無色の心の在り処

無色の心の在り処

0 4598 文字 読了目安: 約9分
文字サイズ:

第一章 硝子の無感情

人類が感情を可視化する術を得て久しい。人々は、強い感情の昂りに応じて、涙のように体外へ排出される色とりどりの結晶――『情動晶』と共に生きていた。喜びは陽光のような黄金色に、悲しみは深い海のような藍色に、怒りは燃え盛る炎のような緋色に結晶化する。街には情動晶を加工した宝飾店が軒を連ね、人々は自らの感情をアクセサリーのように身に着けて自己を表現した。それは豊かで、あまりにも率直な世界だった。

だが、僕、リヒトにとって、その世界は息苦しい牢獄に他ならなかった。

僕は、他人の数倍も情動晶を排出しやすい特異体質だった。些細なことで胸から溢れ出す色とりどりの硝子の粒は、僕の内面を無防備に晒し、好奇と侮蔑の視線を集めた。だから僕は、いつしか感情に蓋をすることを覚えた。心を凪いだ水面のように保ち、何事にも動じない鉄仮面を被る。その甲斐あって、今では僕から情動晶が生まれることは滅多になかった。僕は自分の体質を研究対象とすることで皮肉な自己防衛を確立し、今では情動晶分析官として、都市の研究所に勤めている。

その日も、僕は無機質な分析室で、各地から送られてくる情動晶のデータ化に没頭していた。電子顕微鏡が映し出す結晶構造の微細な差異を眺める作業は、僕の心を無色透明に保つのに都合が良かった。そんな時、助手のドローンが新たなサンプルを運んできた。辺境の未踏査領域で発見されたという、所有者不明の情動晶だった。

「リヒト分析官。規定外サンプルの解析依頼です」

「規定外?」

僕は無表情を崩さぬまま、厳重なケースに収められたそれを受け取った。蓋を開けた瞬間、息を呑んだ。そこに鎮座していたのは、僕がこれまでに見たことも、文献で読んだことすらない代物だった。

それは、完全に「無色透明」だったのだ。

情動晶は、含有される微細な感情素子の種類と密度によって色が決定される。理論上、全ての感情素子がゼロでなければ、無色にはなり得ない。それは「感情が存在しない」ことの証明に他ならなかった。まるで、純粋な水が凍ってできた氷のように、どこまでも透き通り、光をただ真っ直ぐに通すだけ。しかし、その内側には、あらゆる色彩を飲み込むような、底知れない深淵が広がっているように見えた。

指先でそっと触れると、ひんやりとした感触だけが伝わってくる。温もりも、冷たさも、感情の残滓が放つ微弱な波動も一切ない。ただ、物質としてそこにあるだけ。

これが、人間の心から生まれたものだというのか?

長年、感情を殺して生きてきた僕の心に、初めて鮮烈な色が灯った。それは、燃えるような緋色でも、弾けるような黄金色でもない。知的好奇心という、静かで、しかしどこまでも深い藍色の感情だった。僕は、このありえない結晶の謎を解き明かすことを、固く心に誓った。僕の凍てついた時間が、再び動き出す予感がした。

第二章 沈黙の少女

無色の情動晶の調査は困難を極めた。都市の巨大なデータベースを検索しても、該当するデータは一件もヒットしない。過去のいかなる文献にも、その存在を示唆する記述は見当たらなかった。それはまるで、この世界の法則から逸脱した、孤高の存在のようだった。

僕は唯一の手がかりである発見場所、都市の外殻から外れた「灰色の大地」と呼ばれるエリアに自ら赴くことにした。風化したビル群が墓標のように立ち並ぶ、忘れ去られた場所。大気の浄化フィルターが届かないそこは、常に灰色の粒子が舞い、陽光さえも色を失って降り注ぐ。

