第一章 削除キー
「本当に削除しますか? この操作は取り消せません」
網膜に浮かぶ警告ウィンドウ。
赤文字が、無機質に点滅している。
俺はため息をつき、震える指先で空中の『YES』をタップした。
『削除完了:対象データ【初恋の記憶・4.2TB】』
「……これで、安いプランに収まりましたよ」
遺族の方を振り向く。
年若い娘は、ハンカチで顔を覆いながら頷いた。
「ありがとうございます。父も、天国で身軽になれて喜んでると思います……」
嘘だ。
父親の魂(データ)は今、最も鮮やかだった色彩を失い、モノクロの残骸になった。
だが、維持費を払えないなら仕方ない。
俺の名はエイト。
職業、デジタル納棺師。
クラウド上の死者の魂をトリミングし、遺族の予算内に収まるサイズまで「削る」のが仕事だ。
「次の案件だ、エイト」
脳内の通信インプラントに、上司のダミ声が響く。
「今日はもう上がらせてください。頭痛がひどいんです」
「特別指定だ。拒否権はない。……お前の母親だぞ」
心臓が、早鐘を打った。
母さん。
俺を捨てて男に走り、十年音信不通だった女。
「……了解」
接続プラグを首筋にねじ込む。
視界がノイズにまみれ、現実の雨音が遠のいていく。
第二章 空白の平原
ログイン。
そこは、殺風景な荒野だった。
通常、死後のデータ空間はその人が好んだ景色で満たされている。
花畑だったり、書斎だったり。
だが、母の空間には何もなかった。
空は灰色。足元は砂利。
「……なんだこれ」
容量オーバーの警告音。
『警告:ストレージ使用率99.9%』
何が容量を食っている?
景色もない。音楽もない。
あるのは、荒野の中央に鎮座する、巨大な黒い立方体だけ。
俺は砂利を踏みしめ、その立方体に近づいた。
表面には無数の鍵アイコン。
そして、ファイル名。
『EITO』
俺の名前。
「ふざけるなよ……」
俺の記憶か?
俺への恨み言でも詰め込んでいるのか?
それとも、俺を捨てた言い訳か?
「エイト……?」
背後でノイズ混じりの声がした。
振り返ると、半透明の女性が立っている。
母だ。
だが、解像度が低い。顔のパーツが崩れかけている。
「あんた、なんでこんなにデータが破損してるんだ」
「エイト……ごはん、できたわよ」
会話が成立しない。
思考ロジックが摩耗している。
安物の保存プランだったのか?
いや、違う。
俺はステータス画面を開いた。
『メモリ割り当て:90%を【EITO】ファイルに使用中』
彼女自身の意識を維持するためのメモリを極限まで削り、そのリソース全てを、この黒い箱の維持に回している。
自分という存在が消えかけても、これを守ろうとしていた。
「これの中身はなんだ。開けるぞ」
「だめ……! それは、だめ」
母のアバターが、必死に俺の腕にしがみつく。
触感フィードバックに伝わる、冷たくて乾いた感触。
「離せよ! どうせろくなもんじゃないんだろ!」
俺は管理者権限を行使した。
『強制解凍を開始します』
第三章 完全記憶
黒い箱が、光の粒子になって弾けた。
溢れ出したのは、映像ではない。
「感覚」の奔流だった。
――熱い。
三十九度の高熱。
額に乗せられる、冷たいタオルの感触。
――痛い。
自転車で転んだ膝の痛み。
「痛いの痛いの、飛んでいけ」という、震える声。
――甘い。
誕生日のショートケーキ。
金がなくて一つしか買えなかったケーキを、半分こした味。
「う、あ……」
俺は膝をついた。
これは、俺の記憶だ。
でも、俺が覚えているものとは違う。
俺は、「完全記憶能力(ハイパーサイメシア)」を持っている。
見たもの全てを写真のように記憶し、忘れることができない。
それが俺の才能であり、呪いだと思っていた。
だから俺は覚えている。
母が男と電話していた夜を。
俺を置いて出て行った背中を。
だが、このデータの中にあるのは……。
『ログファイルを参照します』
視界の端に、テキストデータが流れた。
『西暦2045年 売買契約書』
『売却対象:自己の色彩認識、味覚、および10歳までの幸福な記憶』
『購入対象:医療用ナノマシン・ニューロチップ(重度脳挫傷治療用)』
脳挫傷?
