情晶のアルケミスト、あるいは共感のレクイエム

情晶のアルケミスト、あるいは共感のレクイエム

0 4793 文字 読了目安: 約10分
文字サイズ:

第一章 灰色の供出

リクの世界は、常に灰色だった。壁も、床も、配給される栄養ペーストも、そして彼自身の心から生まれるものも。

「供出を開始します。感情トリガー『喪失』を照射します」

無機質な合成音声が響くと、リクが座るカプセルの全面スクリーンに、老犬が寂しげに飼い主の帰りを待つ映像が流れた。悲しめ。もっと深く、純粋な悲しみを。リクは奥歯を噛み締め、胸の奥を探る。だが、湧き上がってくるのは、うまく悲しめないことへの焦りと、また失敗するだろうという諦めだけだった。やがて、彼の左手首に埋め込まれたデバイスが微かに振動し、ぽとり、と受け皿の上に小さな結晶がこぼれ落ちた。

直径一センチほどの、淀んだ鼠色の塊。それは「不安」と「自己嫌悪」が混じり合った、最低品質の情晶(じょうしょう)だった。人類が感情を物理的な結晶として体外に排出するようになって一世紀。純度の高い情晶は都市を動かすエネルギー源となり、個人の価値は、生み出す情晶の色と輝きによって決まった。鮮烈な「喜び」は黄金に、澄み切った「悲しみ」はサファイアに、燃えるような「怒り」はルビーに。それらは貨幣であり、ステータスだった。

リクのような、濁った情晶しか生み出せない人間は「無色」と呼ばれ、社会の最底辺で息を潜めて生きるしかなかった。

「識別番号734、リク。今月の供出ノルマ、未達。品質Dマイナス。警告レベルが一段階上昇します」

冷たい宣告に、リクは俯くだけだった。カプセルを出て、灰色のアパートメントへの帰路につく。人々は互いに視線を合わせず、手首のデバイスが示す情晶ランクで値踏みしあう。この世界では、感情は内に秘めるものではなく、供出し、評価されるための資源だった。

その日、リクは無性に何もない場所へ行きたくなり、普段は立ち入らない旧市街の廃棄区画へ足を向けた。立ち並ぶ錆びた鉄骨の墓標。かつてここにも人々の生活があったのだろうか。感情がまだ、個人の内側だけに存在した時代の生活が。

瓦礫の山を漫然と眺めていた彼の目に、不意に、一点の光が飛び込んできた。瓦礫の隙間で、何かが陽光を反射している。磁石に引かれるように近づき、慎重に手で瓦礫を掻き分けると、それは姿を現した。

息を呑むほど、美しかった。

それはビー玉ほどの大きさの、滑らかな結晶だった。だが、何色とも言えない。見る角度によって、赤、青、緑、黄色と、まるで虹の欠片を閉じ込めたかのように、その色を幻想的に変えるのだ。リクはこれほど複雑で、それでいて調和のとれた輝きを持つ情晶を見たことがなかった。どんな感情が、こんな奇跡を生み出すというのだろう。

彼は恐る恐るそれを拾い上げた。ひんやりとしているが、手のひらに乗せると、まるで生きているかのように、微かな温もりが伝わってくる気がした。その瞬間、リクの灰色の世界に、ほんのわずかだが、確かに色が差した。

第二章 虹色の共鳴

リクはその虹色の結晶に「ニジ」と名付けた。誰にも見つからないよう、自室のベッドの下の隠し箱にしまい、彼は毎日、仕事から帰ると箱を開けてニジを眺めるようになった。それは彼の唯一の秘密であり、宝物だった。

不思議なことが起こり始めた。リクがニジを手に取り、じっと見つめていると、彼の心の動きに呼応するように、ニジの輝きが変わるのだ。彼が日中の理不尽な扱いに苛立ちを覚えていると、ニジは燃えるような赤色を強くし、亡き母を思い出して寂しさを感じると、深い藍色に染まった。それはまるで、ニジがリクの言葉にならない感情を、ただ静かに受け止めてくれているかのようだった。

