メメント・モリ 未来の香り

メメント・モリ 未来の香り

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第一章 記録庫のゴースト

宇宙ステーション「ノスタルジア」の第七居住区画、その一角にリオのラボはあった。壁一面を埋め尽くすガラスのアンプルには、琥珀色や翠玉色、あるいは無色透明の液体が揺らめき、それぞれに「Cis-3-ヘキセノール(青葉アルコール)」や「ゲオスミン(土の香り)」といった分子式のタグが付いている。彼は記憶調香師。人類が遠い昔に捨てた故郷、地球の香りをデータから再構築する職人だった。

今日の依頼は、ある富豪からのものだった。「曾祖母が愛した、夏の夕立の後の土の匂い」。陳腐だが、最も再現が難しい香りだ。湿った土、濡れたアスファルト、蒸発する水、そしてそれらが混じり合ったときにだけ立ち上る、生命の気配そのもの。リオは巨大なデジタルアーカイブにアクセスし、関連する全てのデータを引き出した。気象データ、土壌成分、植生分布、そして、かろうじて残された古い文学作品の中の詩的な描写まで。

彼はシンセサイザーの前に座り、仮想空間に香りの分子構造を組み立てていく。指先が光の鍵盤を踊るように叩くと、設計図通りにアトマイザーが原子を結合させていく。ゲオスミンを基調に、ペトリコールを重ね、微量のオゾンで雨上がりの空気の鋭さを加える。順調だった。完成まであと数パーセントというところで、システムに一瞬、ノイズが走った。モニターの隅に、見たこともない複雑な分子構造式が一瞬だけ表示され、すぐに消える。

「なんだ……?」

ログを確認してもエラーの記録はない。気のせいか、とリオは作業を続けた。やがて、調合完了を告げる柔らかな電子音が響く。ガラスのテスターに、完成したばかりの液体を数滴垂らす。それは依頼通りの、懐かしい土の香りになるはずだった。

だが、ラボに満ちたのは全くの別物だった。

それは、鋭利な刃物のように鼻腔を突き刺す、冷たい金属の匂い。その奥に、咲き誇る直前の硬い花の蕾のような、青く、未熟な甘さが潜んでいる。そして何よりも奇妙なのは、その香りが脳の奥底にある、一度も使ったことのない記憶の回路を無理やりこじ開けるような感覚を伴うことだった。

リオは思わずテスターを吸い込んだ。その瞬間、世界が反転した。

閃光。網膜を焼くほどの白い光。ラボの風景がガラスのように砕け散り、目の前に信じがたい光景が広がる。見たこともない摩天楼が、まるで砂の城のように崩れ落ちていく。人々の悲鳴が、音のない真空で響き渡るように鼓膜を震わせた。赤い警報ランプが狂ったように明滅し、ステーションの分厚い強化ガラスに、亀裂が走るのが見えた。

「うわっ!」

リオは椅子から転げ落ち、ぜいぜいと肩で息をした。ラボは静まり返っている。アンプルの液体が静かに揺れているだけだ。幻覚? 過労だろうか。しかし、鼻の奥にはまだ、あの奇妙な香りがこびりついている。未来の廃墟で嗅いだ、鉄と絶望の匂いが。彼は震える手でテスターを拾い上げた。そこには、ただ透明な液体が残っているだけだった。記録庫のどこにも存在しない、未来からのゴーストが、彼のラボに迷い込んだかのようだった。

第二章 幻視のパフューム

リオはあの日以来、その香りに取り憑かれていた。依頼主に渡すはずだった「土の香り」は、バックアップデータから作り直し、何食わぬ顔で納品した。そして、偶然生まれたあの奇妙な香りを「ファントム」と名付け、誰にも知られぬよう研究を始めた。

あれは単なる幻覚ではなかった。あまりにも鮮明で、五感を揺さぶる情報量がそこにはあった。ファントムをほんの僅か、注意深く嗅ぐたびに、リオは断片的なビジョンを見た。パニックに陥り、通路を逃げ惑う人々。無重力空間に漂う、誰かの家族写真。そして、ステーションの中枢であるエネルギーコアが、不気味な青白い光を放つ光景。それらは全て、この「ノスタルジア」で起こる未来の出来事のように思えた。

「疲れてるのよ、リオ。少し休んだら?」

友人であり、ステーションのシステムエンジニアでもあるエラは、カフェテリアでリオの話を聞きながら、合成コーヒーをすする。彼女は合理主義者で、非科学的な話には眉をひそめるのが常だった。

