第一章 秒針の葬列
ザリ、ザリ。
鼓膜をやすりで削るような幻聴。
腰のホルスターに提げた砂時計『サイファ』の中で、僕の寿命が零れ落ちていく音だ。
「……悪いな。アンタの『今』、少しだけ貰う」
シャンパングラスを掲げた男の背後に立つ。
指先が男のジャケットに触れた瞬間、世界の色が剥落した。
極彩色だったパーティー会場が、瞬きひとつで灰色の静寂に閉じ込められる。
空中に浮いたままの泡、給仕の凍りついた足取り、男の下卑た笑み。
僕だけが、止まった時の中で呼吸をする。
ズブリと脳髄に泥が沈殿する感覚。
(……この取引が済めば、さらに十年の寿命が買える。あの小娘どもの新鮮な時間を……)
男の思考が、粘着質なヘドロとなって僕の中に流れ込んでくる。
これが『時間停止』の代償だ。
止めた相手の欲望、悪意、汚泥のような感情を、僕の精神が直に啜ることになる。
吐き気を噛み殺し、男の懐から極小のデータチップを抜き取る。
指先が痺れ、視界の端が黒く焦げ付く。
寿命が削れている証拠だ。
「……クソッ」
よろめきながら非常階段へ逃げ込み、指を鳴らす。
パチン。
色彩と喧騒が暴力的に戻ってくる。
男の驚愕と怒号が背後の扉越しに響いたが、僕はもう夜の路地裏へと滑り落ちていた。
コンクリートの冷たさに背中を預け、サイファを覗き込む。
残り少ない蛍光色の砂が、蛍火のように弱々しく明滅している。
端末が震えた。
妹のミアからだ。テキストメッセージ。
『刺繍、完成したよ。お兄ちゃんに似合うと思うの』
胸の奥が軋む。
生まれつき寿命を持たずに生まれた彼女は、僕が裏稼業で買い与えた「時間」で辛うじて息をしている。
それなのに、彼女はその貴重な時間を、僕のための刺繍なんていう生産性のない作業に費やしたのか。
「馬鹿だな……」
だが、口元は緩んでいた。
今日手に入れたチップは、闇ルートでも最高純度の『結晶』と交換できる。
これさえあれば、ミアはあと五年は生きられる。
石畳を踏みしめる足取りは、いつになく軽かった。
第二章 腐食する宝石
アパートのドアノブに手をかけた時、違和感が走った。
いつもなら漏れてくるはずの生活音がしない。
代わりに、鼻をつく異臭。
腐った百合の花と、ホルマリンを煮詰めたような、甘ったるい死の気配。
「ミア?」
返事はない。
リビングの照明はついたままだ。
彼女は、窓際のロッキングチェアに座っていた。
膝の上には、銀色の糸で刺繍された布。
眠っているのか?
「おい、帰ったぞ。刺繍、見せてくれよ」
肩に手を置く。
その感触に、僕は息を呑んだ。
柔らかいはずの肩が、枯れ木のように硬く、脆い。
「……あ……う……」
布が床に落ちる。
ゆっくりと振り向いたその顔を見て、僕は悲鳴すら上げられなかった。
栗色の髪は白く色が抜け落ち、藁のようにパサついている。
滑らかだった頬は削げ、土気色の皮膚には無数の亀裂のような皺が走っていた。
瞳だけが、濁った水底から僕を見上げている。
「レオン……? 体が、熱いの……」
老婆のような掠れ声。
腕に埋め込まれた寿命計の数値が、狂ったように回転している。
減っているのではない。
『蒸発』している。
僕が先週与えた、高価な結晶。
あれは……猛毒だったのか。
他者から無理やり搾取した時間は、その持ち主の『呪い』を孕むことがあるとは聞いていた。
だが、ここまで急激な崩壊は異常だ。
指先の肉が崩れ、骨が透けて見え始めている。
「嫌だ……逝くなッ!」
理屈などどうでもいい。
このままでは、あと数十秒で彼女は塵になる。
僕はミアの手首を掴んだ。
触れた箇所から、彼女の「崩壊」が僕の指へと伝染してくる。
構うものか。
奥歯が砕けるほど食い縛り、能力を解放する。
『止まれェッ!!』
第三章 逆流する断末魔
世界が灰色に沈む。
ミアの崩壊も、寿命計のカウントも停止した。
だが、代償は今までとは比較にならなかった。
ガギィン! と頭蓋骨の内側をハンマーで殴られたような衝撃。
サイファのガラスにヒビが入り、砂が滝のように噴き出す。
「ぐ、ぁああああ……ッ!」
膝が崩れる。
僕の神経回路に、ミアの肉体を蝕んでいた『モノ』が逆流してきた。
(返せ……俺の時間を返せ……)
(痛い、寒い、死にたくない……)
(呪ってやる、富める者たちを、呪ってやる……!)
