メモリウムの砂時計
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メモリウムの砂時計

第一章 褪せる世界の潜航士

俺の記憶は、ひび割れたガラス細工だ。触れるたびに細かい破片がこぼれ落ち、やがては何の形だったのかさえ思い出せなくなる。だから、俺は書き留める。名前はミナト。職業、記憶潜航士(メモリーダイバー)。思考をデータに変換し、他人の夢に潜って偽の記憶を植え付ける仕事だ。その代償が、俺自身の記憶。

世界は、忘却という病に蝕まれていた。

人々が集団で忘れ去ったものは、その輪郭を失い、ゆっくりと透明になっていく。古い街灯、子供たちの笑い声が響いた公園、かつて愛された歌。それらは「ゴースト」と呼ばれ、陽炎のように揺らめきながら、やがて完全に消失する。俺の仕事は、消えかけの存在の記憶を人為的に拡散させ、その消滅をわずかに遅らせる延命治療のようなものだった。

「この灯台を、救ってください」

霧雨がアスファルトを濡らす日、俺の事務所を訪れた女はそう言った。アリアと名乗った彼女の瞳は、世界の終わりを映しているかのように静かだった。彼女が差し出した写真には、断崖に立つ白亜の灯台が写っている。彼女の祖父が、最後の灯台守だったという。

「もう、覚えているのは私くらいなんです。このままでは、灯台は…」

声が震えていた。俺は差し出された報酬額が記された端末に目を落とし、無感情に頷く。失っていく自分の記憶を埋めるには、金が必要だった。このひび割れた自己を繋ぎ止めるための、唯一の接着剤。俺はアリアの依頼を引き受けた。それが、俺という存在そのものを揺るがす選択になるとも知らずに。

第二章 漆黒の砂時計

アリアの運転する旧式の電気自動車に揺られ、岬へと向かう道中は、まるで世界の墓標を巡る旅のようだった。建物の半分は透け、向こう側の景色と混じり合っている。走る車の音さえ、水中で聞くようにくぐもって聞こえた。忘却は、聴覚や嗅覚さえも奪っていく。

だが、岬に近づくにつれて、空気が変わった。潮の香りが、まるで結晶になったかのように密度を増し、肌を撫でる風には確かな冷たさがあった。そして、霧の向こうに、その灯台は現れた。

「…すごい」

思わず声が漏れた。周囲の風景が滲んだ水彩画なら、灯台だけは油彩で描かれたように、圧倒的な存在感を放っていた。石造りの壁は、一つ一つの凹凸までくっきりと見え、長い歳月を刻んだ質感が伝わってくる。世界から忘れ去られかけている存在とは、到底思えなかった。

アリアに導かれ、螺旋階段を上る。ひんやりとした石の感触が、手のひらに実在を訴えかけてくる。最上階の灯室に辿り着いた俺たちの目に、異様なものが飛び込んできた。部屋の中央、古い木製の台座の上に、それは鎮座していた。

『漆黒の砂時計』。

黒曜石を削り出したかのような滑らかな曲線を持つ、高さ三十センチほどの砂時計。だが、その中の砂は黄金色に輝き、まだ上半分にほとんどが溜まっていた。俺は息を呑む。この砂時計は、ただの骨董品ではない。世界に数個しか存在しないと言われるアーティファクト。空間の『記憶の密度』を計測する装置だ。砂が全て落ちきった時、その空間に存在する全ての物質は、誰が覚えていようといまいと、一瞬で消失する。

「どうして…」

忘れられているはずのこの場所の記憶密度が、なぜこれほど高い? 砂は、まるで時が止まったかのように、一粒も落ちていなかった。

第三章 偽りの追憶

俺は仕事に取り掛かった。アリアから灯台の思い出を丹念に聞き出す。祖父と交わした言葉、ランプの灯が海を照らす光景、嵐の夜に壁に伝わってきた風の振動。彼女の記憶は鮮やかで、温かかった。俺はそれを高純度のデータに変換し、夜ごと街の人々の夢に潜った。

『君も昔、あの灯台を見たことがあるはずだ』

『夏の日、友達と岬まで自転車を走らせた記憶を思い出せ』

偽りの記憶を、真実であるかのように、そっと心の隙間に滑り込ませる。だが、潜航を繰り返すたびに、俺の中から何かが確実に失われていった。昨日の夕食の味が思い出せない。愛用していた万年筆のメーカー名が浮かばない。手帳に殴り書かれた自分の文字が、まるで他人のもののように見えた。

ある夜、潜航から覚醒した俺は、鏡に映る自分の顔が誰だか分からなくなった。数秒間、ただ呆然と、見知らぬ男を見つめていた。恐怖が背筋を駆け上がり、俺は洗面台に手をついて喘いだ。

「ミナトさん? 大丈夫?」

背後からアリアの声がした。心配そうな顔で俺を覗き込んでいる。俺は彼女の名を呼ぼうとして、言葉に詰まった。思い出せない。この優しい眼差しの女の名前が。

ポケットの手帳を必死で探り当て、震える指でページをめくる。

『依頼人:アリア』

その文字を見て、ようやく俺は安堵の息を吐いた。

「…ああ、大丈夫だ」

俺の笑顔は、きっとひどく引き攣っていたに違いない。アリアの瞳の奥に、哀れみがよぎったのを、俺は見逃さなかった。

第四章 不透明な真実

俺の努力も空しく、世界の透明化は止まらなかった。むしろ、灯台の周辺から急速に色と形が失われていく。まるで、灯台という一点に存在が吸い寄せられ、その周囲が真空になっているかのようだった。

