時の残響、僕の輪郭
第一章 揺らぐ境界線
僕の身体は、薄いガラス細工のようなものだ。意識の焦点がわずかにずれるだけで、ひび割れた鏡のように世界が分岐する。右に曲がるはずだった交差点で、左に曲がった僕が隣を歩いている。昨日の夕食で魚を選んだ僕と、肉を選んだ僕の記憶が、舌の上で混じり合う。僕という存在の輪郭は、常に曖昧な霧の中にあった。
だから、僕はいつも分厚い革の手袋を嵌めている。この世界では、それが常識だった。あらゆる物質が内包する『時間の記憶』――石畳が踏まれてきた無数の足音、街灯が見つめてきた恋人たちの囁き、そういった奔流から身を守るための盾。だが僕にとって手袋は、外の世界から身を守ると同時に、内側から拡散しようとする自分を繋ぎとめるための、唯一の枷でもあった。
その日、街はいつにも増してざわついていた。人々が空を見上げ、指をさしている。僕もつられて視線を上げると、鈍色の雲の切れ間に、ありえない光景が広がっていた。見たこともない、水晶でできたような超高層ビル群。空飛ぶ乗り物が幾何学的な軌跡を描いて飛び交う、未来都市の幻影。それは『時間の奔流』が深刻化している兆候だった。物質だけでなく、空間そのものが、ありえない『未来の可能性』を吐き出し始めているのだ。
人々の不安げな囁きが、肌を粟立たせる。僕はその場から逃げるように、裏路地の古物市へともぐりこんだ。埃と錆の匂いが混じり合う静寂の中で、少しだけ呼吸が楽になる。がらくたの山の中に、奇妙なものが一つ、転がっていた。複雑な歯車と水晶が絡み合った、掌サイズの円盤。どの時代のものともつかない、壊れた機械。
何故か、それに強く惹かれた。僕は無意識に、いつもは決して外さない右手の手袋を抜き、その冷たい金属に指先で触れた。
その瞬間、脳を直接揺さぶるような高周波が響いた。
円盤が、僕の『揺らぎ』と共鳴したのだ。視界が明滅し、いくつもの時間軸が僕の中で交錯する。古代の職人がこれを組み上げる槌音、未来の考古学者がこれを掘り起こす感嘆の声、そして、誰かがこれを握りしめ、悲痛な叫びを上げる残響――。
僕は円盤を強く握りしめ、その場にうずくまった。これはただのガラクタではない。世界の狂騒と、僕の存在を繋ぐ、鍵のようなものだと直感した。
第二章 残響の調律
「あなた、平気なの?」
声をかけられ、顔を上げた。そこに立っていたのは、歴史保存局の制服を着た女性だった。ミサキと名乗った彼女の瞳は、僕の素手と、僕が握りしめる円盤――『ディメンショナル・チューナー』を、驚きと探究心がない交ぜになった色で見つめていた。
彼女は『時間の奔流』の専門調査員だった。僕がチューナーに触れた瞬間に放たれた特殊な時間波形を検知して、ここまで来たのだという。
「普通、素手でアンティークなんかに触れたら、記憶の洪水で正気を保てないわ。でも、あなたは……違う。あなた自身が、時間の中で揺らいでいるのね」
ミサキは僕の特異性を見抜いていた。彼女は僕を責めるでもなく、ただ静かに、助力を求めてきた。この奔流の原因を突き止めるために、僕の力と、そのチューナーが必要なのだと。
僕は彼女に導かれ、街で最も時間の記憶が堆積している場所――市立中央図書館の古書保管庫へと足を踏み入れた。黴と古い紙の匂いが満ちる空間で、僕は再びチューナーを握り、意識を集中させた。僕の『揺らぎ』がチューナーを起動させると、それは調律の狂った楽器のように、世界が奏でる時間のノイズを拾い始めた。
「聞こえる……」
僕の口から、無意識に言葉が漏れる。
本のページをめくる無数の指先の感触。インクが紙に染み込む微かな音。焚書坑儒の炎の熱。未来で電子データに変換される際の冷たいスキャン光。過去と未来、無数の可能性が奔流となって押し寄せる。
「ノイズが多すぎる……! でも、その奥に……奔流の発生源がある……!」
ミサキが息をのむ。僕はチューナーにさらに意識を注ぎ込み、無数の残響の中から、最も強く、最も歪んだ響きを発する一点を探り当てた。それは、この都市の地下深くに存在する、巨大なシステムの鼓動だった。
「『クロノス・コア』……」
ミサキが震える声で呟いた。世界全体の時間軸を監視・修正するはずだった、伝説の制御システム。それが、暴走している。
第三章 コアに響く願望
クロノス・コアへの道は、現実と幻想の狭間を歩むようだった。地下深くへ続く通路の壁には、僕がミサキと結ばれる幸福な未来が、次の瞬間には、彼女が瓦礫の下で冷たくなっていく悲劇が、シミのように浮かび上がっては消えた。僕の精神は、ありえたかもしれない無数の人生の重みで、軋みを上げていた。
