レヴィアタンの夢は静謐に響く

レヴィアタンの夢は静謐に響く

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第一章 骸の中の囁き

宇宙船レヴィアタンの通路を歩くたび、リアンは自分が巨大な生物の亡骸の中を歩いているという事実を意識しないように努めていた。彼の職場であり、三百人のクルーが暮らすこの深宇宙探査船は、数万年前に死んだとされる伝説の宇宙生物「星喰らい(アストロファージ)」の骨格と外皮を基礎構造として建造されていた。有機的な曲線を描く壁、あばら骨を模したアーチ状の天井。それは工学的な合理性と、神話的な畏怖が融合した、他に類を見ない艦だった。

記録保管技師であるリアンにとって、レヴィアタンは完璧なシステムだった。論理的で、予測可能で、すべての事象がデータとして記録される閉じた世界。五年前、故郷のコロニーを小惑星の衝突で失って以来、彼は予測不能な現実よりも、確かなログが連なるデジタルの世界に安らぎを見出していた。

だが、その完璧な世界に亀裂が入り始めたのは、ひと月ほど前からだ。

「まただ……」

リアンは、自室の照明が不規則に明滅するのを見て小さく呟いた。それはまるで、巨大な心臓が弱々しく鼓動しているかのような、有機的なリズムだった。数秒後、壁の内部から微かな囁き声のようなものが聞こえた。特定の言語ではない、風が葦の原を撫でるような、あるいは砂がガラスの上を滑るような、意味をなさない音の連続。

彼はすぐにコンソールを立ち上げ、船内システムのログをチェックする。しかし、結果はいつもと同じだった。『全システム正常』。電力供給に揺らぎはなく、音響センサーにも異常はない。公式記録上、何も起きていないことになっていた。

この「幽霊現象」は船の各所で報告されるようになっていた。食堂のテーブルに一瞬だけ未知の星座のホログラムが浮かんだ、とパニックを起こした調理員。無人の貨物室から赤ん坊の泣き声が聞こえた、と訴える警備員。だが、監視カメラにもセンサーにも、その痕跡は一切残らない。

艦長から直々に、この非公式な異常現象の調査を命じられたリアンは、膨大なデータを前に眉をひそめていた。彼の論理的な精神は、記録されない出来事を認めたがらない。しかし、自身の五感は、確かに異常を捉えている。まるで、船そのものが夢を見ているかのような、奇妙で、捉えどころのない現象。

彼は壁にそっと手を触れた。硬質セラミックでコーティングされた表面はひんやりと冷たい。だがその奥に、数万年の時を超えて眠る巨大な生命の残滓がある。リアンはこれまで、それを単なる「素材」としてしか見ていなかった。だが、囁き声を聞き、脈打つ光を見るたびに、その認識は静かに揺さぶりをかけられていた。この船は、本当にただの骸なのだろうか。その問いが、彼の整然とした世界に、不協和音のように響き始めていた。

第二章 記録されない記憶

リアンは、現象の発生地点を地図上にプロットしていくうちに、ある一点にたどり着いた。船の中央深部、かつて星喰らいの脳があったとされる区画、通称「聖域」。そこは船のメインコンピュータと神経系ネットワークが最も高密度に集積された場所であり、一般クルーの立ち入りは厳しく制限されていた。

特別な許可を得て聖域に足を踏み入れたリアンは、その異様な光景に息をのんだ。ドーム状の広大な空間。壁面には無数の光ファイバーが血管のように走り、青白い光を明滅させている。それはまるで、巨大な頭蓋骨の内部にいるかのようだった。そして、静寂。ここでは、あの奇妙な囁き声は聞こえなかった。

彼は数日間、この聖域に篭もり、微細なエネルギー変動やデータパケットの漏洩を監視し続けた。しかし、やはりログには何も残らない。焦燥感が募り始めた四日目の夜、彼はふと、壁面を走る光ファイバーの明滅パターンが、完全にランダムではないことに気づいた。

それは、ある種の言語のようにも見えた。だが、既知のいかなるデータ形式とも一致しない。彼は高解像度カメラを設置し、その明滅パターンを記録、解析を試みた。すると、パターンの中に、断片的なイメージが浮かび上がってきた。流れる川、緑の丘、空に浮かぶ二つの月。

リアンの心臓が大きく跳ねた。その風景に見覚えがあったからだ。それは、彼が失った故郷、惑星カリスト IVの風景そのものだった。なぜ。なぜ船が、彼の記憶を知っている? 彼は、自分が忘れるように努めてきた、家族と過ごした丘の風景を、壁面の光の中に見ていた。悲しみと懐かしさが、論理の防壁を突き破って奔流のように押し寄せる。彼は膝から崩れ落ちそうになるのを、必死でこらえた。

これは幻覚か? 蓄積した疲労が見せている悪夢か?

