忘却のプリズム

忘却のプリズム

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第一章 虹色の欠片

リクの仕事場は、忘却の匂いがした。棚に並ぶ無数のガラス瓶には、人々が手放した記憶の結晶が、まるで色褪せた宝石のように鈍い光を放っている。人々は自らの記憶を物理的な結晶として体外に排出する。幸福な記憶は磨き上げられ、首飾りや指輪としてその輝きを誇示する。一方で、痛みや悲しみを伴う記憶は、まるで汚物のように捨てられる。リクは、そんな捨てられた記憶や、傷ついた記憶を修復する「記憶修復師」だった。

彼の指先が、乳白色に輝く楕円形の結晶に触れる。依頼主は、亡き妻との「最後のダンス」の記憶。経年劣化で表面に走った微細な亀裂から、妻を看取った日の悲しみが黒い澱のように滲み出ていた。リクは精密な音叉をそっと当て、結晶が持つ固有振動数に意識を集中させる。キィン、と澄んだ音が工房に響くと、黒い澱は霧散し、亀裂は滑らかに塞がってゆく。結晶は再び、一点の曇りもない幸福な光を取り戻した。彼は他人の過去を美しく整えることで生計を立て、自らの過去には深く蓋をしていた。

その日、リクは遺品整理業者が持ち込んだ古い木箱を買い取った。持ち主不明の、行き場のない記憶の集積。大半は、ありふれた日常の退屈な記憶を示す、くすんだ灰色の結晶だった。だが、箱の底で、リクの目は一つの結晶に釘付けになった。

それは、これまでに見たどんな結晶とも違っていた。大きさは小指の先ほどだが、不定形で、まるで乱雑に砕かれたガラスの欠片のようだった。しかし、その内部には、まるでオーロラのように虹色の光が揺らめいていた。赤は激情を、青は深い悲しみを、緑は安らぎを意味する。だが、この結晶の色は、そのどれにも分類できなかった。全ての感情が溶け合い、それでいて全く新しい何かになっているような、複雑で深遠な輝き。

リクはそれを慎重にピンセットでつまみ上げた。指先に触れた瞬間、脳裏に奇妙な感覚が流れ込んできた。それは人間の視点ではなかった。遥か上空から、灼熱のマグマに覆われた原始の惑星を見下ろすような、途方もない孤独と、静かな期待感。彼は思わず息を呑んだ。これは、誰の記憶だ?いや、そもそも、これは「人間」の記憶なのだろうか。工房に満ちていた忘却の匂いが、その虹色の欠片の前では、まるで無意味なものに思えた。彼の日常が、音を立てて軋み始めた瞬間だった。

第二章 星の囁きと忘却の扉

謎の結晶への探求は、リクを虜にした。彼は工房に籠もり、寝食も忘れてその修復と解析に没頭した。通常の修復作業とは全く違った。結晶に振動を与えようとすると、内部の虹色の光が荒れ狂い、まるで拒絶するかのようにリクの精神を弾き返す。彼は方針を変え、ただ静かに結晶に触れ、その「声」に耳を傾けることにした。

目を閉じ、意識を結晶に同調させていく。すると、断片的なビジョンが洪水のように流れ込んできた。それはやはり、個人の体験ではありえなかった。巨大な隕石が海に落下し、蒸発した水蒸気が空を覆う轟音。氷河が大地を削りながらゆっくりと進む、気の遠くなるような時間感覚。シダ植物が鬱蒼と茂る森に初めて差し込む木漏れ日と、そこに宿る生命の息吹。感じるのは、喜びでも悲しみでもない、もっと根源的な「存在すること」そのものの感覚だった。

「これは……星の記憶なのか?」

リクは呟いた。何十億年という時をかけて、この惑星が経験してきたことの断片。しかし、なぜそれがこんな小さな結晶に?修復師の仕事は、他人の記憶との境界線を曖昧にする危険を孕んでいる。同調しすぎれば、自分自身の記憶と混濁し、アイデンティティが揺らぎかねない。リクはいつも、仕事の後は必ず自己暗示をかけて、他人の記憶を洗い流していた。だが、この星の記憶は違った。それは彼の心の奥深くに眠っていた何かを、静かに揺り動かしていた。

その夜、リクは夢を見た。幼い頃の夢だ。高速艇の事故。耳を劈くような衝突音と、水の冷たさ。そして、自分を庇うように抱きしめてくれた両親の温もりと、それが急速に失われていく感覚。彼はその記憶を結晶化し、どこかへ捨てたはずだった。二度と思い出したくない、耐え難い痛み。しかし、星の記憶に触れたことで、忘却の扉がこじ開けられようとしていた。

他人の記憶を繕い、自分の記憶からは目を逸らす。その矛盾に、彼は初めて気づいた。星の記憶は、ただ壮大なだけでなく、そこには絶え間ない喪失と再生の歴史が刻まれていた。誕生と死の繰り返し。その巨大なサイクルの中に、自分の小さな悲しみもまた、確かに存在している。彼は恐る恐る、自分の過去と向き合い始めていた。虹色の結晶は、ただの好奇心の対象ではなく、彼自身の魂を映す鏡となりつつあった。

第三章 未来からの鎮魂歌

修復作業が新たな段階に入ったのは、それから数日後のことだった。リクがいつものように結晶に意識を集中させていると、ビジョンは突如としてその性質を変えた。原始の風景は消え去り、代わりに現れたのは、天を突くほどの超高層建築物が林立する、目も眩むような未来都市だった。空には光の道が幾重にも走り、人々は浮遊する乗り物で移動している。見たこともないテクノロジーと、洗練された文化。それは人類が到達しうる、一つの理想郷のように見えた。

