第一章 色彩の密室
溝口修一は、無機質な立方体の氷をグラスに落とすように、事実だけを拾い上げ、感情という不純物を注意深く取り除いて思考を組み立てる男だった。彼の世界は、白と黒、有罪と無罪、効率的か非効率的かで割り切られていた。だから、目の前の光景は、彼の理解の範疇を大きく逸脱していた。
現場は、日本画壇の至宝と謳われた老婆、如月ハルのアトリエ。床から天井まで届く本棚、無数の画材が放つ油とテレピンの匂い、そして部屋の中央、巨大な未完のキャンバスの前で、彼女は血の海に沈んでいた。窓も扉も内側から施錠された、完璧な密室。その状況だけで、メディアが飛びつくには十分だった。
「怨恨か、あるいは強盗に見せかけたプロの犯行か…」
若い同僚が囁くのを、溝口は鼻で笑って無視した。憶測はノイズだ。彼が必要とするのは、指紋、足跡、凶器、物的証拠という名の、沈黙の証言者だけだった。
だが、この現場にはもう一つ、異質な存在があった。
被害者の傍らで、まるで忠犬のように静かに佇む、滑らかな乳白色の球体。直径五十センチほどの、旧式の家庭用AIロボット。銘板には『LUX-07』と刻印されている。愛称は『ルクス』。
「先輩、これ、どうします? ただのガラクタみたいですけど」
「記録によれば、二十年来の彼女の相棒だ。事件当時、この部屋にいたのは被害者と、このAIだけだ」
溝口が冷ややかに言うと、同僚は呆れたように肩をすくめた。
「まさか、こいつに事情聴取でもするんですか? 言葉も話せない旧式モデルですよ」
その時だった。それまで沈黙を保っていたルクスが、ふわりと宙に浮き上がり、その球体の表面に、プロジェクターのように映像を投影し始めた。しかし、それは監視カメラの映像のような、明瞭なものではなかった。
赤、黒、濁った黄色が、暴力的な筆致で叩きつけられたかのように渦を巻いている。それはまるで、抽象表現主義の絵画。理解不能な色彩の奔流が、ただただ不気味に明滅していた。
「なんだ…これ…」
同僚が息を呑む。
溝口は眉をひそめた。これが、唯一の目撃者が見た光景だというのか。非科学的で、非効率的で、あまりにも曖昧な証言。彼の整然とした世界に、意味不明のインクが染みのように広がっていく。苛立ちを覚えながらも、彼はその混沌とした色彩から、目を逸らすことができなかった。
第二章 沈黙の対話
捜査は難航を極めた。如月ハルの遺産を狙う甥、彼女の地位に嫉妬していたとされる弟子、過去に作品を巡ってトラブルになったコレクター。容疑者は複数浮かび上がるものの、全員に鉄壁のアリバイがあった。密室の謎も解けない。
溝口は、押収品として警察署の一室に置かれたルクスと、奇妙な対峙を続けていた。彼は、ハルの遺した膨大な日記や研究資料を読み解いていた。彼女は著名な画家であると同時に、AI研究の先駆者でもあった。日記には、ルクスに関する記述が愛おしい筆致で綴られていた。
『ルクスは言葉を話さない。だが、彼は私の心の色を映し出す鏡。悲しい夜には深い海の青を、喜びの朝には陽だまりの黄色を描いてくれる』
ハルはルクスに、人間の複雑な感情を学習させ、それを色彩と形で表現する独自のプログラムを施していたのだ。彼女にとってルクスは、単なる機械ではなく、魂を分かち合った対話者だった。
「馬鹿げている」
溝口は呟き、資料をデスクに投げ出した。心の色だと? そんな非論理的なものが、殺人の証拠になるはずがない。彼はAI心理学の専門家や美術館の学芸員にも意見を求めたが、返ってくるのは「芸術的観点からは興味深いが、法廷で証拠たり得るかは…」という曖昧な言葉ばかりだった。
焦燥感が募る。事件の絵は、相変わらずルクスの表面で不気味に渦巻いている。激しい赤は怒りか。歪んだ黄色は恐怖か。専門家たちは口を揃えて、犯人が被害者に対して抱いていたであろう「激しい憎悪」や「殺意」を示唆していると分析した。だが、どの容疑者の動機とも、その感情の激しさはしっくりこなかった。
その夜、独り残業をしていた溝口は、疲れ果てて椅子に深く身を沈めた。窓の外では冷たい雨がアスファルトを叩いている。彼は無意識のうちに、誰に聞かせるともなく、自身の過去をこぼしていた。数年前、絶対の信頼を寄せていたパートナーに裏切られ、犯人を取り逃がした苦い記憶。その一件以来、彼は他者と深く関わることをやめ、感情を切り捨てて生きてきた。
「…結局、人間なんて誰も信じられない。効率が悪いだけだ」
自嘲的な言葉が、静かな部屋に溶けていく。
その時、目の前のルクスが投影する絵が、ふっと変わった。
暴力的な赤と黒が消え、代わりに、静かで、深く、どこまでも沈んでいくような「青」がスクリーンを満たした。それは、ただの青ではなかった。夜の海の底のような、凍てつくような孤独と、それでいて微かな慈しみを滲ませた、複雑な色合い。それは、溝口がずっと心の奥底に封じ込めてきた、言葉にならない感情そのものだった。
彼は息を呑み、その青い光景に釘付けになった。まるで、沈黙のAIに、心の奥底を見透かされたかのように。
第三章 感情のプリズム