やがてたどり着いた巨大な空洞の中心で、『クロノス・コア』は脈動していた。それは巨大な水晶の心臓だった。無数の光の糸を神経のように伸ばし、苦しげに痙攣を繰り返している。その脈動に合わせて、世界中の時間が乱れ、ありえない可能性が現実へと滲み出しているのだ。
「止めるには、暴走の原因になっている『願望』を特定しないと……」
ミサキの言葉に頷き、僕はチューナーをコアに向けた。最後の力を振り絞り、僕の存在そのものをコアの深層へと同期させる。
意識が、光の奔流に呑まれた。
時間の概念が溶け落ちる。僕は、コアを暴走させている強い『願望』の源流へと引きずり込まれていった。それは悲痛な祈りであり、呪いにも似た叫びだった。
『――全ての可能性を、解放せよ』
誰だ。こんな絶望的な願いを抱いたのは。
僕の意識は、声の主を探して時間を超えた。遥かな未来。全ての可能性が刈り取られ、全てが確定し、変化も成長も止まった灰色の世界。そこに、一人の老人がいた。彼はぼろぼろになったディメンショナル・チューナーを握りしめ、動かなくなったクロノス・コアを見上げていた。その顔を見て、僕は凍り付いた。深い皺、失われた光を宿す瞳。それは、紛れもなく、幾億の可能性の果てにたどり着いた、未来の僕自身の姿だった。
老いた僕は、静かに涙を流していた。安定と引き換えに、夢も希望も、愛する人とのささやかな未来さえも失った世界で、彼はたった一つの後悔を抱き続けていたのだ。そして、過去の自分に向けて、最後の力を振り絞ってメッセージを送った。
『一つの未来に閉ざされるくらいなら、いっそ、無限の混沌を』
それが、この悲劇の始まりだった。僕が世界を救うために追い求めてきた謎の答えは、僕自身の絶望だったのだ。
第四章 結び目になる者
真実の重みに、膝が折れた。僕が救おうとしていた世界は、僕自身が壊していた。未来の僕が抱いた絶望は、今の僕にも痛いほど理解できた。一つの未来に収束するということは、ミサキと笑い合う可能性も、他の無数のささやかな幸福も、全てが消え去ることを意味するのだから。
「アキ……」
隣でミサキが僕の手を握った。彼女の手は温かかった。それは、この不確かな現実が、確かにここにあるという証だった。
「あなたはどうしたいの? あなたが、選んで」
選択肢は二つ。
チューナーでコアを停止させ、未来の僕が嘆いた『灰色の未来』を確定させるか。
それとも、コアをこのまま放置し、未来の僕が望んだ『無限の混沌』に世界を委ねるか。
安定か、可能性か。どちらを選んでも、世界か、心か、何かを失う。
僕はゆっくりと立ち上がり、ミサキから手を離した。そして、彼女の目を見て、静かに微笑んだ。
「どちらも選ばない」
僕はディメンショナル・チューナーを、自らの胸に強く押し当てた。
「未来の僕が観測者であることをやめたから、世界は壊れたんだ。だったら、今度は僕が観測者になる。収束も拡散もしない、全ての可能性を、ただそこに在ることだけを肯定する、結び目に」
僕の身体が、内側から淡い光を放ち始める。量子的な揺らぎを、僕という個を繋ぎとめていた最後の輪郭を、僕は自らの意志で解き放った。身体が光の粒子となり、霧散していく。痛みはなかった。ただ、無数の時間軸に存在する自分が一つに溶け合っていく、不思議な安らぎがあった。
「アキ!」
ミサキの叫び声が遠くなる。僕の意識は、チューナーを介してクロノス・コアへと流れ込み、その巨大な心臓と完全に融合した。
個としてのアキは消滅した。
暴走していたコアの脈動が、穏やかな鼓動へと変わる。世界を覆っていた時間の奔流は静まり、空に浮かんでいた未来都市の幻影は、まるで朝靄が晴れるように消えていった。
それから、どれほどの時が流れただろう。
ミサキは、手袋をしていない手で、公園のベンチの冷たさに触れていた。かつてのように、触れたものから記憶の奔流が流れ込んでくることはない。ただ、このベンチが重ねてきた歳月、ここで交わされたであろう穏やかな会話の温もりが、微かな残響のように心に伝わってくるだけだった。
世界は、一つの未来に固定されることなく、かといって混沌に呑まれることもなく、無数の可能性を内に秘めたまま、ゆるやかに流れていた。人々はもう、時間を恐れてはいない。
ミサキは空を見上げた。どこまでも青い空。そのどこかに、今も彼がいる気がした。世界の全ての時間を、全ての可能性を、優しく見守る観測者として。
彼女はそっと微笑んだ。その頬を撫でた風は、どこか懐かしい、彼の気配を運んでいるようだった。