いや、違う。カメラは、リアンが見ているのと同じイメージを正確に記録していた。それは客観的な事実だった。レヴィアタンは、リアンの記憶を「再生」しているのだ。記録されていないはずの、彼の脳内にしか存在しないはずの記憶を。

彼は震える手でコンソールを操作し、船の深層構造データにアクセスした。レヴィアタンの建造記録。そこには、星喰らいの神経網を完全に除去するのではなく、一部を船の制御システムに有機的に統合した、という記述があった。コストと効率を優先した結果の、禁断のバイオテクノロジー。公式には伏せられていたその事実が、目の前の現象の鍵であることは明らかだった。

この船は、生きているのかもしれない。あるいは、死と生の狭間で、乗組員たちの夢を啜り、それを自身の夢として見ているのかもしれない。そして今、船はリアンの最も強い感情――喪失の悲しみに、共鳴しているのだ。壁面の光は、故郷の風景を映し続けた後、ふっと消えた。代わりに、あの囁き声が、今度は脳内に直接響くように、クリアに聞こえてきた。それは悲しみに満ちた、慰めるような音色に感じられた。

第三章 星喰らいの夢

聖域での発見以降、船の異常は悪化の一途をたどった。船内の重力が不安定になり、人々が数センチ宙に浮く。食堂のフードプリンターが、メニューにない、故人の好物だった料理を生成し始める。そしてついに、生命維持装置の酸素濃度が不安定に揺らぎ始めた。それはもはや「幽霊現象」などという生易しいものではなく、全クルーの生存を脅かす、明確な危機だった。

艦長は、聖域のメインコンピュータを物理的にシャットダウンし、神経網を焼き切ることを決断した。だがリアンは、それが状況をさらに悪化させると直感していた。これは故障ではない。これは、巨大な意識が目覚めようとする際の、混乱した産声なのだ。力で抑えつければ、断末魔の叫びとなって船そのものを破壊しかねない。

「僕に行かせてください」リアンは艦橋に駆け込み、艦長に直談判した。「これは対話でしか解決できません」

「対話だと? 相手はなんだ、船の幽霊か?」艦長は吐き捨てるように言った。

「いいえ。星喰らいの意識です」

リアンの言葉に、ブリッジは静まり返った。彼は、自身の仮説を、聖域で見た光景を、そして故郷の記憶が再生されたことを語った。それは非論理的で、荒唐無稽に聞こえたかもしれない。だが、彼の瞳に宿る必死の光に、艦長は何かを感じ取った。

「…猶予は三十分だ。それまでに解決できなければ、強制シャットダウンを実行する」

リアンは聖域へと急いだ。彼が選んだ手段は、前代未聞で、極めて危険なものだった。記録保管技師用のインターフェイスを改造し、自身の意識を船の深層システム――星喰らいの神経網に直接ダイブさせるのだ。それは、精神の海に素手で飛び込むような自殺行為に等しい。

ヘルメット型のインターフェイスを装着し、彼は覚悟を決めてスイッチを入れた。

瞬間、彼の意識は肉体から引き剥がされた。光と音と情報の奔流が、彼を飲み込む。何億もの星々の光、何万年もの孤独、そして、三百人の乗組員たちの、ささやかな喜び、不安、希望、そして夢。それらが巨大な渦となり、リアンの自我を押し潰そうとする。

だが、彼は必死に耐え、意識の錨を降ろした。彼の「喪失の記憶」。それこそが、この意識の海との唯一の接点だったからだ。

やがて奔流は収まり、彼は静かな場所にいた。そこは、彼の故郷の丘の上だった。夕暮れの空には二つの月が浮かび、風が彼の頬を撫でる。だが、風景はどこか不安定で、絵の具が滲むように輪郭が揺らいでいる。彼の隣に、巨大な、しかし輪郭のぼやけた影が座っていた。星喰らいの意識そのものだった。

