零時間の収束点
2 3846 文字 読了目安: 約8分
文字サイズ:
表示モード:

零時間の収束点

第一章 錆びついた秒針

永峰朔の時間は、古書の黴とインクの匂いに満ちていた。神保町の裏路地に佇む彼の店「時紡ぎ書房」には、彼と同じように時間の流れから取り残されたような静寂が常に横たわっている。彼が最後に歳をとったのは、いつだったか。もう思い出せないほど遠い昔、おそらくは二十八歳の誕生日を過ぎたあたりで、彼の肉体の時計は錆びついてしまった。

その代償のように、彼は他者の時間を盗んでいた。無意識に、呼吸をするように。客が差し出す古書に触れる指先から、あるいは会計の際に交わされる視線から、その人物の生命活動が生み出す微細な『余剰時間』が、乾いた砂に吸われる水のように朔の中へと流れ込んでくる。その奔流と共に、見知らぬ誰かの記憶が明滅した。赤ん坊の笑い声、卒業式の桜吹雪、愛を囁く夜の湿った空気、そして、後悔に染まった臨終の吐息。他人の人生の断片が、彼の精神を絶えず削り取っていく。

最近、世界の歯車が狂い始めていた。街角の巨大なデジタル時計が意味不明な数字の羅列を明滅させたかと思えば、店の窓辺に置いた鉢植えの蕾が、瞬く間に花開き、次の瞬間には茶色く萎れて塵になった。人々はそれを『宇宙のささやき』の気まぐれだと噂した。だが朔にとって、それは自らの存在を脅かす凶兆に他ならなかった。

その日、一人の老婦人が差し出した詩集に触れた瞬間、朔の全身を凄まじい衝撃が貫いた。七十年分の人生が、濁流となって彼の意識に叩きつけられる。焼け野原の匂い、高度経済成長期の喧騒、夫との死別。膨大な時間の奔流が彼の脳を焼き切り、朔はカウンターに崩れ落ちた。彼の内で暴走を始めた時間が、世界そのものを蝕み始めている。その予感が、冷たい鉄の爪のように彼の心臓を掴んでいた。

第二章 宇宙のささやき

店のドアベルが、乾いた音を立てた。朔が顔を上げると、そこに一人の女性が立っていた。トレンチコートを着た、怜悧な光を宿す瞳の女性。水月響子と名乗った彼女は、時間物理学の研究者だという。

「永峰朔さん。あなたに話があります」

彼女の声は、静かだが有無を言わせぬ響きを持っていた。響子はテーブルの上に、手のひらサイズの透明なオブジェを置いた。無数の幾何学的な結晶が絡み合った、奇妙な物体。

「『クロノ・フラクタル』。時間の流れを観測し、ごく僅かながら安定させる効果があります」

朔がそれに視線を落とした瞬間、オブジェの内部で星雲のような光が渦巻いた。覗き込むと、そこには無数の自分がいた。子供の頃の自分、老人になった自分、そして見たこともない異形の存在へと変貌する自分。過去と未来、ありとあらゆる可能性が、万華鏡のように明滅している。

「世界中で起きている時間の歪み。私たちは、宇宙そのものが変調をきたしていると考えています」と響子は続けた。「宇宙は巨大な情報生命体であり、その思考の揺らぎが、私たちの時空に影響を及ぼす。それが『宇宙のささやき』の正体です。そして今、そのささやきは悲鳴に変わっている」

彼女の瞳は、真っ直ぐに朔を射抜いていた。

「その悲鳴の中心にいるのが、あなたです。あなたは、時間を吸収する特異点なのよ」

朔は言葉を失った。孤独な秘密だと思っていた己の呪いを、この女は初対面で見抜いている。警戒と、ほんの少しの安堵が入り混じった奇妙な感覚が、彼の胸を支配した。

第三章 砕かれた記憶

時間の異常は、もはや日常を侵食する災害と化していた。電車が次の駅に到着するまでに数時間が経過していたり、街の一角だけがコマ送りの映像のようにスローモーションになったり。世界はゆっくりと、しかし確実に崩壊へと向かっていた。

朔の状態も悪化の一途を辿った。街を歩くだけで、すれ違う人々の膨大な時間が彼に流れ込み、その度に意識が混濁する。ある日、彼は人混みの中でついに倒れた。押し寄せる記憶の津波の中で、彼の自我は紙切れのように翻弄された。

「しっかりして!」

響子の声で意識を取り戻すと、彼は彼女の研究所の白いベッドの上にいた。窓の外では、雨粒が空に向かって昇っていくという、あり得ない光景が広がっている。

「あなたの周囲の時間を、一時的に安定させたわ。『クロノ・フラクタル』を使って」

響子の手には、先日のオブジェが握られていた。その輝きは、以前よりも少し鈍っているように見えた。朔はぼんやりとした頭で、自分の内側を探る。確かに、時間の奔流は凪いでいた。だが、何かが欠けている。大切なパズルのピースが、ごっそりと抜き取られたような空虚感。