記憶の奥底から、ロックされていた「自分の記憶」が蘇る。
十歳の冬。
俺は事故に遭った。
脳を激しく損傷し、記憶野が壊死した。
治療法は一つ。
高価なニューロチップを埋め込み、人工的に記憶領域を拡張すること。
母は、男に走ったんじゃない。
金を作るために、自分の「幸せな記憶」を切り売りしたんだ。
色彩を売り、味覚を売り。
それでも足りなくて、自分の幼少期の思い出も売った。
俺が見た「男との電話」は、記憶売買のブローカーとの交渉だった。
「出て行った背中」は、違法手術を受けに行く姿だった。
俺が持つ「完全記憶」の才能。
それは、母が自分の人生と引き換えに俺にくれた、高価な機械の性能だったんだ。
第四章 上書き保存
「エイト……エイト……」
母の崩れかけたアバターが、空っぽになった黒い箱の跡地を撫でている。
「守らなきゃ……エイトの思い出……忘れちゃう……」
彼女はもう、自分が誰かもわかっていない。
色彩を売ったから、世界は灰色に見えているはずだ。
味覚を売ったから、最期の食事も砂の味だっただろう。
俺は、彼女を恨み続けていた。
その恨みの記憶さえ、彼女がくれたチップのおかげで鮮明だったなんて。
「ふざけるな……」
涙が、VRゴーグルの内側を濡らす。
「こんなもん守って、自分が壊れてどうすんだよ……!」
俺は管理者コンソールを叩いた。
『対象:母の意識データ』
『操作:修復』
リソースが足りない。
俺の安い給料じゃ、彼女の容量を増やす追加プランなんて買えない。
なら、どうする?
削るしかない。
俺の、一番大切なものを。
俺は自分の脳内チップにアクセスした。
『データ転送準備』
『転送元:エイト(生体)』
『転送先:母(クラウド)』
俺が持っている「母との思い出」を、全て彼女に返す。
俺の視点から見た、優しかった母の姿。
温かかった手。
あの甘いケーキの味。
これを転送すれば、俺の脳からは消える。
俺は、母の顔を忘れることになる。
でも、彼女の中では、俺たちは永遠に一緒になれる。
「……警告。生体記憶の欠損は、不可逆です」
システムの無機質な声。
「構わない。実行だ」
『転送を開始します』
第五章 Re:boot
光が、彼女の灰色の世界を満たしていく。
崩れていた母の顔に、血色が戻る。
モノクロの空が、鮮やかな青に染まっていく。
俺の記憶が、彼女の欠けた部分を埋めていく。
母が、目を見開いた。
その瞳に、俺が映っている。
「……エイト?」
はっきりとした声だった。
「そうだよ、母さん」
俺は笑おうとした。
でも、なぜ自分が泣いているのか、理由がわからなくなってきていた。
目の前の女性が誰なのか、急速に認識が薄れていく。
大事な人だ。
それはわかる。
でも、名前は? 思い出は?
「エイト、あなた……まさか」
母が俺の頬に触れた。
VR越しの、デジタルの温もり。
「バカな子ね……。せっかく、あげたのに」
「……なんのこと?」
俺は首を傾げた。
視界が白くフェードアウトしていく。
接続時間の限界だ。
最後に見たのは、泣きながら、でも最高に優しく微笑む女性の顔だった。
「ありがとう。……愛してるわ」
現実世界。
俺は雨の音で目を覚ました。
ひどい頭痛がする。
頬が濡れていた。
「……あれ?」
モニターには、『削除完了』の文字。
俺は今日、誰の担当だったっけ?
ログを見る。
『対象:氏名不詳』
『処理:全データを、アーカイブ【EITO】へ統合済み』
奇妙なことに、俺の銀行口座の残高がゼロになっていた。
そして、手元の端末には、見覚えのない写真データが一つだけ保存されていた。
若い女性と、小さな子供が、一つのケーキを囲んで笑っている写真。
知らない人たちだ。
なのに。
その写真を見ると、胸が張り裂けそうに痛くて、涙が止まらなかった。
俺は震える指で、その画像を「保護」フォルダに入れた。
タイトルは、なぜか最初から入力されていた。
『宝物』
外は雨。
でも、俺の心の中には、名前のない温かい色が、確かに灯っていた。