クロノスの修復師

クロノスの修復師

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第一章 静寂のオルゴール

宇宙塵が舞う静寂の宙域に、リオンの工房は小惑星のように孤独に浮かんでいた。彼は銀河にその名を知られた遺物修復師――レリック・リストアラーだ。失われた文明のガラクタに再び命を吹き込むその腕は、神業とさえ呼ばれていたが、リオン自身の時間は、五年前、恋人エラを失ったあの日から止まったままだった。

工房の中は、精密工具の金属光と、分析モニターの青い光だけが満たしていた。壁一面に収められた遺物の数々が、声なき物語を秘めて佇んでいる。リオンは、そんな静寂を好んだ。余計な音は、不意に過去の記憶の扉をこじ開ける。彼が最も恐れるのは、あの日のブレーキ音と、ガラスの砕ける音、そして最後の息遣いだった。

その日、工房の通信コンソールが、珍しく外部からの着信を告げた。ホログラムの台座から立ち上ったのは、輪郭が揺らめく人影だった。ノイズの向こうの依頼主は、自らを「カリオペ」と名乗り、感情の乗らない合成音声で用件だけを告げた。

「修復を依頼したい遺物があります。『忘却のオルゴール』。成功報酬は、あなたの言い値で」

リオンの眉が微かに動いた。『忘却のオルゴール』――それは、修復師たちの間で語り継がれる伝説の遺物。創造主も、動作原理も一切が不明。数多の名工が挑み、誰一人としてその沈黙を破れなかった禁断のアーティファクト。

「不可能だ。あれは修復という概念を超えている」リオンは即座に断った。これ以上、自分の心をかき乱すものはごめんだった。

「あなたの過去を清算できる、唯一の機会かもしれません」

カリオペの言葉は、リオンの心の最も柔らかな部分を的確に抉った。ホログラムの向こうの顔は見えない。だが、全てを見透かされているような感覚に、背筋が冷たくなる。リオンはしばらく黙考した後、重い口を開いた。「…物を、ここに」

数日後、リオンの工房に、厳重なステイシス・フィールドに包まれた箱が届いた。フィールドを解除すると、現れたのは掌に乗るほどの小さなオルゴールだった。未知の合金で作られた筐体は、夜の宇宙を溶かし込んだように深く、鈍い光を放っている。その表面には、まるで無数の流星が刻んだような、繊細で複雑な傷がびっしりと刻まれていた。

リオンはマイクロスコープを覗き込み、その傷をなぞった。これは単なる損傷ではない。何かの記録、あるいは言語のようにも見えた。だが、彼の知識の及ぶどの文明のパターンとも一致しない。そして何より、このオルゴールは完全な静寂を保っていた。内部構造をスキャンしても、音を出すべき機構はどこにも見当たらない。ただ、中心部に微かなエネルギーの残滓が検出されるだけだった。

彼は冷たい金属の感触を確かめるように、そっとオルゴールに触れた。その瞬間、脳裏を鋭い閃光が走り抜けた。

――陽光の下で笑うエラの顔。彼女が好きだった、野生のルナリアの花の香り。

リオンは弾かれたように手を引いた。ただの幻覚か。だが、あまりに鮮明な感覚だった。この遺物は、何かがおかしい。彼の止まっていた時間が、この小さな箱によって、無理やり動き出そうとしている。その予感が、リオンの胸を不吉にざわめかせた。

第二章 過去からの響き

オルゴールの修復は、困難を極めた。物理的な破損ではない以上、リオンの持つ技術の大半は意味をなさなかった。彼はまず、筐体に刻まれた無数の傷の解読から始めた。それは、星々の配置、原子の振動、そして生命の遺伝子情報までもが織り込まれた、一種の宇宙的交響曲の楽譜のようだった。リオンは寝食を忘れ、その解読に没頭した。

作業中、奇妙な現象が頻発した。オルゴールに触れるたび、エラとの記憶が、まるで昨日のことのように蘇るのだ。初めて手を繋いだ時の彼女の指先の温もり。一緒に見上げた、二重星のオーロラ。些細なことで喧嘩した後の、気まずい沈黙。それらは、彼が忘却の彼方に押しやろうとしていた、宝物のような時間だった。

同時に、罪悪感もまた、色鮮やかに蘇る。あの日、惑星間ハイウェイでのことだ。彼女の操縦するエアカーに同乗していたリオンは、自分の研究データの話に夢中になっていた。迫りくる貨物シャトルの警告音に、彼女が気づくのが一瞬遅れた。もし、自分が彼女の注意を逸らさなければ。もし、あの時、自分が運転を代わっていれば。後悔の「もし」が、彼の思考を蝕んでいく。

「違う…」リオンは頭を振った。オルゴールは、彼の記憶に干渉している。だが、なぜ?何のために?

ある晩、彼はオルゴールの中心部に存在するエネルギーの残滓が、人間の脳波、特に記憶を司る海馬の活動パターンと酷似していることに気づいた。この遺物は、持ち主の記憶そのものを動力源としているのではないか? そして、筐体の傷は、その記憶を「再生」するための回路なのではないか?

