと舞っている。窓辺には、くすんだ銀色の風鈴が、音もなく揺れていた。

「祖父の形見です。特殊な合金でできていて、世界に二つとない音色を奏でる、と自慢しておりました」

響介は高感度マイクを設置し、風鈴の音を録音した。風が吹き、リーン、と澄んだ音が響く。彼はその音響データを再生し、昨日のテープの音と比較する。周波数、倍音構成、減衰率。すべてが一致する。だが、やはり、あの「最後のひと揺らぎ」だけが存在しない。まるで、その音を発する物理法則そのものが、この世界から書き換えられてしまったかのようだ。

「非科学的だ……」

響介は呟いた。彼は音を物理現象として捉えてきた。空気の振動、鼓膜の震え、脳が解釈する信号。そこに「殺意」や「消失」といった概念が入り込む余地はないはずだった。

調査は難航した。屋敷中の音を記録し、分析しても、異常は見当たらない。正隆は遺産相続を早めたいという動機があるし、美咲も千鶴の信頼を一身に受けているが故に、何かを隠している可能性はあった。だが、彼らが「音を殺す」などという奇術めいた犯行を、どうやって実行するというのか。

響介は次第に、千鶴の精神状態を疑い始めていた。彼女の言う「殺人」は、迫りくる老いと死への恐怖が生み出した妄想なのではないか。しかし、彼女と話すたびに、その考えは揺らいだ。千鶴が語る「消えた音」の描写は、あまりにも鮮明で、官能的ですらあった。

「あの音はね、夏の終わりの匂いがするの。濡れた土と、葉叢の緑の匂い。そして、遠い日の祖父の優しい眼差し。そのすべてが、あの一瞬の響きに詰まっていた……」

その言葉を聞くうちに、響介は自身の仕事の意味を問い直していた。自分はただ、音の波形を修復しているだけではないか。その音に込められた人の記憶や感情まで、本当に蘇らせることができているのだろうか。この非科学的な事件は、彼の理性と感性の境界線を、静かに侵食し始めていた。

第三章 音のアンチテーゼ

突破口は、思わぬところから見つかった。響介が書斎の整理を手伝っていると、古い革張りの日記帳が本棚の奥から滑り落ちた。それは、千鶴の祖父、藤乃奏一郎のものであった。彼は高名な物理学者だったと聞いている。

日記をめくると、難解な数式や音響物理学に関する記述が続く中に、響介は奇妙な言葉を見つけた。『音の墓標』。そして、それに続く一文。

『あらゆる音には、その音を完璧に打ち消す「逆位相の音」、すなわちアンチテーゼが存在する。もし、特定の音のアンチテーゼを生成し、完璧なタイミングでぶつけることができれば、その音は観測者にとって「存在しなかった」ことになるのではないか。それは音の暗殺、静寂による完全犯罪だ』

響介の背筋に冷たいものが走った。これは、単なる理論ではない。奏一郎は、特定の音をこの世界から抹消する技術を研究していたのだ。日記には、そのための装置の設計図らしきものまで描かれていた。複雑な共鳴管と電子回路を組み合わせた、まるで楽器のような、あるいは拷問器具のような機械。

全身が粟立つような興奮と恐怖に駆られ、響介は日記を手に千鶴の元へ急いだ。

「千鶴さん、これは一体……」

サンルームの椅子に腰かけていた千鶴は、響介が差し出した日記を一瞥し、そして、すべてを悟ったかのように静かに微笑んだ。その表情は、長年背負ってきた秘密を、ようやく打ち明けることができる安堵に満ちていた。

「見つけてくださいましたか。私の、ささやかな墓標を」

その瞬間、すべてのピースが繋がった。犯人は正隆でも美咲でもない。他の誰でもない。

「あなたが……あなたがやったのですね?」響介の声は震えていた。「あなた自身が、思い出の音を消した」

千鶴はゆっくりと頷いた。

「ええ。最近、物事を忘れることが多くなりました。医師は、アルツハイマーの始まりだろうと。私は怖かった。何よりも、祖父とのあの一番美しい思い出が、病によって歪められ、醜く変容していくことが。汚れた記憶の中で、あの聖なる音が鳴り響くなど、耐えられなかったのです」

彼女は立ち上がり、サンルームの隅に置かれた観葉植物の鉢植えを動かした。その下の床板を外すと、暗い空洞が現れ、中には日記の設計図と寸分違わぬ、複雑で美しい機械が鎮座していた。

「祖父が遺した研究を、私が完成させたのです。あの風鈴の、最後のひと揺らぎの音。その周波数、倍音、減衰のパターン……すべてを解析し、その音だけのアンチテーゼを生成する装置を。そして昨日、風が吹く完璧なタイミングで、スイッチを押しました」

それは、究極の愛情表現だった。最も大切なものを、永遠に失われる前に、最も美しい形のまま、自らの手で葬り去る。世界からその音を消し去ることで、誰にも汚させない聖域として、自分だけの心の中に封印する。響介は言葉を失った。これは殺人だ。しかし、そこには憎悪のかけらもなく、ただ、あまりにも純粋で、狂気的なまでの愛だけがあった。

彼女が響介を呼んだのは、犯人を見つけて罰してほしかったからではない。この世界でただ一人、自分の行為を、その動機を、その技術的な達成を、真に理解できるであろう専門家に、自らの「完全犯罪」を証明してほしかったのだ。

第四章 静寂のアリア

「素晴らしい……完璧な仕事です」

響介は、床下の装置を見つめながら、絞り出すように言った。それは音響修復師として、最高の賛辞だった。音を蘇らせることを生業としてきた彼が、音を完璧に消し去った技術を前に、ただ畏敬の念を抱いていた。

千鶴は満足そうに微笑んだ。「ありがとう、響介さん。あなたにだけは、分かってもらえると信じていました」

響介は顔を上げた。彼の価値観は、根底から覆されていた。音は、ただ記録され、再生され、修復されるべき物理現象ではなかった。それは人の魂と結びつき、記憶そのものとなり、時には、永遠に守り抜くために「殺される」べき、尊い存在にさえなるのだ。

彼は、千鶴を告発しなかった。そもそも、これは法で裁ける犯罪ですらない。ただ、一人の人間が、自らの記憶と世界を守るために行った、静かな儀式なのだ。響介は機材を片付け、黙って藤乃邸を後にした。千鶴は、もう何も言わなかった。二人の間には、言葉は不要だった。

帰り道、また雨が降り始め、そして止んだ。湿ったアスファルトの匂いを乗せた風が吹き抜け、どこかの家の軒先で、チリン、と風鈴が鳴った。響介は、思わず足を止める。彼は耳を澄ませたが、聞こえてくるのはありふれた風鈴の音だけだった。

あの、千鶴が愛した「最後のひと揺らぎ」は、もう二度とこの世界のどこにも響くことはない。

しかし、その完全な不在は、奇妙なことに、その音の存在をより強く響介の心に刻みつけていた。失われたことで初めて知る、存在の重み。それは、決して聴くことのできない、最も美しい音楽だった。

響介は、空を見上げた。彼の鋭敏な聴覚は、もはや物理的な音の波形だけを追ってはいない。彼は、世界から消え去った一つの音が奏でる、壮大な静寂のアリアを聴いていた。それは、ある老婦人の愛の深さを物語る、途方もなく切なく、そして限りなく優しい残響となって、彼の魂に永遠に響き続けるだろう。

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