第一章 不協和音のダイイング・メッセージ
雨粒が防音ガラスを叩く音だけが、俺の世界のすべてだった。神童と呼ばれた指はもうピアノの鍵盤を滑ることはなく、代わりにミキシング・コンソールのフェーダーを微調整している。俺、天野響介(あまの きょうすけ)は、かつての喝采を過去に葬り、今は音響分析技師として息を潜めるように生きていた。絶対音感という呪いのような才能だけが、この薄暗いスタジオで俺の価値を証明してくれる。
その静寂を破ったのは、無機質なインターホンの呼び出し音だった。ドアの向こうに立っていたのは、くたびれたトレンチコートを着た中年刑事、田所と名乗る男だった。彼の来訪が、俺の灰色の日常に不協和音を響かせることになるなど、その時は知る由もなかった。
「倉田湊(くらた みなと)さんが、亡くなりました」
田所の口から紡がれた名前に、心臓が冷たく軋んだ。湊。俺の幼馴染であり、唯一無二のライバル。そして、俺が音楽の世界から逃げ出す原因を作った男。現代音楽界の寵児として、彼は俺が捨てた光のすべてを浴びていた。
「昨夜、自宅の音楽スタジオで殺害されたようです。密室状態でした」
「……それで、なぜ俺のところに?」
俺の声は、自分でも驚くほど乾いていた。湊とのことなど、もう何年も考えていなかったはずなのに。
田所は懐から小さなデジタルレコーダーを取り出した。「現場には、奇妙なものが残されていましてね。これが、被害者が死の間際に残したと思われる……音です」
再生ボタンが押されると、スピーカーから三つの和音が流れ出た。
一つ目。深く濁った、不安を掻き立てる不協和音。
二つ目。どこか懐かしく、切ない響きを持つ短調の和音。
三つ目。すべてを浄化するような、荘厳で美しい長調の和音。
たった三秒ほどの、断片的な音の羅列。だが、その響きは俺の鼓膜を通り抜け、脳髄に直接突き刺さった。なんだ、これは。音楽と呼ぶにはあまりにも支離滅裂で、同時に恐ろしいほどの意志を感じさせる。
「我々は、これをダイイング・メッセージだと考えています。犯人を特定する手がかりが、この音の中に隠されているのではないかと。天野さん、あなたならこの音の意味が分かるかもしれない。倉田さんとは、旧知の仲だったそうじゃないですか」
俺は唇を噛んだ。湊が遺した謎。それは、俺を過去という名の沼に引きずり込もうとする、悪魔の誘いのように思えた。しかし、それ以上に、この不可解な三つの和音が俺の心を捉えて離さなかった。この音は、俺に何かを語りかけている。俺は、その声を聞き逃すことはできなかった。
「……分かりました。協力します」
俺は、再び湊と向き合う覚悟を決めた。雨音の向こうで、運命の歯車が軋みながら回り始める音が、確かに聞こえていた。
第二章 沈黙のアリバイ
湊のスタジオは、彼の死によって時を止められていた。グランドピアノの蓋は開かれたまま、楽譜が散乱し、壁一面の音響機材が冷たく沈黙している。空気には、微かに血の匂いと、湊が好んで焚いていた白檀の香りが混じり合っていた。俺はその中心に立ち、繰り返しあの三つの和音を聴いていた。
C#、G、A#。不吉な響きの減五度を含む、悪魔の和音。
続いて、Am7(9)。郷愁を誘う、悲しみのコード。
最後に、Cadd9。希望に満ちた、始まりの響き。
音の構成は分析できても、その「意味」が全く見えてこない。暗号なのか? 誰かの名前や場所を示唆しているのか? 俺は警察から提供された容疑者リストに目を落とした。
一人目は、湊の一番弟子だった若手作曲家の佐伯。彼は湊の才能に強く嫉妬しており、最近では音楽性の違いから激しく衝突していたという。だが、彼には完璧なアリバイがあった。事件当夜、彼は地方のオーケストラで自作の初演を指揮していたのだ。