だとすれば、このオルゴールが沈黙しているのは、再生すべき記憶が、持ち主の後悔によって歪められ、再生不可能な状態に陥っているからかもしれない。

リオンは、自らの仮説に慄いた。このオルゴールを修復するということは、自分の最も見たくない記憶の核心と向き合うことを意味する。エラの死の瞬間を、もう一度、この手で再構築しなければならないのかもしれない。

「やめるか…」弱音が口をついて出た。だが、脳裏に蘇るエラの笑顔が、それを許さなかった。彼女の記憶がこのまま歪んだ形で封じられるくらいなら、どんな痛みも受け入れよう。彼は決意を固め、再びオルゴールに向き合った。彼は、筐体の傷と自分の記憶の断片を、一つ一つ、パズルのピースを合わせるように、慎重に繋ぎ合わせていった。それは、自分の魂を削るような、孤独な作業だった。

第三章 血の雫と真実

修復作業が最終段階に入った夜、リオンは極度の疲労から、精密ニードルで自らの指先を傷つけてしまった。一滴の赤い血が、ゆっくりとオルゴールの中央、エネルギーコアの真上に滴り落ちた。

その瞬間だった。

オルゴールが、今まで見せたことのない淡い青色の光を放ち始めた。工房の空気が震え、空間が歪む。リオンが息を呑むと、光の中から、ゆっくりと人影が立ち上った。

「エラ…?」

光の粒子でできた、半透明のエラがそこに立っていた。彼女は、リオンが最後に見た時と寸分違わぬ姿で、困ったように微笑んでいた。

「リオン。久しぶりね」

その声は、リオンの記憶の中にある声そのものだった。だが、温かみがあった。彼は震える手を伸ばすが、その指はエラの体をすり抜ける。

「どうして…」

「この子はね、忘れたものじゃなくて、『失われた時間』を見せてくれるの」エラの幻影は、足元のオルゴールを優しく見つめた。「後悔で見えなくなった、本当の時間を」

リオンは混乱した。これは、自分の記憶が生み出した幻影ではないのか?

「あの日、あなたは自分のせいだって、ずっと思ってるでしょ?」エラは続けた。「でもね、聞いてほしかった言葉があるの。あなたがデータの話に夢中になるくらい、その研究が好きだってこと、私は嬉しかった。だから、あなたの話を聞くのに、私も夢中になってた」

幻影の周囲に、事故の光景が再構成されていく。だが、それはリオンの記憶とは少しだけ違っていた。警告音に気づいたエラは、冷静に回避操作を試みていた。しかし、相手の貨物シャトルが、予測不能な軌道変更を行ったのだ。あれは、誰にも避けられない、純粋な「事故」だった。

「あなたのせいじゃない」エラは、リオンの頬にそっと触れようとして、その手がすり抜けることにもどかしそうな表情をした。「あなたは、私の最後の瞬間に、私の名前を呼んでくれた。それで十分だったの。幸せだった」

リオンの目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。五年もの間、彼の心を縛り付けていた罪悪感という名の枷が、音を立てて砕けていく。彼は、自分自身を許すために、エラの死を自分のせいにしなければならなかったのだ。その歪んだ記憶こそが、オルゴールの沈黙の原因だった。

このオルゴールは、触れた者の「失われた時間」――後悔によって歪められた記憶の真実の姿――を、その持ち主の生命力(血液)を対価に、一時的に実体化させる装置だったのだ。

リオンは、泣きながら笑った。そして、エラの幻影に、ずっと言えなかった言葉を伝えた。

「愛してる、エラ。今もずっと」

エラの幻影は、世界で最も美しい笑顔を見せ、ゆっくりと光の粒子に還っていった。工房には、再び静寂が戻った。だが、その静寂は、以前とは全く違う、温かく優しい響きを持っていた。

第四章 別れのフーガ

エラとの再会と別れを経て、リオンの心は穏やかな海のように凪いでいた。彼は、オルゴールの最後の修復に取り掛かった。それはもはや作業ではなく、エラへの手紙を書くような、祈りにも似た行為だった。彼は、自分の記憶の最後のピース――彼女への感謝の気持ち――を、オルゴールの回路に繋いだ。

すべての傷が、正しい記憶の連なりへと修復された瞬間、オルゴールは静かに振動を始め、そして、澄み切った音色を奏で始めた。

その音は、旋律と呼ぶにはあまりに複雑で、多次元的だった。星の生まれる音、花の咲く音、そして、愛する者の囁き。宇宙のあらゆる記憶が、その音色の中に溶け込んでいるようだった。

リオンは目を閉じて、その音に耳を澄ませた。すると、無数の響きの中から、一つの声が聞こえてきた。

――ありがとう、リオン。

それは紛れもなく、エラの声だった。

修復が完了したオルゴールを前に、依頼主であるカリオペのホログラムが再び現れた。

「見事です、リオン。あなたは『忘却のオルゴール』に、真の名を与えた」

「真の名?」

「それは『追憶のコンチェルト』。過去を書き換えるのではなく、過去と和解し、未来へと繋ぐためのもの。我々、創造主の末裔は、これを正しく使える魂を、永い間探していました」

カリオペは、リオンが自らの力で過去を乗り越えたことを見届け、深く頭を下げた。

「このオルゴールは、あなたに託します。あなたなら、他の誰かの『失われた時間』も、きっと救うことができるでしょう」

そう言うと、カリオペのホログラムは静かに消えた。

工房には、リオンと、美しい音色を奏で続けるオルゴールだけが残された。彼は窓の外に広がる星々を見上げた。以前は、ただの冷たい光の点にしか見えなかった星々が、今は一つ一つ、温かい物語を宿しているように感じられた。

彼はもう、過去を恐れない。エラとの記憶は、重荷ではなく、彼を未来へと押し出してくれる翼になった。

リオンは、工房のコンソールを開き、自らのステータスを更新した。

『レリック・リストアラー(遺物修復師)』から、『クロノス・リストアラー(時間修復師)』へ。

彼の仕事は、まだ始まったばかりだ。宇宙のどこかで、過去に囚われ、沈黙している魂を救うために。

リオンの工房に、新たな依頼の着信音が響いた。彼は、穏やかな微笑みを浮かべて、それに応答した。窓の外では、夜明けを告げる恒星の光が、彼の新しい始まりを祝福するように、静かに差し込んでいた。

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