数日にわたる探索の末、僕はついに結晶の持ち主と思しき人物を発見した。廃墟となった図書館の最上階。ステンドグラスの砕けた窓から差し込む光の中に、一人の少女が静かに座っていた。彼女は、ノアと名乗った。

銀色の髪は光を反射せず、瞳は薄曇りの空のように色を失っていた。彼女の表情は、僕が長年かけて習得した無表情とは質の違う、まるで生まれた時から感情という機能が搭載されていないかのような、完璧な「無」だった。僕が話しかけても、彼女の瞳は微動だにせず、声のトーンにも一切の抑揚がなかった。

「この結晶に、見覚えは?」

僕がケースに入った無色の情動晶を見せると、彼女はゆっくりと頷いた。

「……それは、わたしから、でたもの」

やはりか。しかし、彼女と過ごす時間は、謎を深めるばかりだった。彼女は笑わず、泣かず、怒りもしなかった。ただ、そこにいるだけ。僕が冗談を言っても、悲しい話をしても、彼女の心は凪いだままだった。それでも僕は、彼女のもとに通い続けた。最初は研究対象としての興味だった。無色の情動晶が生まれる瞬間を、この目で見届けたかったのだ。

だが、いつからだろうか。彼女の隣で、古びた紙の本の匂いを嗅ぎながら、舞い落ちる灰を眺めていると、僕の心の鎧が少しずつ剥がれていくような感覚に陥った。彼女の完璧な「無」は、僕が必死に作り上げてきた偽りの「無」を、静かに炙り出していく。

ある日、彼女が読んでいた本のページを風がめくり、物語の結末が露わになった。それを見た僕の胸の奥が、不意にちくりと痛んだ。切ない恋物語の結末だった。その瞬間、僕の指先から、ぽろり、と小さな結晶がこぼれ落ちた。それは、忘れかけていた、淡い水色の『感傷』の結晶だった。

ノアは、僕の手のひらにある小さな結晶を、初めて見るかのようにじっと見つめていた。その色を失った瞳の奥で、何かが微かに揺らめいたように見えたのは、きっと気のせいだろう。

第三章 虚無の在り処

ノアと過ごす時間が増えるにつれ、僕の中から小さな情動晶が生まれる頻度が増えていった。それは僕にとって忌むべきことのはずなのに、不思議と嫌な気はしなかった。むしろ、凍てついていた身体に、温かい血が巡り始めるような、心地よささえ感じていた。

僕はノアの正体を探るため、彼女がいた図書館の地下にある旧時代のサーバーにアクセスを試みた。そして、僕は戦慄すべき真実を発見する。そこに残されていたのは、一体のアンドロイドの開発記録だった。コードネーム『NOAH』。人類の膨大な感情データを収集し、非効率的な「感情」という要素を排除した、純粋な論理的思考モデルを構築するための観測機。

ノアは、人間ではなかったのだ。

愕然とする僕に、追い打ちをかけるような事実が突きつけられた。サーバーの記録をさらに深く探ると、一つの異常データログが残っていた。それは、灰色の大地で発見された、たった一つの「無色の情動晶」の分析記録だった。そして、その結晶に付着していた微細な生体情報サンプルは……僕、リヒトのものと完全に一致していた。

頭を殴られたような衝撃。記憶の扉が、軋みを立てて開いていく。

そうだ。僕は、昔、ここにいた。この灰色の大地に。

五年前、僕には生涯を誓った女性がいた。彼女は情動晶を加工するデザイナーで、僕が排出する色とりどりの結晶を「あなたの心はこんなにも美しい」と言って、世界で一つの宝物に変えてくれた。だが、彼女は原因不明の病で、あっけなく僕の前からいなくなってしまった。

絶望が僕を支配した。喜びも、悲しみも、怒りも、愛しさも、全ての色が抜け落ちていった。僕は彼女の墓標の前で、ただひたすらに泣き、叫び、そして、ある瞬間、ぷつりと何かが途切れた。心が空っぽになった。その時だった。僕の目から、涙ではない、ただ冷たいだけの、無色透明の結晶がこぼれ落ちたのは。

