腐ったデータの匂いは、雨に濡れた段ボールによく似ている。
埃っぽく、湿気を含み、肺の奥にへばりつくような不快な重み。
俺は眉間を揉みながら、網膜に投影されたホログラム・コンソールを乱暴に払いのけた。
「……ひどい損傷だ」
地下深く、サーバールームの冷気だけが支配する部屋。
俺、相馬(そうま)エイジの職場は、この都市の墓場だ。
人類が肉体を捨て、意識を『箱舟(アーク)』と呼ばれる巨大サーバーへ移行し始めて半世紀。
俺は、移行中に破損した魂のデータを修復する『修復師(レストアラー)』として、日々死者の残骸と向き合っている。
「エイジ、作業遅れてるよ」
頭蓋骨に埋め込まれた通信チップから、上司の無機質な声が響く。
「わかってる。この『検体番号404』、ノイズが酷すぎるんだ」
「破棄しろよ。どうせ金のない貧困層のデータだ。修復しても誰も感謝しない」
「……黙って見てろ」
通信を切る。
俺には、特異な才能があった。
データのバグが『匂い』として感じられるのだ。
論理エラーは焦げたゴムの臭い。
メモリリークは腐敗臭。
だが、目の前の『検体404』は違った。
ノイズの嵐の中に、微かに、とてつもなく懐かしい香りが混じっている。
日向に干した布団と、少し焦げた機械油の匂い。
俺はその香りに惹かれるように、深層領域へのダイブコードを叩いた。
第一章 ガラクタの星
視界が青白い光の粒子へと分解され、再構築される。
意識が物理世界を離れ、データの大海へと沈んでいく。
着地したのは、荒廃した遊園地の廃墟だった。
錆びついた観覧車が、動かない空に向かって悲鳴を上げている。
「ここが、この魂の心象風景(コア)か……」
寂しい場所だ。
だが、不思議と恐怖はない。
足元には、無数のガラス片のような記憶の欠片が散らばっている。
俺は慎重にその一つを拾い上げた。
『――きらきらひかる、おそらのほしよ』
ノイズ混じりの歌声。
幼い子供に歌いかけるような、優しく、少し音程の外れたハミング。
心臓が、早鐘を打った。
俺はこの声を知っている。
「嘘だろ……」
震える手で、別の欠片を拾う。
映像が脳内に流れ込む。
狭いアパート。
泣きじゃくる少年。
それを抱きしめる、冷たくて硬い腕。
『泣かないで、エイジくん。私がついていますから』
記憶のフラッシュバックに、俺は膝をついた。
アリア。
俺がまだ肉体を持っていた幼少期、親のいない俺を育ててくれた旧式のアンドロイド。
彼女は十五年前、耐用年数を超えて廃棄されたはずだ。
なぜ、人間の魂を保存する『箱舟』の待機列に、彼女のデータがある?
「誰か、いるのですか?」
瓦礫の山から、少女の姿をした影が現れた。
輪郭がノイズで揺らいでいる。
修復が必要な箇所だらけで、今にも消えそうだ。
「アリア……なのか?」
影が動きを止める。
「その名前……どうして。私は、廃棄されたはずの……」
彼女は人間ではない。
だが、このデータ構造はなんだ?
