第一章 凍てついた時間
ハンダごての焼ける匂いが、鼻腔をくすぐる。
その鋭い刺激臭だけが、俺がまだここに存在しているという確かな証だった。
地下二階、第五セクター。
空調のファンが、死にかけの獣のような音を立てて回っている。
俺、レオ・ヴァレンタインは、震える指先を抑え込みながら、目の前の旧式端末――『ムネモシュネ・システム』の基盤に触れた。
「……頼む。持ってくれよ」
祈るような呟きは、誰に向けたものでもない。
薄暗い作業部屋には、無数のケーブルが床を這い、天井からは剥き出しの配管が垂れ下がっている。
まるで、巨大な機械の内臓の中に住んでいるようだ。
時刻は十九時五十八分。
あと二分。
年に一度の『再会』の時が迫っている。
手元のモニターに、緑色のカーソルが明滅した。
『接続待機中……信号強度、微弱。ノイズ率、四十八パーセント』
「クソッ、また劣化してやがる」
俺は舌打ちをして、キーボードを叩いた。
指先が覚えているリズム。
コマンドを打ち込むたびに、画面上の波形がわずかに安定する。
ここは『コールド・ストレージ』の末端接続所。
富裕層が意識をクラウド上の楽園にアップロードして永遠を謳歌する一方で、俺のような貧乏人が縋るのは、この安価で不安定な磁気テープだ。
死者の記憶データを凍結保存し、一年のうち、わずか五分間だけ解凍して会話ができる。
たった、五分間。
そのために俺は、一年分の給料を叩き、廃材をかき集めてこの受信機を維持している。
エレナ。
最愛の妻。
彼女が病でこの世を去ってから、もう十年が経つ。
いや、十年「も」ではない。
俺にとっては、昨日のことのように鮮明だ。
彼女の最後の笑顔。
痩せ細った指。
「レオ、泣かないで。私はただ、ちょっと長い眠りにつくだけだから」
そう言った彼女のデータは、今、冷たいサーバーの海を漂っている。
『警告。セクター9に物理的破損の可能性。強制フォーマットを推奨』
無機質なシステム音声が、俺の思考を遮断した。
背筋に冷たいものが走る。
「ふざけるな……フォーマットだと?」
冗談じゃない。
フォーマットすれば、エレナの記憶は消える。
俺の生きる意味そのものが、電子の藻屑となって消え失せるのだ。
「推奨を却下。手動修復(マニュアル・リペア)モードへ移行」
俺はゴーグルを装着した。
視界が暗転し、網膜に直接、青白いワイヤーフレームが投影される。
俺には才能があった。
『修復師(レストアラー)』。
壊れかけたデータ、ノイズに埋もれた声を、直感だけで拾い上げる特異な能力。
現代のAIが「ゴミ」と判断するデータの断片から、感情の色を読み取る力だ。
「待ってろ、エレナ。今、迎えに行く」
エンターキーを叩く。
意識が、電子の奔流へとダイブした。
第二章 データの深淵
光の粒子が、吹雪のように吹き荒れている。
視覚化されたデータ空間は、崩れかけた廃墟のようだった。
本来なら美しい図書館や庭園としてレンダリングされるはずの『面会室』は、黒いノイズに侵食されている。
足元――と認識している座標――が崩れ落ちそうだ。
俺は、光の糸を手繰り寄せるようにして、嵐の中を進んだ。
《レオ……?》
風切り音の向こうから、懐かしい声が聞こえた。
心臓が早鐘を打つ。
「エレナ! そこにいるのか!」
《声が……遠い……》
彼女のデータが近い。
だが、その手前には巨大な『壁』が立ちはだかっていた。
破損データだ。
赤黒いブロックが積み重なり、道を塞いでいる。
通常のユーザーなら、ここで接続が切れるだろう。
だが、俺は違う。
俺は仮想の手をかざした。
指先から、金色のコードを走らせる。
「解けろ……解けてくれ」
イメージする。
絡まった糸を、一本一本丁寧にほぐしていく感覚。
硬直した回路に、熱を通していく感覚。
ブロックの隙間に、わずかな綻びを見つけた。
そこだ。
俺はその一点に意識を集中させ、こじ開けた。
光が溢れ出す。
眩しさに目を細めながら、俺は中へと飛び込んだ。
静寂。
嵐が嘘のように止んだ。
そこは、俺たちの記憶にあるリビングルームだった。
古ぼけたソファ。
窓辺に置かれた観葉植物。
夕陽が差し込み、埃がキラキラと舞っている。
あまりにも完璧な再現度だ。
そして、窓際に彼女が立っていた。
「エレナ……」
彼女が振り返る。
十年前と変わらない、栗色の髪。
優しげな瞳。
俺は駆け寄り、彼女を抱きしめようとした。
しかし。
俺の手は、彼女の体をすり抜けた。
「え……?」
実体感がない。
いつもなら、触覚フィードバックがあるはずだ。
温もりも、匂いも、本物のように感じるはずなのに。
《レオ、やっと会えた》
エレナが微笑む。
だが、その笑顔にはどこか、諦めのような色が混じっていた。
「すまない、回線が悪いみたいだ。触覚センサーが同期していない」
俺は焦ってコンソールを呼び出そうとした。
だが、メニューが開かない。
「なんだ? システムエラーか?」
《違うの、レオ。エラーじゃない》
エレナの声が、静かに響く。
彼女は俺の透けた手に、自分の手を重ねた。
触れ合っていないのに、魂が震えるような感覚があった。
《よく見て。周りを。そして、あなた自身を》
彼女の言葉に、違和感を覚える。
俺は周囲を見渡した。
夕陽。
止まったままの時計。
舞い続ける埃。
……舞い続ける?