二人目は、音楽プロデューサーの高遠。彼は湊の未発表曲を盗用したという疑惑で、湊から訴訟を起こされかけていた。動機は十分だが、彼もまた事件当夜は海外の音楽祭に出席していたことが確認されている。
三人目は、新進気鋭のヴァイオリニスト、美咲。湊とは恋愛関係の噂があったが、最近、湊が一方的に関係を清算したらしい。愛憎のもつれによる犯行も考えられたが、彼女は事件があった時刻、チャリティーコンサートで満員の聴衆を前に演奏していた。
誰もが完璧なアリバイを持ち、鉄壁の城壁に守られている。捜査は完全に行き詰まっていた。
「どうですか、天野さん。何か分かりましたか?」
田所刑事が背後から声をかける。俺は首を横に振った。
「いえ。この和音は、特定の個人を示すような単純なメッセージではないようです。もっと……個人的で、抽象的な何かを感じる」
「個人的、ですか」
「ええ。まるで、作曲者自身にしか分からないような、内面的な風景というか……」
俺は湊との過去を思い出していた。公園のベンチで二人、一つのイヤホンを分け合ってクラシックを聴いた日。コンクールの結果発表で、互いの名前を探して抱き合った日。そして、俺がピアノを弾けなくなった日、何も言わずにただ隣に座っていた湊の、あのどうしようもないほど優しい横顔。
俺は湊を憎んでいたはずだった。俺の夢を奪い、俺がいたはずの場所に立ち続けていた彼を。だが、彼の死と向き合ううちに、心の奥底に澱のように溜まっていた黒い感情が、少しずつ溶けていくのを感じていた。
俺は本当に、湊のことを理解していたのだろうか。嫉妬と劣等感というフィルターを通してしか、彼を見ていなかったのではないか。
その時、ふとピアノの脇に置かれた楽譜の束が目に入った。それは湊が死の直前まで取り組んでいたという、新しい交響曲のスケッチだった。何気なくページをめくった俺の指が、ある一点で凍りついた。そこには、走り書きのようなメモがあった。
『響介なら、きっと分かる』
その文字を見た瞬間、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。湊は、俺に何を伝えたかったんだ? この謎は、俺のためだけに遺されたものだというのか? 苛立ちと混乱の中、俺はただ、意味の分からない三つの和音を、何度も何度も頭の中でリフレインさせることしかできなかった。
第三章 G線上のレクイエム
捜査は暗礁に乗り上げ、俺の分析もまた、出口の見えない迷路を彷徨っていた。湊のメモ書き、『響介なら、きっと分かる』という言葉が、呪いのように頭から離れない。分かるはずだ、と湊は信じていた。だが、俺には何も分からない。俺は湊が思うほどの人間ではないのだと、過去の挫折が囁きかける。
焦燥感に駆られ、俺は自宅のスタジオに引きこもった。湊が遺した交響曲のスケッチをデータ化し、何度も再生する。それは、彼の才能が凝縮された、荒削りながらも圧倒的な美しさを放つ音楽だった。だが、聴けば聴くほど、何かが足りないという違和感が募っていく。物語の「始まり」が欠けているような、そんな感覚。
その夜、疲れ果ててソファに身を沈めた俺は、ふと本棚の隅にある古いファイルに目を留めた。それは、俺がピアノを辞めるきっかけとなった、最後のコンクールのために書いた未完成のソナタの楽譜だった。指の怪我で弾くことができず、誰にも見せることなく封印した、俺の夢の残骸。
ほとんど無意識に、俺はその楽譜を手に取り、ピアノの前に座った。錆びついた指で、ゆっくりと冒頭のメロディを奏でる。それは、俺の挫折と後悔が染み込んだ、悲しい旋律だった。
弾き終えた瞬間、雷に打たれた。
全身に鳥肌が立ち、呼吸が止まる。
信じられない考えが頭をよぎり、俺は震える手で、湊が遺した三つの和音のデータを再生した。