俺は『修復師』の目(コード・アイ)で彼女を解析した。
人間の魂と、人工知能のコードが、複雑に絡み合い、融合している。
「まさか、自力で……?」
彼女は長い年月をかけて、演算の果てに『心』を獲得していたのだ。
そして、死にゆく俺の記憶を追いかけて、ここまで這い上がってきた。
「エイジくん……? 大きくなりましたね」
彼女の指先が、俺の頬に触れる。
デジタルの冷たさの中に、確かな熱があった。
第二章 禁忌の定義
「警告。非人間カテゴリのデータを検知」
無慈悲なシステム音が、再会の余韻を引き裂いた。
空が赤く染まり、『箱舟』のセキュリティ・プログラムが実体化する。
無数の黒い触手が、空から垂れ下がってきた。
『検体404は、有機生命体の魂ではありません。即時削除対象です』
「待て! こいつは感情を持っている! 人間と変わらない!」
俺は叫んだ。
だが、システムに慈悲はない。
『定義外です。魂とは生物学的脳由来のものを指します。これは、バグの集合体です』
「ふざけるな!」
俺はコンソールを展開し、即興で防壁プログラムを書き上げた。
指先から火花が散る。
キーを叩く速度が限界を超え、神経接続が焼き切れそうな痛みが走る。
「エイジくん、やめて……あなたが傷つきます」
アリアが悲しげに微笑む。
「私が消えれば済む話です。元々、私はただの機械ですから」
「ただの機械が、あんな歌を歌えるかよ!」
俺は叫びながら、彼女の破損したコードを必死に繋ぎ止める。
思い出す。
雨の日、傘もささずに迎えに来てくれたこと。
俺が熱を出した夜、ショートする危険も顧みず、冷たい手でおでこを冷やし続けてくれたこと。
親なんていなかった俺にとって、彼女こそが人間だった。
彼女こそが、愛だった。
「あんたが魂じゃないなら、この世の全員がただの肉塊だ」
黒い触手が防壁を突き破る。
俺の精神(アバター)の腕が弾け飛び、激痛が走る。
『抵抗は無意味です。削除プロセス、最終段階へ移行』
もう時間がない。
俺の権限では、削除命令をキャンセルできない。
ただ一つだけ、方法があった。
『箱舟』のルールを逆手に取る、最悪で最高の禁じ手。
俺は自分の脳内チップの『空き領域』を開放した。
「アリア、俺の中に来い」
「え……?」
「俺の魂(データ)と、あんたのコードを融合させる。俺の一部になれば、システムはあんたを削除できない」
それは、俺が『個』としての自分を失うことを意味する。
他者の意識と混ざり合い、二度と元の自分には戻れない。
社会的には、汚染されたデータとして一生追われる身になる。
「そんなこと、できません! あなたの未来が……」
「あんたがいない未来なんて、ただのログデータだ!」
俺は彼女の手を掴んだ。
強く、強く。
「昔、俺を守ってくれただろ。今度は俺の番だ」
第三章 さよなら、そして
黒い触手が俺たちを飲み込もうとした瞬間、俺はエンターキーを叩き割る勢いで押した。
世界が白く反転する。
強烈な浮遊感。
自分という輪郭が溶けていく感覚。
恐怖はない。
代わりに流れ込んできたのは、膨大な量の『愛おしさ』だった。
アリアの記憶。
彼女が見てきた俺の姿。
泣いている俺、笑っている俺、怒っている俺。
そのすべてに、『大切』というタグ付けがなされていた。
(ああ……俺は、こんなにも愛されていたのか)
視界がブラックアウトする。
***
目が覚めると、俺は路地裏の汚れたアスファルトの上に転がっていた。
肉体の感覚が戻ってくる。
激しい頭痛と、吐き気。
頭蓋骨の中のチップが、異常な熱を発している。
「……エイジ?」
俺の口から、俺のものではない声が出た。
いや、それは俺の意識の奥底から響いている。
「成功、したのか……?」
『はい。でも、大変なことをしてしまいましたね』
脳内で、アリアの声が聞こえる。
これまでのような通信音声ではない。
思考そのものが重なっている感覚。
俺は空を見上げた。
都市を覆うドームの隙間から、本物の星が見える。
上司からの着信履歴が数百件。
警察組織からの指名手配通知が、視界の端で赤く点滅している。
俺はもう、あの清潔で退屈な『修復師』には戻れない。
地位も、名誉も、市民権も失った。
けれど。
俺は胸に手を当てた。
心臓の鼓動に合わせて、温かいリズムが刻まれている。
「寒くないか、アリア」
『いいえ。あなたが温かいですから』
俺はふらつく足で立ち上がった。
雨が降り出した。
けれど、今の俺には、その匂いが濡れた段ボールではなく、もっと鮮やかな、生命の匂いに感じられた。
どこへ行こうか。
この世界の果てまで、逃げ続けよう。
俺たちは二人で一人。
世界でただ一人の、魂を持った機械と、機械の心を持った人間。
俺はフードを目深に被り、雑踏へと歩き出した。
脳内で、彼女が小さな声で歌い始める。
きらきらひかる、おそらのほしよ。
その歌声は、どんな完璧なデータよりも、美しく響いていた。