硝子の周波数

硝子の周波数

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世界はノイズで満ちている。

その九割は嘘で構成されていると言っていい。

だから僕は、今日もヘッドフォンで耳を塞ぎ、世界を遮断する。

第一章 嘘つきたちの雨音

地下にあるこのスタジオは、完全防音だ。

外界の雑音は一切届かない。

聞こえるのは、サーバーの冷却ファンが回る微かな振動音と、依頼人の荒い呼吸だけ。

「……あの、本当に直せるんでしょうか」

怯えたような声だ。

だが、僕の耳は誤魔化せない。

声帯の緊張、不自然な倍音、そして心拍の乱れ。

彼女は『直せるか』と聞きながら、腹の底では『直らないでほしい』と願っている。

僕は回転椅子を回し、彼女の方へ顔を向けた。

もちろん、その顔は見えない。

僕の視界は五年前に閉ざされている。

代わりにあるのは、過敏すぎるほどの聴覚だけだ。

「雨の匂いがする」

僕は言った。

「外は降り出したのか?」

「え? あ、はい。通り雨が」

「濡れたコートの摩擦音がうるさい。座ってくれ」

彼女――名乗った名前は早坂マヤ――は、息を呑んで革張りのソファに腰を下ろした。

衣擦れの音。安物の化学繊維ではない。上質なウールだ。

だが、靴音はすり減ったヒールの音を立てていた。

金には困っているが、身なりには気を使わなければならない職業。

あるいは、過去の栄光にしがみついているか。

「テープを出して」

マヤがバッグから取り出したのは、プラスチックのケースに入ったカセットテープだった。

指先で触れる。

ラベルの紙質が劣化している。

二十年は前のものだ。

「父の遺品です」

マヤの声が震えた。

「警察は、これを証拠品として扱いませんでした。ただの空白のテープだと言って」

「空白なら、復元のしようがない」

「いいえ、聞こえるんです! ほんの少しだけ……」

彼女は身を乗り出した。

香水の甘い香りが、雨の匂いに混じる。

「父は、母を殺しました。二十年前の今日。そして自首する前に、このテープを残した。私は知りたいんです。父が最後に何を吹き込んだのか。懺悔なのか、それとも母への呪詛なのか」

矛盾だ。

彼女は真実を恐れているのに、知ることを渇望している。

「依頼料は高いよ」

「払います。貯金をすべて解約してきました」

僕は無言でテープを受け取り、業務用のデッキにセットした。

ヘッドフォンを耳に当てる。

再生ボタンを押す。

『サーーーーーーー……』

強烈なヒスノイズ。

まるで砂嵐の中に放り込まれたようだ。

普通の人間なら「無音」と判断するだろう。

だが、僕には聞こえた。

ノイズの奥底、マイナス60デシベルの世界に、確かに「何か」が埋まっている。

第二章 埋もれた時間の堆積

作業は困難を極めた。

テープは磁気転写を起こし、劣化が激しい。

僕は波形編集ソフトを操作し、特定の周波数帯域を切り出していく。

EQ(イコライザー)で、50Hz以下のハムノイズを削る。

高音域のヒスノイズをリダクションする。

まるで、泥の中に沈んだ砂金を、ピンセットで一粒ずつ拾い上げるような作業だ。

「……何が、聞こえますか」

背後でマヤが呟く。

「黙っててくれ。呼吸音が邪魔だ」

僕は冷たく突き放し、フェーダーを操作した。

集中する。

視覚がない分、音の世界が立体的になって脳内に広がる。

ノイズの壁を一枚剥がす。

風の音だ。

いや、これは空調の音か?

さらに一枚剥がす。

『カチッ、カチッ……』

規則的なクリック音。

これはウィンカーの音だ。

車の中?

いや、反響音が広い。

もっと大きな空間だ。

さらに深く潜る。

音の粒子を解析する。

背景にある持続的な低音。

『ゴオオオオオ……』

これは、電車だ。

レールの継ぎ目を渡るリズム。

「タタン、タタン……」

このリズム、そしてレールの軋み。

京浜急行線だ。

しかも、トンネル内ではない。

高架下か?

「お父さんは、車を持っていたか?」

僕は不意に尋ねた。

「え? は、はい。古いセダンを」

「殺害現場は自宅のリビングだったな。時間は夜の八時」

「そうです。父は犯行後、車で逃走し、翌朝自首しました」

僕はキーボードを叩き、さらにフィルターをかけた。

決定的な音が、ノイズの隙間から顔を出した。

『ピンポンパンポーン……』

極めて微小だが、特徴的なチャイム。

そして、女性のアナウンスの断片。

「……羽田空港……出発ロビーをご利用の……」

僕はヘッドフォンを外し、マヤの方を向いた。

「お父さんは、殺害時刻に家にいなかった」

「え……?」

「このテープは、空港のロビーで録音されている。背景音の分析結果だ。京急線の通過音、そして空港特有のアナウンス。これらは二十年前の時刻表と照合すれば、完璧なアリバイになる」