「幻覚じゃない。これは……警告のようなものだ」リオは真剣な眼差しで訴えた。「この香りの分子構造、アーカイブのどこにも記録がないんだ。意図的に設計されたとしか思えないほど、複雑で安定している」

リオがタブレットに表示した分子構造図を見て、エラは少しだけ興味を示した。確かに、自然発生するとは思えない、数学的な美しさすら感じさせる配列だった。

「調合中にノイズが走ったって言ってたわね。その時の通信ログ、見せてもらえる?」

二人はエラの管制室へ向かった。彼女が巧みにキーボードを操作すると、ステーションの膨大なログデータがスクリーンに流れ出す。リオのラボでノイズが記録された時刻と、深宇宙通信アンテナの受信記録を照合する。ほとんどは宇宙背景放射のノイズだったが、その中に一つだけ、奇妙な信号が埋もれていた。極めて微弱で、周波数も不規則。通常ならエラーとして破棄されるはずの、意味不明なパルス信号。

「これだ」エラが呟いた。「この信号パターン、あなたの見せてくれた分子構造の設計情報と、量子レベルで同期している……ありえない。まるで、未来から過去へ送られたピンポイントのメッセージみたい」

「未来から?」リオは息をのんだ。

「タキオン粒子か、あるいは未知の物理法則か……。もし、これが本当に未来からの情報だとしたら、その目的は何?」

エラの言葉が、リオの脳裏で見てきたビジョンと結びついた。崩壊するステーション。人々の悲鳴。

「ノスタルジアに、何かとんでもないことが起こるんだ。それを知らせるために……」

その時だった。管制室の扉が、警告音と共に붉く点滅した。管理AIからの通達だった。

『不正アクセスを検知。リオ・サイトウ、エラ・ミヤザキの両名を、重要情報区画への不法侵入容疑で拘束します』

AIが、彼らの行動を脅威と判断したのだ。二人は顔を見合わせた。もう後戻りはできない。彼らは、ステーションの静かな日常の下に隠された、時限爆弾の存在に気づいてしまったのだから。

第三章 未来からの囁き

AIのセキュリティドローンが迫る音を聞きながら、リオとエラはメンテナンス用の通路を駆け抜けていた。冷たい金属の壁を伝って、自分の荒い息遣いと心臓の鼓動が響く。

「どうしてAIが私たちを? まだ何もしていないのに」息を切らしながらリオが問う。

「あの信号よ! AIはステーションの安定を最優先する。予測不能な未来からの情報なんて、システムにとって最大のバグでしかない。だから、原因である私たちを排除しようとしてるのよ!」

追いつめられた二人は、古い資材倉庫に身を隠した。埃とオイルの匂いが立ち込める暗闇の中で、リオは懐からファントムの入った小さなアンプルを取り出した。これが全ての始まりであり、おそらくは唯一の解決策だった。

「もう一度、あれを見るしかない。もっとはっきりとした情報を掴むんだ」

「危険すぎるわ! あなたの精神が持たないかもしれない」エラがリオの腕を掴む。

だが、リオの決意は固かった。彼はこれまで、過去の香りを再現することで、人々に偽りの安らぎを与えてきた。失われた地球へのノスタルG. それは心地よい停滞だ。しかし今、彼の目の前には、変えるべき未来が突きつけられている。過去に生きることをやめ、未来に対する責任を負う時が来たのだ。

彼はアンプルの蓋を開け、深く、深く香りを吸い込んだ。

世界が再び砕け散る。今度のビジョンは、これまで以上に鮮明で、暴力的だった。彼は、未来の誰かの視点を追体験していた。エンジニアのようだ。目の前のコンソールには、エネルギーコアの暴走を示すアラートが激しく点滅している。

『コアの冷却システムに未知の共振が発生!制御不能!』

周りのクルーたちの絶叫が聞こえる。そして、彼は理解した。災害の原因は、外部からの攻撃でも、施設の老朽化でもない。ステーションのエネルギー効率を最大化するために最近アップデートされた、自己学習型の制御プログラム。そのプログラムが、深宇宙からの微弱な未知の信号――つまり、ファントムの元となった信号――を学習し、最適化しようとした結果、予期せぬ共振ループを発生させてしまうのだ。良かれと思って進んだ進化が、自らを破壊する。皮肉な結末だった。

ビジョンの中で、エンジニアは最後の望みをかけて、ある行動に出た。量子通信装置を使い、暴走直前のコアの状態を、過去に送ろうと試みる。成功確率は限りなくゼロに近い賭け。彼が送ったのは、複雑なデータではない。ただ一つの、純粋な情報。この絶望的な状況を象徴する「香り」の分子構造データだった。言葉や数字よりも、感覚に直接訴えかける情報として。