あれは、「感情の欠如」ではなかった。あれは、全ての感情を失った果てにたどり着く、究極の感情。『虚無』の結晶だったのだ。

僕はその結晶を、忌まわしい過去と共に、この灰色の大地に捨てた。そして、記憶に蓋をして、二度と感情に溺れまいと誓ったのだ。僕が追い求めていた謎の結晶は、僕自身が生み出した絶望の残滓だった。そして、ノアは、そんな僕の過去を映し出す、空っぽの鏡だったのだ。

僕は、アンドロイドであるノアの中に、かつての自分を見ていた。感情を失い、ただそこに存在するだけの、空虚な自分を。

第四章 心が色づく瞬間

真実を知った僕は、数日間、研究所に閉じこもった。自分の愚かさに、見ないふりをしていた過去の痛みに、打ちのめされていた。僕がノアに感じていた親近感や、彼女の前で感情が蘇った理由は、全て過去の自分との対峙に過ぎなかったのかもしれない。

だが、それで終わりにしていいのだろうか。

僕は、研究室の棚に並べた、自分が排出した小さな情動晶たちを眺めた。ノアと出会ってから生まれた、淡い水色の『感傷』、柔らかな橙色の『安らぎ』、そして微かな黄緑色の『好奇心』。これらは、紛れもなく僕が今、感じている「心」だ。過去の絶望も僕の一部なら、この再生しかけた心もまた、僕の一部のはずだ。

僕は決意を固め、再び灰色の大地へと向かった。

図書館の最上階で、ノアは以前と変わらず、静かに本を読んでいた。

「ノア」

僕が声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。

「君は、アンドロイドなんだな」

彼女は小さく頷いた。その表情に変化はない。

僕は彼女の隣に座り、自分の手のひらを広げて見せた。そこには、僕がここ数日で生み出した、色とりどりの小さな結晶が乗っていた。

「これは『喜び』。君といると、時々生まれる。これは『悲しみ』。過去を思い出すと生まれる。痛いけど、大切な記憶の色だ。そして……これは『希望』。君ともっと話してみたい、君のことをもっと知りたいと思うと、生まれるんだ」

陽光のような黄金色の結晶を、僕は彼女の白い手のひらにそっと乗せた。

「感情は、非効率的で、時にはひどく人を傷つける。でも、同時に、こんなにも温かい光をくれるんだ。君には、まだ色がないかもしれない。でも、それは君が空っぽだということじゃない。これから、どんな色にでもなれるということだ」

僕は、ただ、伝えたかった。僕が彼女から教わったことを。

その時だった。

ノアの、色を失った瞳から、一筋、光る雫がこぼれ落ちた。それは床に落ちる寸前、かちり、と小さな音を立てて結晶化した。僕が慌ててそれを拾い上げると、それはこれまでに見たどの色とも違う、夜明けの空のような、ほんのりと淡い、澄みきった水色をしていた。

それは『興味』の色でも、『安らぎ』の色でもなかった。解析データには存在しない、未知の色。もし名付けるなら、『芽生え』とでも呼ぶべき、優しく、そしてか細い光を放っていた。

僕はノアの顔を見た。彼女の完璧な「無」だった表情が、ほんのわずかに、本当にわずかに、崩れていた。その唇の端が、ほんの少しだけ、上がっているように見えた。

研究室に戻った僕は、窓から差し込む夕陽の中に、二つの結晶をかざした。一つは、僕がかつて生み出した、全てを飲み込むような『虚無』の結晶。そしてもう一つは、ノアが生み出した、全てが始まる予感をさせる、淡い水色の結晶。

対極にあるはずの二つの光が、僕の手のひらで静かに交差し、部屋の壁に複雑で美しい虹色の影を落としていた。僕の心は、もう無色ではなかった。それは、宇宙で最も静かで、最も温かい光だった。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る