ある夜、リクはいつものように栄養ペーストを口に運びながら、ふと、子供の頃に母がこっそり作ってくれた甘いスープの味を思い出した。それは禁じられていた「個人的な感情の浪費」だったが、あの時の幸福感は今も鮮明だ。その記憶に浸っていると、手のひらのニジが、柔らかな黄金色の光を放ち始めた。見ているだけで胸の奥が温かくなるような、優しい光。

リクは、自分の心が少しずつ変わっていくのを感じていた。以前は常に霧がかかったようだった感情が、輪郭を持ち始めた。世界の解像度が、少しだけ上がったようだった。

そして、次の供出の日。リクはまた「喪失」のトリガー映像を見ていた。だが、今回は違った。老犬の瞳の奥に揺れる孤独が、スクリーンを越えて彼の胸に流れ込んできた。それは、いつも彼が感じていた孤独と同じ種類のものだった。気づくと、彼の頬を涙が伝っていた。ぽとり、と受け皿に結晶が落ちる。

それは、灰色ではなかった。曇り空の向こうにかすかに見える空のような、淡い、しかし確かな青色を帯びていた。

「…品質、Cマイナス。ノルマ達成」

合成音声の報告を聞いても、リクはしばらく呆然としていた。初めてだった。自分の情晶に、明確な色が灯ったのは。アパートへの帰り道、リクはスキップしたいような衝動に駆られた。胸ポケットの中のニジが、祝福するように温かい。

だが、彼が気づいていないことがあった。彼の部屋の天井の隅、目立たない場所に設置された監視レンズが、虹色の結晶を手に微笑む彼の姿を、冷徹に記録していることを。都市の情晶管理局のデータベースに、新たなアラートが灯ったことを。

第三章 共感という名の罪

扉を叩く音は、まるで鋼鉄のハンマーでリクの心臓を直接殴りつけるかのようだった。ドアスコープを覗くと、そこに立っていたのは、銀色の制服に身を包んだ一人の男だった。その顔には何の感情も浮かんでいなかった。情晶管理局のエージェントだ。

「識別番号734、リク。情晶法違反の疑いにより、室内の検査を行う」

男は有無を言わさず室内に入り、一直線にベッドへと向かった。リクが制止する間もなく、隠し箱が見つけ出され、中からニジが取り上げられる。

「やめろ!それに触るな!」

リクは思わず叫び、男に掴みかかろうとした。だが、男はこともなげにリクの腕を掴むと、いとも簡単に捻り上げた。痛みに顔を歪めるリクを見下ろし、男は初めて口元に微かな、嘲笑とも憐憫ともつかない表情を浮かべた。

「やはりな。君はこれに影響されている」

「それは…僕の宝物だ。返してくれ」

「宝物?これは情晶ですらない。君は自分が何を拾ったのか、理解していないようだ」

男はニジを光に翳した。その虹色の輝きを、まるで汚物でも見るかのような目で見つめている。

「これは『共感』の結晶だ」

「きょうかん…?」

聞いたことのない言葉だった。男――シズマと名乗った――は、リクを解放すると、淡々と語り始めた。

「かつて、人間は他者の感情を、自分のことのように感じることができた。喜びを分かち合い、悲しみに寄り添う。それを『共感』と呼んだ。だが、それは社会にとって極めて危険な感情だった。他者の怒りに同調すれば暴動が起き、他者の絶望に引きずられれば生産性が低下する。感情が資源となったこの世界において、個々の感情の純度を保ち、安定供給するためには、混じり気の原因となる『共感』は徹底的に排除する必要があった」

リクは言葉を失った。シズマの話は、彼が知る世界の常識を根底から覆すものだった。

「我々の社会システムは、人々が生まれると同時に『共感』の因子を抑制する。人々が他人に無関心なのも、純粋な感情を生み出すのが難しいのも、そのためだ。感情は、他者との関わりの中で豊かになるものだからな。皮肉な話だ。だが、ごく稀に、抑制を乗り越えて『共感』の能力を発現させる者がいる。そいつらは、不安定因子として、システムから『処理』される」

