第一章 塩辛い木箱
カイには、生まれついての秘密があった。彼にとって、歴史とは味の記憶だった。古びたインク瓶に指を触れれば、インクを詰めた書記官の焦燥が、乾いたパンのような風味となって舌の上に広がる。百年前に作られた椅子に腰掛ければ、それに座った人々の倦怠や安らぎが、ぬるい紅茶のような後味となって喉を伝う。彼は、物に宿る時間の残響を「味わう」ことができるのだ。
その能力は、祝福というよりは呪いに近かった。誰にも理解されず、常に不意打ちのように押し寄せる他人の記憶の断片に、カイは幼い頃から苛まれてきた。やがて彼は、その感覚から身を守るように感情に蓋をし、歴史を単なる味のコレクションとして分類するようになった。この懐中時計は「錆びた鉄と後悔の味」、あの革表紙の本は「羊皮紙と微かな希望の味」。そうやって無機質なラベルを貼ることで、彼はかろうじて自己を保っていた。
彼が働くのは、街の片隅にひっそりと佇む古物商『時の澱』。埃と古い木の匂いが満ちるその場所は、カイにとって格好の隠れ家だった。師匠である老店主は、カイの奇妙な沈黙を、ただの若者らしい人見知り程度にしか思っていないようだった。
ある雨の日の午後、一人の男が店に古びた桐の木箱を運び込んできた。男は家の蔵を整理していて見つけたと言い、中身も分からぬまま、僅かな金と引き換えに箱を置いていった。その箱は、ただそこにあるだけで、店の空気を変質させた。黒ずんだ木肌は長い年月を物語り、頑丈な真鍮の錠前は、その秘密を固く守っているようだった。
カイが恐る恐るその箱に指先を触れさせた瞬間、脳を揺さぶるような強烈な味が口内を支配した。それは、凝縮された悲しみの味。打ち寄せる波のような塩辛さ、燃え尽きた木々の焦げ臭い風味、そして奥底にかすかに感じる、熟した果実のような甘い絶望。これまで味わったどの歴史とも違う、あまりに生々しく、濃密な記憶の奔流だった。
「どうした、カイ。顔が真っ青だぞ」
師匠の声が遠くに聞こえる。カイは息を呑み、慌てて箱から手を離した。だが、遅かった。舌の上にこびりついた味は、まるで亡霊のように彼を捉えて離さない。
(なんだ、この味は……。誰の記憶だ?)
初めて、彼は歴史の味の「向こう側」にいる誰かの存在を、強烈に意識していた。錠前は錆びつき、鍵もない。開かずの箱。しかし、カイの中で、この箱を開けなければならないという衝動が、これまで感じたことのない熱を帯びて燃え上がっていた。それは、単なる好奇心ではなかった。塩辛い悲しみの味が、彼に助けを求めているような、そんな錯覚さえ覚えたのだ。
第二章 焼けた楽譜の旋律
その夜、カイは店に忍び込んだ。雨音だけが響く静寂の中、あの木箱が放つ異様な存在感が、彼の全身を粟立たせる。細い針金をいくつか使い、錠前と格闘すること一時間。やがて、カチリ、と乾いた音が響き、箱は重たい溜息のような音を立てて蓋を開いた。
中には、黒いビロードが敷き詰められていた。そしてその上に、ぽつんと二つの物が置かれている。一つは、端が焼け焦げ、茶色く変色した古い楽譜。もう一つは、くすんだ銀のロケットペンダント。カイは、まず楽譜を手に取った。指先に触れた瞬間、先ほどの塩辛い味と共に、新しい感覚が流れ込んできた。それは音だった。彼の頭の中に、不完全で、途切れ途切れのピアノの旋律が鳴り響き始めたのだ。
彼は衝動的に、楽譜を口の端に含んだ。目を閉じ、ゆっくりと「味わう」。
歴史を喰らう。それはカイにとって、記憶を最も深く理解するための儀式だった。
紙の繊維が舌の上で解けるように、風景が広がっていく。ガレキの山、黒煙を上げる空、遠くで鳴り響くサイレン。戦火の街だ。その中で、一人の若い女性が、埃を被ったアップライトピアノを弾いている。細く、震える指。彼女の心象風景が、カイの感情と混じり合っていく。恐怖、絶望、そして、誰かを待つ狂おしいほどの切なさ。旋律は、その全ての感情を内包していた。
彼女は誰かを待っている。この街が灰になる前に、必ず帰ってくると約束した誰かを。ピアノの音色は、暗闇に灯す一本の蝋燭のように、彼女の唯一の希望だった。だが、記憶の最後はいつも同じだった。けたたましい爆音、揺れる視界、そして、全てを飲み込む炎の赤。
カイはハッと目を開けた。頬に冷たいものが伝っている。涙だった。これまで歴史を味わって、感傷的になることはあっても、涙を流したのは初めてだった。これはもはや、味のコレクションではない。一人の人間の、魂の叫びそのものだ。彼は、もう一つの遺品である銀のロケットを手に取った。留め金を開くと、中には小さな写真が収められていた。セピア色の写真には、ピアノの前に座る、あの記憶の中の女性が優しく微笑んでいた。そして、ロケットの裏蓋には、小さな文字で『S. K. へ』とだけ、彫られていた。
「S. K.……」
そのイニシャルに、カイは奇妙な既視感を覚えた。彼は自分の名前を呟く。「カイ・サワシロ」。偶然だろうか。いや、偶然ではない何かを感じずにはいられなかった。彼は、この名もなき女性の物語を、最後まで見届けなければならないと強く感じていた。それは、彼女への同情か、それとも自分自身のルーツに引き寄せられているのか、彼自身にも分からなかった。