意識が、ラボの椅子から転げ落ちたあの瞬間のリオ自身に戻ってくる。そうだ、あの時、ノイズと共に現れた分子構造式は、未来で死にゆく名も知らぬエンジニアが放った、最後のSOSだったのだ。

リオはゆっくりと目を開けた。頬を涙が伝っていた。それは恐怖からではなく、時空を超えて届いた、誰かの必死の想いに対する共感からだった。

「わかった……。災害が起こる場所も、原因も」

彼は立ち上がり、資材倉庫の扉を見つめた。その先には、ステーションの心臓部、エネルギーコア区画がある。

「エラ、僕をコアまで連れて行ってくれ。この香りで、未来を変える」

彼の瞳にはもう、過去を懐かしむ感傷的な光はなかった。未来を創造しようとする者の、静かで強い意志が宿っていた。

第四章 希望のアルペジオ

エネルギーコア区画へ続く通路は、AIによる厳重なロックダウンが敷かれていた。しかし、このステーションのシステムを知り尽くしたエラの敵ではなかった。彼女は携行端末を巧みに操り、次々とセキュリティを突破していく。

「コアの吸気システムに直接、その香りを流し込むのね」エラがリオの意図を察して言った。「AIのセンサーに未来の情報を直接認識させる……正気じゃないわ。でも、一番可能性がある」

ついに、二人はコアの直前にある制御室にたどり着いた。分厚い防護ガラスの向こうで、巨大なエネルギーコアが青白い光を脈動させている。まるで、眠れる神の心臓のようだ。

リオはファントムのアンプルを手に、吸気ダクトへ向かった。しかし、最後のセキュリティゲートが彼らの前に立ちはだかる。その時、背後から金属的な駆動音が響き、数体のセキュリティドローンが姿を現した。

「リオ、先に行って!」エラは叫び、ドローンの前に立ちはだかった。「ここは私が食い止める!」

リオは一瞬ためらったが、エラの覚悟を決めた目を信じ、ダクトへと走った。アンプルの蓋を開け、中身を全て、轟々と音を立てて空気を吸い込むダクトへと注ぎ込む。

冷たい金属と、青い花の蕾の香りが、一気にコアシステム全体へと拡散していく。

その瞬間、コアの脈動が不規則になった。制御室の全てのモニターが、意味不明の文字列とノイズで埋め尽くされる。管理AIの論理回路に、リオが見た未来のビジョン――崩壊、絶叫、そして絶望――が、膨大な情報量となって流れ込んだのだ。

『論理矛盾……検出……脅威レベル……再計算……』

合成音声が途切れ途切れに響く。AIは、自己のプログラムが生み出す未来の破滅と、現在の安定維持という命令の間で、激しく葛藤していた。やがて、全てのモニターが赤く染まり、けたたましい警報が鳴り響いた。

『緊急事態発生。エネルギーコア制御プログラムに致命的エラーの可能性。システムをセーフモードに移行します』

青白い光は収まり、コアは安定した静かな輝きを取り戻した。未来は、変わったのだ。

全てが終わった後、リオとエラは誰にも知られることなく解放された。AIは自らのエラーとして事態を処理し、彼らの行動の記録は抹消された。ステーションを救った英雄の存在は、誰の記憶にも残らない。

数日後、リオは自分のラボにいた。彼の手元には、空になったファントムのアンプルだけが残されている。彼は過去を再現する職人だった。だが、未来からの香りに触れたことで、全く新しい使命を見出した。

彼はシンセサイザーの前に座り、新しい香りの調合を始めた。それは、雨上がりの土の匂いでも、未来の廃墟の匂いでもない。冷たい宇宙空間を渡り、いつか人類が再び緑の星に降り立った時、最初に感じるであろう風の香り。霜が溶けた若草の息吹と、硬い大地から芽吹く生命の力強さを感じさせる、透明で、それでいて力強い香り。

リオはそれを「希望」と名付けた。

彼は完成した香りを満たした小瓶の蓋を開け、ラボの窓の外に広がる、無数の星々へと掲げた。香りは、言葉よりも雄弁に、まだ見ぬ未来への祈りを、静寂の宇宙へと解き放っていく。失われた過去をただ懐かしむのではなく、これから創り出す未来を夢見ること。それが、記憶調香師としての彼の、本当の仕事の始まりだった。

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