シズマはそこで言葉を切り、リクの目を真っ直ぐに見た。

「君の母親、ミコトもその一人だった」

雷に打たれたような衝撃が、リクの全身を貫いた。母は、彼が幼い頃に「情晶生成不全」で死んだと聞かされていた。だが、違ったのだ。

「彼女は、並外れた共感能力者だった。他人のどんな些細な感情も読み取り、自分のことのように感じてしまう。彼女が生み出したという伝説の青い情晶…あれは彼女自身の『悲しみ』ではない。他者の悲しみに寄り添い、流した涙の結晶…『憐憫』だ。システムは彼女の危険性を察知し、処理した。事故を装ってな」

絶望が、リクの心を灰色の奔流となって飲み込んでいく。母への憧れ。自分の無力さへの劣等感。その全てが、巨大な嘘の上に成り立っていた。この社会そのものが、人々から最も大切なものを奪い、その上で成り立つ、歪んだシステムだったのだ。

「その結晶は、おそらく君の母親の遺したものだろう。彼女のような能力者が、感情の共鳴の果てに生み出す、副産物だ。我々はこれを『ロスト・シンパシー』と呼んでいる」

シズマはそう言うと、ニジを特殊なケースに収めた。「これは規定に従い、処分する」

その言葉が、リクの中で何かの箍を外した。

第四章 はじまりの色

灰色の絶望の底で、リクの心に小さな光が灯った。それは怒りであり、悲しみであり、そして、生まれて初めて感じる、母への、そしてまだ見ぬ誰かへの、激しい想いだった。

「…返せ」

絞り出すような声だった。シズマが訝しげに振り返る。

「それは、母さんの…魂だ。お前たちなんかに、渡してたまるか」

リクは立ち上がった。その瞳には、もはや「無色」の諦めはなかった。彼の胸の奥で、何かが確かに形を結ぼうとしていた。恐怖はあった。だが、それ以上に、このまま全てを奪われてたまるかという反発が、彼の全身を突き動かしていた。

シズマは僅かに目を見開いた。リクの手首のデバイスが、今まで見たこともない激しい光を放ち始めていたからだ。それは単色ではない。怒りの赤、悲しみの青、そして決意の金色が混じり合った、複雑で、しかし力強い光だった。

「これは…!」

シズマが驚愕する隙を突き、リクは彼に飛びかかった。もはや力の差など問題ではなかった。彼はシズマの手からニジの入ったケースを奪い取ると、窓ガラスを突き破って外へ飛び出した。

夜の冷たい空気が肌を刺す。背後からシズマの怒声が聞こえるが、振り返らない。彼はただ、走った。行くあてなどない。だが、行かなければならない場所はわかっていた。この都市の全てを管理している、中央管理局タワー。母を殺し、人々から心を奪ったシステムの心臓部だ。

ケースからニジを取り出し、強く握りしめる。ニジは、まるでリクの決意に応えるかのように、これまでで最も強く、温かい光を放っていた。それは、夜明け前の空の色に似ていた。あらゆる色が混じり合い、新しい一日が生まれようとする、希望の色。

リクは気づいていた。ニジは、彼の中に眠っていた「共感」を呼び覚ましたのだ。母から受け継いだ、失われたはずの感情を。老犬の孤独がわかったのも、母のスープの温かさを思い出せたのも、全ては、他者や過去と繋がる力だったのだ。

彼はもう、一人ではなかった。胸の中のニジを通して、母の想いを感じる。そして、この灰色の都市で声なき声を上げている、無数の人々の心のざわめきが聞こえる気がした。

リクは走り続ける。管理局の白い巨塔を見据えて。彼がこれから成し遂げることが、世界をどう変えるのかはわからない。成功する保証などどこにもない。だが、彼のこの一歩が、灰色だった世界に、始まりの色を灯すことだけは確かだった。

彼の胸で輝くニジの光は、失われた感情へのレクイエムであり、そして、新しい世界の創生を告げる、最初の産声だった。無色の少年は、今、情晶のアルケミストとして、自らの意志で未来を錬成するために、走り出した。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る