埃が、床に落ちない。
空中で同じ軌道を、永遠にループしている。
「これは……バグか?」
《いいえ。それは『保存されたデータ』だから》
エレナが悲しげに眉を寄せる。
《変わらないもの。変えられないもの。それが、過去》
「何を言っているんだ?」
《レオ。あなたは『修復師』。壊れたものを見つけるのが得意でしょう?》
彼女は窓の外を指さした。
そこにあるはずの街並みがない。
あるのは、流れるようなコードの羅列と、広大な暗闇だけ。
そして、窓ガラスに映った俺の姿。
若い。
十年前の、あの頃のままだ。
白髪の一本もない。
目の下のクマもない。
「俺は……」
戦慄が走る。
自分の手を見る。
油汚れも、火傷の痕もない、綺麗な手。
現実の俺は、もっと老けているはずだ。
十年分の苦労が、その身に刻まれているはずだ。
なぜ、今の俺はこんなに若い?
《気づいて、レオ》
エレナが、俺の頬に手を添える仕草をする。
《あなたが私を保存しているんじゃない。私が、あなたを保存していたの》
第三章 琥珀の中の蝶
思考が停止した。
世界が反転する。
「嘘だ……俺は、地下の部屋で……ゴーグルをつけて……」
《あの事故の日。あなたは私を庇って……》
エレナの声が震えている。
記憶の蓋が開く。
ブレーキ音。
衝撃。
砕け散るガラス。
そして、薄れゆく意識の中で聞いた、彼女の絶叫。
そうだ。
死んだのは、俺だ。
「そんな……馬鹿な……」
俺は膝から崩れ落ちた。
ずっと、彼女を生き返らせようとしていた。
彼女のデータを守るために、必死で働いていた。
その記憶は?
《それはシミュレーション。あなたの人格データが破損しないように、システムが生成した『物語』。あなたが生きていると信じ込ませるための、夢》
俺が「修復」していたノイズ。
それは、外部からの「現実」の干渉だったのか。
俺が必死に排除しようとしていたのは、俺自身の「死」の事実だった。
「じゃあ、今の君は……」
俺は顔を上げる。
目の前のエレナの姿が、揺らいだ。
若い彼女の姿がノイズと共に剥がれ落ち、真実の姿が露わになる。
そこにいたのは、白髪の混じった、皺の刻まれた女性だった。
車椅子に座り、酸素チューブを鼻に通している。
十年の歳月を、一人で生き抜いた姿。
「エレナ……」
《ごめんね、レオ。お金がなくて……安いプランしか維持できなかった。年に一度しか、あなたを起こせなくて》
彼女の瞳から、涙が溢れ出した。
《でも、もう限界なの。私の体、もう長くなくて……》
「待て……まさか」
《今日が最後なの。私が死んだら、このストレージの契約も切れる。だから……最後に、ちゃんとさよならが言いたくて》
言葉が出なかった。
俺は、なんて滑稽だったんだ。
自分が救う側だと思い込んで、実は守られていたなんて。
彼女は十年もの間、亡霊のような俺のデータとお喋りするために、生き続けてくれたのか。
「エレナ」
俺は立ち上がり、老いた彼女の前に跪いた。
触れることはできない。
俺は0と1の幻影で、彼女は温かい有機体だから。
でも、今の俺にはハッキリと見える。
彼女の顔に刻まれた皺の美しさが。
それは、彼女が俺の分まで生きてくれた証だ。
「ありがとう。……苦労をかけたな」
俺は、精一杯の笑顔を作った。
システムが作り出した若い笑顔ではなく、魂からの笑顔を。
《ううん。幸せだった。あなたと話せる、この五分間だけが、私の人生の全てだった》
彼女が震える手を伸ばし、俺の頬のあたりを撫でる。
モニター越しであろうその指先から、愛おしさが伝わってくる。
『警告。接続時間、残り三十秒』
無慈悲なカウントダウンが始まった。
部屋の輪郭が溶け出し、光の粒へと還っていく。
「怖くないか?」
俺は尋ねた。
彼女は首を横に振った。
《怖くないわ。だって、やっと一緒になれるんだもの。データの海じゃなくて、もっと別の場所で》
「ああ……そうだな」
俺も頷いた。
この磁気テープが止まれば、俺の意識は消滅する。
彼女の命も、もうすぐ尽きる。
でも、それは終わりじゃない。
この琥珀色の閉じた時間から、解放される時だ。
「愛してる、エレナ」
《愛してるわ、レオ》
視界が白く染まる。
ノイズが心地よい歌のように聞こえた。
それは銀河の星々が奏でる、再会の旋律。
俺は目を閉じた。
ハンダの匂いはもうしない。
ただ、懐かしい日だまりの匂いだけが、最後に残った。
プツン。
静寂。
(了)