「何かがおかしい…」

俺は再び灯台を訪れ、その壁をくまなく調べ始めた。記憶を植え付けても意味がないのなら、この灯台自体に秘密があるはずだ。風雨に晒された石の壁を、指先でなぞっていく。その時、北側の壁の、蔦に隠れた一角に、奇妙な手触りを感じた。蔦を剥がすと、そこには精緻な幾何学模様が刻まれていた。現代の技術ではありえない、複雑で美しい紋様。

俺は、何かに導かれるように、その模様の中心にそっと手を触れた。

瞬間。

閃光が脳を貫いた。

それは記憶の洪水。だが、俺のものではない。誰のものでもない。見たこともない風景、聞いたこともない言語、感じたことのない感情が、激流となって俺の意識を飲み込んでいく。

――荒廃し、赤茶けた大地。ひび割れた空。滅びゆく未来の地球。

――地下シェルターで、最後の希望を託す科学者たちの憔悴した顔。

――『メモリウム計画』。集団記憶によって構築された旧世界を一度リセットし、未来から送った『記憶の種子(メモリウム・シード)』をアンカーとして、世界を再構築する壮大な計画。

そして、俺は理解した。

この灯台が、その『種子』の一つだったのだ。世界が透明化しているのではない。未来の技術によって、意図的に『リセット』されているのだ。古くなったデータを消去するように。

第五章 最後の選択

未来からの情報は、俺に過酷な真実を突きつけた。

世界を再構築し、『種子』を起動させるには、膨大で純粋な記憶データを捧げる『触媒』が必要なのだという。そして、その最高の触媒こそが、記憶を外部データとして抽出し、自らの記憶を失っていく特殊な能力者――つまり、俺自身だった。

俺の能力も、記憶の喪失も、全てはこの瞬間のために仕組まれていた。俺という存在は、この世界を救うための、ただ一つの鍵にすぎなかった。

「…そんな」

俺は呆然と、灯室の『漆黒の砂時計』を見つめた。あれは、記憶の密度を測るだけの装置ではなかった。捧げられた記憶を受け取り、『種子』を起動させるための祭壇だったのだ。

俺が全記憶を捧げれば、世界は再構築される。だが、ミナトという人間は、完全に消滅する。

背後で、アリアが息を呑む気配がした。俺の顔色の変化で、全てを察したのかもしれない。彼女は震える声で言った。

「だめ…ミナトさん、あなたがいなくなったら、灯台が残っても、世界が救われても、意味がない…!」

彼女の言葉が、空っぽになりかけていた俺の胸を抉る。アリアとの短い時間。彼女の笑顔。彼女が淹れてくれたコーヒーの香り。それだけは、まだ、確かにここに在る。

消えゆく世界で、この温かい記憶と共に最後まで抗うか。

あるいは、この記憶さえも捧げ、名もなき世界の礎となるか。

俺の選択に、世界の運命が委ねられていた。

第六章 君が憶えているなら

俺は、アリアの方を振り向いた。そして、最後の力を使って、彼女の夢に潜った。これまでで最も深く、そして優しい潜航。

『アリア、君は新しい世界で生きるんだ』

『僕のことは忘れる。これは君が幸せになるための、最後の記憶』

それは偽りの記憶なんかじゃなかった。俺の、たった一つの本心だった。彼女の意識の奥底に、温かい光の種をそっと植え付け、俺はそっと夢から離脱した。

涙を流しながら眠るアリアの頬を、そっと撫でる。その感触を忘れないように、指先に刻みつける。

そして、俺は『漆黒の砂時計』に向き直った。

両手を、冷たいガラスにかざす。

「さよなら、アリア」

俺の全記憶が、光の奔流となって砂時計に吸い込まれていく。初めて父に手を引かれて歩いた日の記憶。友と笑い合った放課後の記憶。初めての仕事で失敗した悔しさ。そして、アリアと出会ってからの、色鮮やかで、あまりにも短い日々の記憶。

身体が、足元から光の粒子になって崩れていく。痛みはない。ただ、途方もない喪失感と、不思議な充足感が俺を包んでいた。

世界が、白に染まる。

***

再構築された世界。

アリアは、断崖に立つ白亜の灯台を見上げていた。空はどこまでも青く、海はきらめき、潮風が優しく頬を撫でる。完璧な世界。なのに、なぜだろう。胸の奥が、きゅっと締め付けられるように痛んだ。わけもなく涙が溢れてくる。

まるで、ここにいるはずの、大切な誰かを忘れてしまったかのような。

彼女の足元、草むらに、何かが光を反射して転がっていた。それは、中身が空っぽになった、ただの美しいガラス細工。漆黒の砂時計だった。彼女はそれを拾い上げ、そっと胸に抱きしめた。

空っぽのはずのガラスの中から、一瞬だけ、誰かの優しい声が聞こえた気がした。

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