だが、その光景は一瞬で悪夢に変わる。空が、血のような赤黒い色に染まった。大地が悲鳴を上げて裂け、壮麗な建築物が砂の城のように崩れ落ちていく。人々が絶望の表情で空を見上げ、塵となって消えていく。それは戦争でも天災でもない、もっと抗いようのない、星そのものの寿命が尽きようとしているかのような、静かで絶対的な終焉だった。

「やめろ……!」

リクは叫び、結晶から手を離した。心臓が激しく波打ち、全身が冷たい汗で濡れていた。これは過去の記憶ではない。では、一体何なのだ。震える手で、彼はもう一度結晶に触れた。

その瞬間、ビジョンではなく、直接的な思念が彼の脳に流れ込んできた。それは一人の声ではなく、何百、何千という人々の後悔と祈りが織り混ざった、巨大な意識の集合体だった。

『我々は失敗した。星の命を使い果たし、自らの揺り籠を壊してしまった。宇宙へ逃れる時間も、技術も、もはやない』

『だが、終わりではない。この記憶を、この想いを、種として過去へ送る』

『始まりの時に、警告を。同じ過ちを繰り返さぬように。我々の絶望が、あなた方の希望となるように』

リクは愕然とした。この結晶は、星の記憶などではなかった。これは、滅びゆく未来の人類が、最後の力を振り絞って時空を超えて過去へ送った、「遺言」であり「警告」だったのだ。虹色の輝きは、人類が経験した全ての感情――愛、希望、喜び、そして計り知れない後悔と絶望――が凝縮された色だった。

彼は膝から崩れ落ちた。ただの記憶修復師。他人の小さな過去を繕うだけの、孤独な男。そんな自分が、人類の未来を左右するかもしれない、途方もないメッセージを受け取ってしまった。自分の過去から逃げてきた彼が、全人類の未来と向き合わなければならない。その重圧は、彼の価値観を、彼の世界の全てを、根底から覆した。工房の静寂が、まるで未来からの鎮魂歌のように、重く響いていた。

第四章 共鳴するプリズム

数日間、リクは工房に閉じこもり、絶望と無力感に苛まれた。この事実を誰に伝えればいい?未来の記憶を見たと叫んでも、狂人扱いされるだけだろう。人々は自分の手のひらにある幸福な記憶の輝きに夢中で、遠い未来の破滅など信じようとはしない。

だが、未来人たちの悲痛な想いが、彼の心から離れなかった。彼らは、自分たちの死を無駄にしないために、この結晶を送ってきたのだ。リ-クは、ただの傍観者でいることをやめた。彼は修復師だ。ならば、この壊れた未来の記憶を「修復」し、そのメッセージが人々に届く形にしなければならない。

彼は決意した。工房の奥深く、厳重に封印していた小さな箱を取り出す。中には、くすんでひび割れた、黒に近い紫色の結晶が一つ。彼が幼い頃に排出した、両親を失った記憶。彼が最も目を背けてきた、自身の痛みの核だ。

彼は、虹色の「未来の記憶」と、自らの「過去の記憶」を、作業台の上に並べた。個人的な悲しみと、人類全体の悲しみを繋げる。絶望と絶望を掛け合わせることで、誰もが無視できない強い「共感」の波を生み出す。それは、彼の修復師としての技術と知識の全てを注ぎ込む、狂気の賭けだった。

リクは二つの結晶に、同時に異なる周波数の振動を与え始めた。工房が激しく揺れ、棚のガラス瓶が共振して悲鳴のような音を立てる。二つの結晶が徐々に光を増し、互いに引き寄せられていく。リクは全ての意識を集中させ、二つの記憶を融合させようと試みた。彼の個人的な喪失感が、未来の人類の巨大な喪失感と溶け合っていく。その瞬間、眩いほどの白い光が工房を満たし、リクの意識は闇に飲まれた。

どれくらいの時間が経っただろうか。リクが目を覚ますと、工房の窓の外が騒がしかった。ふらつきながら扉を開けると、彼は息を呑んだ。道行く人々が皆、足を止め、空を見上げていた。驚くべきは、彼らが身に着けている記憶の結晶――首飾りも、指輪も、ブレスレットも――その全てが、まるで呼吸をするように、淡い虹色の光を放ち、共鳴していたのだ。

リクが創り出した融合結晶から発せられた想いの波は、街中の記憶結晶を増幅器として、人々の心に静かに、しかし確実に届いていた。人々は、自分のものではないはずの、遠い未来に起こるであろう喪失の予感と、それでも失われることのない小さな希望の断片を、同時に感じ取っていた。彼らの表情には、困惑と共に、これまで見せたことのないような、他者への、そしてまだ見ぬ未来への、深い思慮の色が浮かんでいた。

リクは、自分の胸に手を当てた。空っぽだと思っていたそこが、温かいもので満たされているのを感じた。彼はもう、過去の痛みに縛られた孤独な修復師ではない。彼は記憶を通じて、人々と、過去と、そして遥かな未来と繋がったのだ。

未来が救われたのかどうかは、誰にも分からない。だが、確かに世界は変わった。人々が初めて、自分の記憶の向こう側にある、他者の痛みや未来の希望に想いを馳せ始めたのだから。リクの工房から生まれた小さな虹色の光は、忘却に沈みかけていた世界を照らす、最初のプリズムとなった。その光の行く末を、彼は静かに見守り続けようと心に誓った。

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