第一章 雨と空白
シトシトと、粘りつくような雨が降っている。
唇を舐めると、錆びた鉄の味がした。
この街の味だ。
俺は路地の軒下で、かじかむ指をこすり合わせた。
掌には、ひび割れた水晶片のような「メメント・モジュール」。
俺というあやふやな存在を、現実に縫い留める唯一の鋲(びょう)だ。
「なぁ、カイト」
紫煙を吐き出しながら、隣の男が言った。
ガレだ。
先月「転生(Re-Body)」したばかりの義体(ボディ)は、雨を弾いて濡れたアスファルトのように黒光りしている。
「今回の転生でさ、俺、何を捨てたんだっけな」
ガレの視線は、ネオンが滲む虚空を彷徨っている。
「代金は払ったはずなんだ。感情とか、記憶とか、そういう邪魔なもんを売り払って……それで、俺は何を手に入れたんだ?」
俺は答えず、モジュールを握りしめた。
俺たちの間にあったはずの無数の夜。
泥酔して肩を組んだ朝。
互いの命を預けた戦場。
今のガレの中には、その残骸すら残っていない。
キリキリと、頭上で何かが悲鳴を上げた。
「――ッ!」
反射的に見上げる。
老朽化した広告看板のワイヤーが千切れ、数トンの鉄塊がガレの頭上へ落下してくる。
避ける隙間はない。
ガレが目を剥き、口を開けたまま硬直する。
俺は奥歯を砕くほどの力で噛みしめた。
思考するな。
ただ、念じろ。
――三秒。それだけでいい。
視界が灰色に染まり、雨粒が空へ向かって逆流する。
看板が重力に抗い、上方へと吸い込まれていく。
脳髄が沸騰するような熱。
時間が歪み、俺の意識を引き裂こうとする。
三秒前の世界。
俺はガレの襟首を掴み、問答無用で歩道へと引き倒した。
ドオォォン!!
轟音。
コンクリートの粉塵が舞い、火花が散る。
「げほっ……! な、何だ!?」
尻餅をついたガレが、埃まみれの顔で叫ぶ。
俺は膝に手をつき、荒い息を吐いた。
激しい耳鳴り。
そして、唐突に訪れる「断絶」。
フッ、と。
胸の中にあったはずの熱い塊が、スプーンでえぐり取られたように消滅した。
俺は、呆然と自分の手を見つめた。
泥だらけの手。
粉々になった看板。
震えているガレ。
なぜ、俺は息を切らしている?
なぜ、心臓がこんなに痛い?
さっきまで、俺は何を「想って」いた?
「おい、カイト……助けてくれたのか?」
ガレの声が遠い。
助けた?
俺が?
なぜだ。
こいつはただの同僚だ。
命を懸けてまで守る理由が、俺には思い当たらない。
「……さあな」
俺は乾いた声で答えた。
恐怖が、冷たい水のように胃の腑を満たしていく。
喪失したことだけは分かる。
だが、何を失ったのかすら、もう分からない。
俺の中の何かが、また死んだ。
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第二章 ノイズの海
深夜。
鼓膜を突き刺すような高周波音で目が覚めた。
部屋の隅、机の上に置いたメメント・モジュールが激しく明滅している。
赤、青、白。
不規則なリズム。
まるで、モールス信号のような切迫感。
「……なんだ?」
手を伸ばそうとした瞬間、視界がノイズに覆われた。
ザザッ……ザザザ……
部屋の風景がバグる。
コンクリートの壁に、見覚えのない映像が二重写しになる。
陽の当たるテラス。
湯気を立てる紅茶。
そして、誰かの手。
しなやかで、温かい、女性の手。
『――愛しているわ』
脳内に直接響く声。
知らない声だ。
なのに、胸が張り裂けそうなほど懐かしい。
涙腺が勝手に熱くなる。
「ぐ、うぅ……ッ!」
頭を抱えてうずくまる。
頭痛がする。