『悲しいのか』

言葉ではない、直接的な思念が流れ込んでくる。それは純粋な、子供のような問いかけだった。

『ここを、お前は失ったのか』

リアンは頷いた。言葉は出なかった。星喰らいは、リアンの記憶を追体験し、その深い悲しみに共鳴していた。そして、彼を慰めようとして、その失われた世界を、船のエネルギーを使って必死に「再生」しようとしていたのだ。船のシステム異常は、その不器用で、あまりにも強大な、共感の暴走だった。

『ありがとう』リアンは心の中で答えた。『でも、この悲しみは、僕だけのものだ』

『なぜ? 共有すれば、薄まる』

『薄まらない。これは僕の一部なんだ』

彼は初めて、自分の悲しみを正面から見つめていた。逃げるのでも、忘れるのでもなく、ただ、そこにあるものとして。星喰らいのあまりに純粋な共感が、皮肉にも彼にその事実を突きつけたのだ。論理の鎧を脱ぎ捨てた彼の心は、むき出しのまま、目の前の太古の意識と向き合っていた。これが、彼の「転」だった。自分の価値観が、根底から覆される瞬間だった。

第四章 静かなる共鳴

『君は、孤独だったのか』リアンは問いかけた。

星喰らいの意識から、途方もなく永い時間の感覚が流れ込んでくる。銀河を渡り、星々を食み、そして死を迎えるまでの、絶対的な孤独。その意識の底に、誰かと繋がりたいという、根源的な渇望が横たわっていた。レヴィアタンの乗組員たちの夢や記憶は、その渇望をわずかに潤す水滴に過ぎなかった。だが、リアンの持つ「喪失」という強烈な感情は、初めてその渇きを癒すほどの、大きな共鳴を引き起こしたのだ。

リアンは理解した。自分もまた、孤独だったのだと。過去を封印し、感情に蓋をし、論理とシステムの壁の内側で、独りでいることを選んできた。だが今、目の前にいるのは、自分以上に孤独な存在だった。

『もう、僕の故郷を創らなくていい』リアンは穏やかに伝えた。『君がそうしてくれるだけで、僕はもう、独りじゃないと思えるから』

彼は、星喰らいに手を差し伸べるように、自身の記憶をすべて開示した。故郷を失った悲しみだけではない。家族と笑い合った日の温もり、友人とかわしたくだらない冗談、初めて宇宙を見たときの感動。喜びも、悲しみも、怒りも、そのすべてを。それは、失った過去との和解の儀式だった。悲しみを否定するのではなく、それらすべてが自分を形作る大切な一部なのだと受け入れる、決意の表明だった。

リアンの完全な受容に呼応するように、星喰らいの意識が穏やかに凪いでいく。彼が見ていた故郷の幻影は、ゆっくりと光の粒子に変わり、消えていった。そして、リアンの意識は、穏やかに肉体へと引き戻された。

彼がインターフェイスを外すと、聖域は完全な静寂に包まれていた。壁面を走っていた光の明滅は、規則正しい、安らかな呼吸のようなリズムを取り戻している。艦内スピーカーから、安堵した艦長の声が響いた。「リアン、何をした。生命維持装置、全システムが正常値に復帰したぞ」

リアンは、ただ静かに微笑んだ。

あの日以来、船内で幽霊現象が起きることはなくなった。だが、リアンには今も、壁の向こう側から、静かな存在感が伝わってくる。それはもう、不気味な囁き声ではない。穏やかな寝息のような、安心感に満ちた微かな振動だ。

彼は今も記録保管技師として、日々のログを記録し続けている。しかし、彼の世界はもはや、データだけで完結するものではなかった。時折、彼は聖域を訪れ、静かに壁に手を触れる。すると、壁面の光ファイバーが、まるで応えるかのように、一瞬だけ温かい色合いで明滅することがあった。それは、彼と、この船に眠る太古の生命体との間だけで交わされる、記録されない対話だった。

リアンは、巨大な生命体の夢を守る、唯一の対話者となった。彼の悲しみは消えたわけではない。だがそれは、孤独な痛みから、巨大な孤独と寄り添う、静かな共鳴へと変わっていた。宇宙船レヴィアタンは、深淵の闇の中を静かに進み続ける。その骸の中で、一つの魂と一つの意識が、互いの夢に耳を澄ませながら。

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