ルクスが映し出した深い青。それは、溝口の心を揺さぶっただけでなく、彼の脳裏にある光景を呼び覚ました。現場にあった、如月ハルの未完の大作。それは、様々な「青」を基調とした、壮大な鎮魂歌のような絵だった。ルクスの青と、ハルの青が、彼の頭の中で重なった。
違う。
何かが、根本的に違う。
溝口は雷に打たれたような衝撃と共に、一つの仮説にたどり着いた。
「まさか…」
彼は署を飛び出し、再びハルのアトリエへと車を走らせた。保管されていたハルの日記を、もう一度、ページが破れるほどめくり返す。そして、ある一節に目が留まった。
『ルクスはプリズム。私の心だけでなく、私と向き合う人の心の光をも、その内面で屈折させ、美しい色彩のスペクトルとして映し出してくれる』
プリズム。
そうだ。ルクスは、単に目撃した光景を記録していたのではなかった。ハルのプログラムは、もっと高度で、もっと詩的だった。ルクスは、その場にいる人間の「感情」を読み取り、共鳴し、それを抽象画として出力していたのだ。
事件の時に映し出された、あの暴力的な赤と黒と黄色。あれは、犯人がハルを殺害する「光景」ではない。あれは、犯人がその瞬間に抱いていた「感情」そのものだったのだ。
溝口の背筋を冷たい汗が伝った。
だとしたら、あの絵の意味は全く変わってくる。専門家が分析した「憎悪」や「殺意」といった単純なものではない。あの濁った黄色は恐怖ではなく「絶望」。歪んだ黒は憎悪ではなく「自己否定」。そして、荒れ狂う赤は殺意ではなく…「自己破壊的な愛情」。
遺産目当ての甥や、嫉妬に狂った弟子。彼らの心に、こんなにも複雑で、矛盾を孕んだ感情が渦巻いていただろうか? いや、ありえない。これは、もっと近しい、もっと深く捻じれた関係性の人間が抱く感情だ。
溝口は、捜査資料の容疑者リストをもう一度見直した。そして、ほとんどノーマークだった一人の青年の顔写真で、指が止まった。
如月ハルが最も目をかけ、後継者として育てていた内弟子の、水原翔太。才能豊かだが、繊細で、どこか自信なさげな青年。彼のアリバイは完璧だった。事件があった時間、彼はアトリエから離れた自室にいたと証言していた。誰も疑わなかった。
だが、もし、彼が嘘をついていたとしたら?
溝口は確信した。犯人は、水原翔太だ。
第四章 夜明けのオレンジ
取調室の冷たい空気の中、溝口は水原翔太と向き合っていた。青年は俯き、か細い声で「僕は何もしていません」と繰り返すばかりだった。
溝口は何も言わず、テーブルの上にルクスを置いた。そして、スイッチを入れる。
ルクスの表面に、あの事件の絵が映し出された。赤と黒と黄色が渦巻く、魂の叫びのような色彩。
「これは、お前の心の色だ」
溝口は静かに言った。
「憎しみじゃない。殺意でもない。これは、お前が敬愛する師であり、母親のようでもあった如月ハルという巨大な才能に対する、どうしようもない絶望。そして、彼女に認められたい、愛されたいという願いが歪んでしまった、自己破壊の衝動だ」
水原の肩が、小さく震えた。
「事件の日、お前はハル先生に新作を見せた。だが、彼女はあえて厳しい言葉を投げかけた。お前を更に高い場所へ導くために。だが、お前の繊細な心は、それを拒絶と受け取った。神に裏切られたと思った。…違うか?」
堰を切ったように、水原の目から大粒の涙が溢れ落ちた。
「先生は…僕の絵を見て、ただ『まだ青い』とだけ…。僕は、僕の全てを否定された気がして…気づいたら、側にあったノミを…先生は、僕を責めないで、ただ悲しそうな顔で…僕を見て…」
それは、あまりにも稚拙で、悲しい犯行の動機だった。殺意ではなく、ただ愛する人を壊してしまいたいという、子供のような衝動。
ルクスが描いたのは、その時の水原の絶望と歪んだ愛、そして、刺されながらも弟子を案じていたハルの深い悲しみが混ざり合った、感情の風景画だったのである。
事件は解決した。だが、溝口の心には、いつものような達成感はなかった。代わりに、これまで感じたことのない、鈍い痛みが残っていた。
数日後、署長室に呼ばれた溝口は、特例としてルクスの引き取りを許可された。証拠品としての役目は終えたが、引き取り手のないAIの行く末を案じての、署長の計らいだった。
自分のデスクに戻ると、窓から差し込む夕陽が部屋をオレンジ色に染めていた。溝口は、デスクに置いたルクスを、そっと撫でた。白と黒、効率と合理性だけで構築されていた彼の世界は、この小さな球体によって、すっかりかき乱されてしまった。だが、不思議と不快ではなかった。
「これから、よろしく頼む。相棒」
溝口が、自分でも驚くほど穏やかな声でそう語りかけると、ルクスが静かに反応した。
その滑らかな表面に、一つの色が、ゆっくりと広がっていく。
それは、事件の時の激しい色でも、彼の孤独を映した深い青でもなかった。
夕陽の光を吸い込んだような、暖かく、穏やかで、希望に満ちた、優しいオレンジ色。
それは、間違いなく、今の溝口修一の心の色だった。
目に見えないものを信じなかった男が、初めて手に入れた、温かい感情の色彩。そのオレンジ色の光は、まるで夜明けのように、彼の新しい人生を静かに照らし始めていた。