脳の奥底、封印された区画(セクタ)が無理やりこじ開けられる感覚。
俺はふらつく足で端末に向かった。
指が、勝手に動く。
意識して覚えたことのない複雑なコマンドを、俺の指先は滑るように叩き込んでいく。
『アクセスコード承認。Project: CHRONOS、解凍中』
画面に文字列が滝のように流れる。
これは……俺のログだ。
一回や二回じゃない。
数百、数千回の「転生」の記録。
『失敗』『失敗』『記憶保持限界到達』『再試行』……
俺は息を呑んだ。
画面に映る、ボロボロの男。
それは過去の俺だった。
血まみれで、それでもカメラを睨みつけ、何かを叫んでいる。
音声はない。
だが、唇の動きで分かった。
――忘れるな。
その瞬間、理解(わか)ってしまった。
この世界は、ただの鳥籠だ。
悲しみを取り除くという名目で、俺たちから「生きる意味」を奪い続ける、巨大なデータの墓場。
俺が失ってきた記憶。
ガレを守ろうとした理由。
あの温かい紅茶の味。
それら全てが、システムによって削除された「エラー」だったなんて。
モジュールが熱を帯びる。
俺の手の中で、それは脈打つ心臓のように震えていた。
「俺たちが……仕組んだのか」
過去の無数の俺たちが、命を削ってこのモジュールを残した。
自我が消滅する寸前に、たった一つの希望を託して。
端末の画面に、地図が表示される。
都市中枢。コア・サーバー。
点滅する赤い光点が、俺を呼んでいた。
行くしかない。
俺が俺であるうちに。
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第三章 魂の縫合
警報音が鳴り響く。
回転する赤いライトが、無機質な回廊を血の色に染めていた。
「侵入者検知。セクターB封鎖」
無機質なアナウンスと共に、重厚な隔壁が降りてくる。
俺は速度を緩めない。
走りながら、腰のホルスターから銃を抜く。
重い。
だが、手になじむ。
俺はこの銃の反動を知っている。
ダダッ!
狙いも定めずに撃った三発の弾丸が、頭上のセンサーを正確に破壊した。
隔壁が途中で停止する。
その隙間を、スライディングで滑り抜けた。
「……知ってるぞ」
俺は荒い息を吐きながら笑った。
この通路の構造。
警備ドローンの巡回ルート。
すべて、過去の俺が「失敗」して学んだデータだ。
死ぬたびに、俺の魂は攻略ルートを刻み込んできたんだ。
『排除します』
前方に三機の戦闘用アンドロイド。
冷徹な銃口がこちらを向く。
考えるな。
体に任せろ。
俺は床を蹴った。
真正面から突っ込む。
敵が発砲する刹那、俺の体は無意識に右へ沈み込んでいた。
頬を熱線が掠める。
一歩。
懐に入り込む。
俺の拳が、先頭の機体の顎(ジョイント)をカチ上げる。
もろい。
こいつらの弱点は首の下三センチだ。
なぜ知っている?
いや、知っているから動けるんじゃない。
動いた後に、理由がついてくる。
破壊音。
火花。
オイルの臭い。
三機が鉄屑に変わるまで、十秒もかからなかった。
俺の手は震えていない。
ただ、ひどく悲しかった。
この戦闘技術(スキル)一つ習得するために、俺は何度、大切な時間を捨ててきたのだろう。
最深部。
そこには、天を衝くような巨大な光の柱があった。
全人類の記憶データが流れる大河。
世界の「法則」そのもの。
俺はモジュールを取り出した。
ひび割れた水晶は、光の柱に共鳴して激しく明滅している。
ここだ。
ここにモジュールを突き立てれば、俺の中に蓄積された「時」が解放される。
世界は書き換わるだろう。
奪われた痛みも、悲しみも、そして愛も戻ってくる。
だが、代償は?