数千、数万の悲鳴。
ミアに取り込ませた結晶の中に凝縮されていた、搾取された人々の怨念だ。
それが黒いタールのような奔流となって、僕の精神を焼き尽くそうとする。
止めるだけじゃダメだ。
この呪いは、止まった時間の中でさえ腐食を続けている。
僕の能力は『時間停止』じゃない。
本質は、対象への『同調(リンク)』だ。
だからこそ、いつも他人の感情が流れ込んでくる。
なら、もっと深く潜れ。
この黒い泥の底にある、ミアの魂まで。
(レオン……逃げて……)
聞こえた。消え入りそうな、けれど澄んだ光のような声。
怨念の嵐の中で、彼女だけが僕の身を案じている。
「逃げるかよ……馬鹿野郎……」
鼻から血が滴る。視界が赤いもやに覆われる。
僕の命(すな)を全部くれてやる。
僕という器を使って、この汚泥を濾過しろ。
僕はミアの手を強く握り返し、意識のすべてを『逆回転』させた。
僕のサイファから溢れる砂が、重力に逆らって舞い上がる。
僕の血管が焼き切れ、皮膚が裂ける激痛。
流れ込んでくる何千人もの怨嗟の声を、僕の魂というフィルターに通し、ミアの純粋な『生への渇望』と衝突させる。
プラスとマイナスのショート。
論理的な限界を超えた負荷が、サイファそのものを変質させていく。
(生きたい。お兄ちゃんと、明日も見たい!)
ミアの願いが、怨念を食い破り、熱を帯びた光となって炸裂した。
灰色の世界に亀裂が走る。
限界だ。
僕の意識は、白光の中に溶けて消えた。
第四章 無垢なる刻
小鳥のさえずりが五月蝿い。
重い瞼を持ち上げると、そこはいつものリビングだった。
窓から差し込む陽光が、宙を舞う埃をキラキラと照らしている。
「……あ」
喉が渇いて声が出ない。
体を起こそうとして、自分の手がシワだらけになっていないことに気づく。
それどころか、体は羽が生えたように軽かった。
「お兄ちゃん!」
キッチンからミアが飛び出してくる。
あの土気色の肌はどこにもない。
血色の良い頬、艶やかな栗色の髪。
彼女は泣きじゃくりながら、僕の胸に飛び込んできた。
「よかった……三日間も、目が覚めないから……」
「三日……?」
視線が、テーブルの上の『サイファ』に吸い寄せられる。
ヒビ割れていたガラスは修復され、その中には、見たこともない砂が満ちていた。
蛍光色ではない。
ダイヤモンドダストのように透き通り、七色に輝く美しい砂。
それは一粒も落ちることなく、砂時計の中で静止している。
「外、見て」
ミアに促され、窓の外を見る。
街を覆っていた工場の黒煙――寿命精製プラントの排気が、消えていた。
空は抜けるように青い。
「ニュースで言ってた。世界中で『結晶』が砕け散ったって」
僕とミアの共鳴が、特異点になったのかもしれない。
あるいは、単にシステムが限界を迎えていたのか。
理屈はどうでもよかった。
確かなのは、もう誰かの時間を奪う必要がないということ。
そして、僕の寿命が尽きる恐怖に怯える必要もないということだ。
「……これ」
ミアが、床に落ちていた刺繍の布を拾い上げ、僕に手渡した。
銀色の糸で縫われていたのは、精巧な砂時計の模様。
だが、その砂は下へ落ちるのではなく、翼となって空へ羽ばたいていた。
「ありがとう、ミア」
僕は彼女の頭を撫でる。
温かい。
脈打つ鼓動が、指先から伝わってくる。
「さて、と」
僕は伸びをして、サイファをホルスターから外し、引き出しの奥へと放り込んだ。
もう、時間を計る必要はない。
「シチュー、作り直してくれるか?」
「うん。最高に美味しいやつをね」
僕たちは笑い合い、何者にも支配されない、最初の一秒を踏み出した。