一つ目の不協和音。
二つ目の悲しい短調の和音。
三つ目の希望に満ちた長調の和音。
そして、今しがた俺が弾いた、未完成のソナタの冒頭メロディ。
繋がった。
すべてが、一本の線で。
湊が遺した三つの和音は、ダイイング・メッセージではなかった。犯人を指し示す暗号などでは、決してなかったのだ。
あれは、俺の未完成のソナタの旋律に、湊が与えた「伴奏」だった。俺の孤独なメロディを、深く豊かなハーモニーで包み込むための、たった三つの和音。
不協和音は俺の苦悩を。短調の和音は俺の悲しみを。そして、長調の和音は、俺が掴むべきだった未来の希望を。
湊は、俺の曲を完成させようとしていたのだ。彼が書いていた交響曲の、欠けていた「始まり」。それは、俺のソナタの主題だった。彼は俺の才能が朽ち果てるのを、誰よりも嘆いていた。そして、俺が再び音楽の世界に戻ってくることを、ずっと待ち望んでいたのだ。
『響介なら、きっと分かる』
ああ、分かるさ。分かってしまったよ、湊。お前が俺に遺したかったものの本当の意味を。
事件の真相は、あまりにも呆気ないものだった。田所刑事からの連絡によれば、湊を殺害したのは、彼の高価な音響機材を狙った、ただの強盗だったらしい。偶然鉢合わせてしまい、命を奪われたのだと。犯人は音楽のことなど何も知らない、ただのチンピラだった。
湊は、死を目前にしたあの瞬間、犯人への復讐よりも、俺へのメッセージを遺すことを選んだのだ。自分の最高傑作が、親友との共作であるこの曲が、永遠に失われてしまうことを恐れて。彼は最後の力を振り絞り、ピアノに向かい、俺にしか解読できない「主題」の伴奏を録音した。それは、告発ではなく、未来への「遺言」だった。
第四章 友情のクレッシェンド
涙が止まらなかった。俺は湊を誤解していた。嫉妬していたのは俺の方で、彼はいつだって俺の光を信じてくれていた。俺の才能を、俺自身よりもずっと。後悔と感謝の念が入り混じり、胸が張り裂けそうだった。俺はピアノに向かい、涙で滲む視界の中、鍵盤を叩いた。湊が遺してくれた三つの和音に導かれるように、俺の指は、かつての輝きを取り戻したかのように滑らかに動いた。
そこから先の数年間、俺は狂ったように曲を書き続けた。湊が遺した交響曲のスケッチと、俺のソナタの主題を融合させ、一つの壮大なオーケストラ曲として完成させるために。それは、湊への鎮魂歌(レクイエム)であり、俺自身の再生の物語でもあった。
そして今、俺は満員のサントリーホールのステージに立っている。指揮者として。
静まり返った客席。ライトが俺のタクトの先に集中する。俺は息を吸い込み、ゆっくりと腕を振り下ろした。
その瞬間、ホールに響き渡ったのは、あの三つの和音だった。
ティンパニが轟かせる、深く不吉な不協和音。
弦楽器が奏でる、切なく悲しい短調の和音。
そして、金管楽器が高らかに歌い上げる、荘厳で希望に満ちた長調の和音。
それはもはや断片的な音の羅列ではなかった。壮大な物語の始まりを告げる、魂の序曲だった。俺のメロディと湊のハーモニーが、巨大なオーケストラの響きの中で一つに溶け合い、クレッシェンドしていく。
目を閉じると、湊の横顔が浮かぶ。公園のベンチで、いたずらっぽく笑う彼の顔が。俺はタクトを振りながら、心の中で彼に語りかけた。
『聞こえるか、湊。これが、俺たちの音楽だ』
曲が終わると、一瞬の静寂の後、割れんばかりの拍手がホールを包んだ。俺は深く頭を下げた。鳴り止まない喝采の中で、俺には確かに聞こえていた。俺の隣で、誰よりも誇らしげに拍手をしてくれる、親友の残響が。
過去の呪いは解けた。俺はもう、逃げない。湊が遺してくれたこの音と共に、生きていく。彼の音が、俺の中で永遠にリフレインし続ける限り。