「……子供の頃の、記憶が」

夏祭りの夜。母親と繋いだ手の温もり。金魚すくいの和紙が破れた時の、悔しいような、おかしいような気持ち。その記憶の輪郭が、綺麗に消え去っていた。

クロノ・フラクタルは時間を安定させる代償に、使用者の記憶をランダムに消去する。響子の説明に、朔は新たな恐怖を覚えた。このままでは、自分という存在そのものが、時間の中に溶けて消えてしまうだろう。

第四章 フラクタルの深淵

「歪みの中心は、あなた自身なのよ。誰かがあなたを狙っているわけじゃない。あなたが、この現象を引き起こしている」

響子の研究データが示した事実は、残酷なまでに明確だった。彼は被害者ではなく、元凶だったのだ。絶望が、朔の心を黒く塗りつぶしていく。永遠の生という呪いを抱え、今度は世界を破壊する存在となってしまった。

もう、終わらせなければならない。

朔は響子の制止を振り切り、研究室の中央に置かれたクロノ・フラクタルを掴んだ。自らの存在を消し去るか、あるいはこの狂った世界を止める方法を見つけるか。どちらにせよ、答えはこの深淵の先にあるはずだ。

彼が意識を集中させると、フラクタルの内部宇宙が彼を飲み込んだ。そこは音も光もない、純粋な情報の海だった。そして、彼は聞いた。星々の誕生と死を繰り返す、途方もなく巨大な意識の声を。それは悪意でも善意でもない、ただ存在し続けるための、生命としての根源的な欲求だった。

『我は進化する』

宇宙は、自らの老いを自覚していた。その巨大な情報体を維持するため、自己修復のプロセスを開始したのだ。宇宙に散らばる全ての時間、全ての可能性を、一度『零』に収束させ、新たな秩序のもとに再構築する。それが、時間の歪みの正体。

そして、朔の能力こそが、そのための『時間収束点』として、この宇宙に生み出された特異点だった。彼は、旧宇宙の終わりであり、新宇宙の始まりを告げるために選ばれた存在だったのだ。

第五章 零時間の選択

真実を知った朔の心は、不思議なほど静かだった。彼は自分が果たすべき役割を理解した。このまま自分が存在し続ければ、世界は無秩序な崩壊を迎える。だが、宇宙の進化を受け入れれば、全時空は彼という一点に収束し、世界は一度『無』に帰る。そして、新たな宇宙が生まれる。

「そんなこと、させない!」

響子が彼の腕を掴んだ。彼女の瞳には涙が浮かんでいた。

「私の妹は、過去に起きた小さな時間の歪みに巻き込まれて消えたの。だから、時間を人の手でどうこうしようなんて、絶対に許せない……!あなたには、生きていてほしい」

その言葉は、朔の凍てついた心に温かな光を灯した。彼は呪われた存在ではなかった。少なくとも、この世界に一人、彼の生を望んでくれる人間がいた。それだけで、彼の孤独な永遠は報われた気がした。

朔はそっと彼女の手を取り、微笑んだ。

「ありがとう、水月さん。君と出会えて、よかった」

彼は自らが吸収し続けてきた時間の中から、最も穏やかで美しい記憶の断片――古書店のインクの匂い、響子と交わした珈琲の香り、彼女の真摯な眼差し――をそっと彼女の心に流し込んだ。それは、彼が生きた証であり、最後の贈り物だった。

「新しい宇宙で、君が幸せに笑える時間を」

朔は目を閉じ、両腕を広げた。全世界の、全宇宙の、過去と未来、全ての時間の流れを、その身に受け入れるために。

第六章 最初の秒針

世界から、音が消えた。色が消えた。朔を中心に、全てが純白の光に飲み込まれていく。街も、人も、星々も、過去の後悔も、未来への希望も、あらゆる情報が素粒子レベルにまで分解され、一本の光の奔流となって彼の身体へと吸い込まれていった。それは破壊であり、同時に創造だった。宇宙の全てを内包した朔は、一点の輝きへと収束していく。

響子は涙を流しながら、その神々しくも切ない光景を見つめていた。光が極限まで収縮した瞬間、宇宙は完全な静寂に包まれる。

そして――。

静かな、しかし無限の可能性を秘めた光が、再び世界に満ち溢れた。それはビッグバンのように壮大で、赤子の産声のように清らかだった。

場面は転換する。

新しい宇宙。新しい地球。どこにでもある都市の、ありふれた病院の一室。

力強い赤ん坊の泣き声が響き渡った。助産師に抱かれたその赤子の小さな手のひらに、一瞬だけ、幾何学的な結晶を思わせる淡い光の痣が浮かび上がり、すぐに霧散して消えた。

窓の外では、新しい街の時計塔が、穏やかに、そして限りなく正確に、最初の秒針をカチリと刻み始めていた。永峰朔という名の青年がかつていた世界とは異なる、新たな時間軸が、今、静かに動き出した。


TOPへ戻る