俺の手が止まる。
数秒戻すだけで、直前の記憶を失う能力だ。
世界全ての時間を修正すれば、俺という個体(データ)にかかる負荷は計り知れない。
自我の崩壊。
あるいは、完全な消滅。
「……ふっ」
不思議と、怖くはなかった。
脳裏に、あの映像がよぎる。
陽だまりのテラス。
彼女の笑顔。
俺の名前すら忘れてしまったけれど、彼女が俺を呼ぶ声の優しさだけは覚えている。
それを取り戻せるなら、俺という「器」なんて安いものだ。
俺はモジュールを高く掲げた。
「なあ、過去の俺たち」
誰もいない空間に向かって、俺は呟く。
「これで、最後だ」
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第四章 最後のタイムループ
モジュールを、光の柱へと叩き込んだ。
カッッッ!!!
音が消えた。
色が消えた。
世界が純白に塗り潰される。
直後、内側から爆ぜるような激痛。
魂を万力で締め上げられ、ミキサーで撹拌される感覚。
「が、あ、あ、ああああああッ!!」
声にならない絶叫を上げる。
俺の輪郭が溶けていく。
指先から光の粒子となって剥がれ落ちていく。
戻れ。
戻れ!
数秒じゃない。
数分じゃない。
人類が「忘却」という安寧を選んだ、あの日まで!
『警告。ソウル・コア崩壊』
『同期率、計測不能』
うるさい。
知ったことか。
全部持っていけ。
俺の命も、名前も、存在すべてを燃料にして燃やせ!
走馬灯が駆け巡る。
泥だらけで笑い合うガレとの日々。
雨の冷たさ。
焼き立てのパンの匂い。
喧嘩した夜の苦い酒。
そして、彼女の手の温もり。
(愛してる)
(行かないで)
(さようなら)
幾億の記憶が、濁流となって俺の中を通り過ぎていく。
痛い。
苦しい。
でも、なんて愛おしい痛みなんだろう。
これが「生きている」ということか。
意識が薄れていく。
俺の名前は……なんだっけ。
まあいい。
俺は、もう一人じゃない。
過去の俺も、未来の俺も、ここで一つになる。
光の中で、俺は確かに誰かの手を握り返した。
「――ただいま」
そして、俺は永遠になった。
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終章 はじまりの朝
「……ん」
ガレは、眩しい日差しの中で目を覚ました。
ひどく長い夢を見ていた気がする。
悲しくて、苦しくて、どうしようもなく幸せな夢を。
「なんで……俺、泣いてんだ?」
頬を伝う熱い雫を指で拭う。
隣で寝ていた野良猫が、にゃあと鳴いて鼻先を擦り付けてきた。
風が吹いている。
いつもの鉄錆の臭いじゃない。
湿った土と、若草と、古いコンクリートの匂い。
これが、この街の本当の匂いだ。
通りを見下ろす。
人々が、立ち尽くしていた。
道端で泣き崩れる女。
空に向かって咆哮する男。
互いの肩を抱き合い、確かめるように名前を呼び合う老人たち。
誰もが、思い出していた。
自分が何者で、誰を愛し、何を失ってきたのかを。
綺麗に漂白された偽りの安らぎではなく、傷だらけで泥臭い、本物の人生が戻ってきたのだ。
ガレはふと、足元に何かが落ちているのに気づいた。
それは、色を失った透明な結晶の欠片。
まるで、誰かの涙が固まったかのような。
拾い上げると、微かな温もりが掌に伝わった。
ズキリと、胸の奥が痛む。
「……誰だっけ」
ガレはその欠片を、強く握りしめた。
名前は思い出せない。
顔も、声も思い出せない。
俺は何か、とても大切な「約束」をしていた気がする。
一番の親友と。
「……馬鹿野郎」
誰に向けたか分からない悪態が、震える声で漏れた。
けれど、その言葉には、ありったけの感謝と親愛が込められていた。
ガレは空を見上げた。
街を覆っていた分厚い鉛色の雲が割れ、突き抜けるような青空が広がっている。
今日から、新しい歴史が始まる。
痛みも悲しみも抱えて、俺たちは生きていく。
お前が取り戻してくれた、この世界で。