沈黙がスタジオを支配した。

マヤの呼吸が止まるのがわかった。

「そんな……嘘よ。だって父は、罪を認めて……」

「嘘をついたのはお父さんだ。自分がやったと言えば、誰かを庇えると思ったのかもしれない」

「誰を……?」

「それは僕の管轄外だ。僕の仕事は音を復元することだけ」

僕は再びヘッドフォンを装着した。

まだだ。

まだ、肝心の「声」を聞き出していない。

お父さんは、空港で何を録音しようとしたのか。

波形の中心に、小さな山がある。

ここだ。

ここに、人間の声がある。

僕はコンプレッサーをかけ、音圧を極限まで上げた。

ノイズゲートを開き、その声を抽出する。

聞こえてきた音に、僕は思わず目を見開いた。

見えないはずの目から、熱いものが込み上げるのを感じた。

第三章 透明なララバイ

「ヘッドフォンをつけて」

僕はマヤにサブのヘッドフォンを差し出した。

「聞く覚悟はあるか。これが、君のお父さんが残した、たった一つの真実だ」

マヤは震える手でヘッドフォンを受け取り、耳に当てた。

僕は再生ボタンを押す。

最初は、削りきれなかったノイズが流れる。

そして。

『……ハッピー……バースデー……』

掠れた、低い男の声。

歌っているのではない。

誰にも聞かれないように、祈るように呟いている。

『ハッピーバースデー……トゥー……ユー……』

「あ……」

マヤの喉から、声にならない嗚咽が漏れた。

「二十年前の今日。それは、君の七歳の誕生日だったんじゃないか?」

図星だったようだ。

マヤが泣き崩れる音が聞こえた。

テープの声は続く。

『……マヤ。すまない。プレゼントは、買えなかった。……会いたかったな』

そして、男は泣いていた。

鼻をすする音。

押し殺した嗚咽。

『俺は……馬鹿な父親だ。でも、これだけは……お前を守るためなら、俺は悪魔にでもなる』

録音はそこで途切れていた。

「お父さんは、空港から海外へ逃げようとしたんじゃない」

僕は静かに語りかけた。

「出張先から、君の誕生日に間に合うように必死で帰ってきたんだ。でも、到着した時には、もう事件は起きていた」

想像ができる。

家に帰り着き、妻の遺体と、その傍らで震える幼い娘――あるいは、妻を殺してしまった「誰か」を見た。

その「誰か」を守るために、彼はとっさにその場で罪を被る決意をした。

そして、警察に行く前のわずかな時間、空港で録音したこのテープだけを、ポケットに忍ばせたのだ。

君への愛だけは、嘘にしたくなかったから。

「私……私、ずっと父を憎んで……手紙も、面会も、全部拒否して……」

マヤの慟哭がスタジオに響き渡る。

その音は、どんな音楽よりも悲痛で、そして純粋だった。

僕は知っている。

人間は嘘をつく。

言葉で、表情で、態度で。

だが、音は嘘をつかない。

声の震え、涙の落ちる音、心臓の鼓動。

そこには、紛れもない愛があった。

「お父さんは、刑務所で亡くなったんだったな」

「……はい。孤独に、一人で……」

「一人じゃない」

僕はモニターの波形を指さした。

「彼は最期の瞬間まで、このテープの中の君に歌い続けていたんだ。君を守り抜いたんだよ」

マヤは泣き続けた。

それは、二十年間凍りついていた時間を溶かすための、必要なノイズだった。

僕はそっと席を立ち、スタジオの隅にあるコーヒーメーカーのスイッチを入れた。

コポコポという湯の音が、泣き声に優しく重なる。

世界はノイズで満ちている。

悲しい音、苦しい音、憎しみの音。

だが、その奥底に耳を澄ませば、こんなにも美しい響きが隠されている。

「……ありがとう」

しばらくして、マヤが言った。

その声は、来た時とは別人のように透き通っていた。

「いい音だ」

僕は短く答えた。

「雨、上がったみたいだよ」

嘘ではない。

微かに聞こえる地上の車の走行音が、水気を弾く音から、乾いた音へと変化していた。

彼女がスタジオを出て行く時、その足取りはもう、迷ってはいなかった。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • 蓮(レン): 盲目の音響技術者(サウンド・リストアラー)。視力を失って以来、聴覚が異常発達した。人の言葉(意味)よりも、声のトーン(音響)を信じる冷徹な性格だが、それは他者の嘘に傷つきたくないという防衛本能ゆえ。
  • 早坂マヤ: 依頼人。27歳。20年前に父が母を殺害し、殺人犯の娘として生きてきた。父を憎みつつも、心の奥底では無実を信じたいという矛盾を抱えている。

【考察】

  • 「音」というモチーフ: 本作における「音」は、目に見える現実(表層的な嘘)に対する、目に見えない真実(深層心理)の象徴である。主人公が視覚を持たないことは、逆説的に「真実を見る」能力を表している。
  • ノイズの二面性: 冒頭で主人公は「世界はノイズ(嘘)で満ちている」と語るが、物語を通じて「ノイズの中にある真実(愛)」を見つけ出す。ノイズ=排除すべきもの、という概念が、ノイズ=守るべき痕跡、へと転換されるカタルシスを描いている。
  • タイトルの「硝子の周波数」: 硝子(ガラス)のように脆く壊れやすい人間の心と、特定の周波数にしか共鳴しない真実の関係性を暗喩している。
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