第三章 歴史の味
カイの調査は、そのイニシャルから始まった。市の古い戸籍記録を丹念に辿り、戦時中の名簿を虱潰しに調べる日々。そして数週間後、彼はついに一つの名前に辿り着いた。
『サワシロ・シズコ』。
心臓が大きく脈打った。それは、彼の曾祖母の名前だった。公式な記録によれば、彼女は大規模な空襲の際に、自宅で亡くなったと記されている。だが、カイが味わった記憶と、その記録には決定的な齟齬があった。記憶の中の彼女は、自宅ではない、どこか別の場所にあるピアノを弾いていた。
カイは、一族のアルバムが仕舞われている実家の屋根裏部屋へと向かった。埃っぽい空気の中、彼は一枚の写真を見つけ、息を呑んだ。そこには、若き日の曾祖父と、あのロケットの中と同じ顔の曾祖母が、寄り添って微笑んでいた。写真の裏には、『音楽学校の卒業演奏会にて』と記されている。
音楽学校。カイはその手がかりを元に、廃校となったその学校の跡地を突き止めた。そこは現在、小さな公園になっていたが、敷地の隅に、空襲の被害を伝える慰霊碑がひっそりと建っている。その碑文を読んだカイは、愕然とした。空襲があった日、この音楽学校は臨時の避難所として使われ、多くの市民が犠牲になった、と。
なぜ、一族の記録は『自宅で死亡』となっているのか。なぜ、この場所のことが隠されているのか。疑問が渦巻く中、カイは再びあの焼けた楽譜を取り出した。今度は、もっと深く、彼女の魂の奥底まで味わう覚悟で。
彼は楽譜の最後の、最も焼け焦げた部分を口に含んだ。
瞬間、これまでにないほど鮮明な記憶が、彼の全身を貫いた。
爆撃が激しくなる中、シズコは恋人――後の曾祖父――を避難所の裏口から逃がしていた。「君は生きるんだ。僕たちの音楽を、未来に繋いでくれ」。そう言って彼は抵抗したが、彼女は彼を突き放し、鍵をかけた。そして、彼女は一人、講堂のピアノへと戻る。
彼女がピアノを弾き始めたのは、おとりになるためだった。大きな音を立て、敵兵の注意を自分一人に引きつけるために。彼女が奏でる旋律は、絶望の淵で燃え上がる、愛と犠牲の炎だった。やがて、兵士たちが講堂になだれ込んでくる。ピアノの音は止み、代わりに兵士たちの怒声と、一つの乾いた銃声が響いた。
彼女が最期に見た光景。それは、割れた窓ガラスの向こうで、炎に包まれて崩れ落ちていく、向かいの教会の十字架だった。
あの「焦げた木の味」は、空襲の火事ではなかった。彼女の最期の光景だったのだ。そして、「塩の味」は、彼女が流した涙と、愛する人を失う彼の未来を想う痛みだったのだ。
曾祖父は生き延びた。そして、彼女の犠牲を胸に秘め、彼女が敵兵に殺されたという事実を隠し、「空襲で死んだ」という物語を作り上げた。それは、一族の名誉を守るためであり、何より、彼女の犠牲の上で生き残ってしまった自分自身への、あまりに重い贖罪だったのかもしれない。
カイは、その場に崩れ落ちた。歴史の味は、甘美なコレクションなどでは断じてなかった。それは、記録からこぼれ落ちた人々の、声なき叫びであり、血の滲むような真実そのものだった。
第四章 語り継ぐ者
カイは、全てを理解した。曾祖父が、なぜ生涯ピアノに触れようとしなかったのか。なぜ、祖父や父に、決して戦時中の話をしなかったのか。その沈黙は、シズコという一人の女性への、生涯をかけた愛と忠誠の証だったのだ。
カイは古物商に戻ると、店の奥にある古いピアノの前に座った。そして、記憶の中の、あの不完全な旋律を指で辿り始めた。最初はぎこちなく、途切れ途切れだった音は、やがて確かな流れになっていく。それは、シズコの絶望と希望、そしてカイが受け継いだ真実の重みが込められた音色だった。彼女が完成させることのできなかった曲の続きを、カイが今、七十年以上の時を超えて紡いでいる。
曲が終わった時、店の入り口に師匠が立っていた。彼は何も言わず、ただ静かにカイの演奏を聴いていたようだった。
「……良い音色だな。誰の曲だ?」
カイは、鍵盤に落ちた自分の涙を拭いもせず、顔を上げた。
「俺の、曾祖母の曲です。誰も知らない、彼女だけの物語です」
その日を境に、カイは変わった。彼はもはや、歴史の味から逃げるように心を閉ざすことはなかった。彼は、忘れ去られた声に耳を澄まし、その物語を味わい、理解しようと努めるようになった。彼の能力は呪いではなく、歴史から消された名もなき人々の魂を受け継ぎ、未来に語り継ぐための、かけがえのない祝福なのだと悟ったのだ。
彼は、歴史の「消費者」から、歴史の「語り部」へと生まれ変わった。
今日もまた、カイは『時の澱』のカウンターに立ち、客が持ち込む古物にそっと指を伸ばす。次に味わうのは、どんな人生だろうか。喜びか、悲しみか、あるいは静かな諦観か。どんな味であっても、彼はもう恐れない。その一つ一つの味が、無数に連なって「歴史」という壮大なタペストリーを織り上げていることを、彼は知っているからだ。
彼の指先が、錆びたブリキの玩具に触れる。ふわりと、綿菓子のように甘く、そして少しだけ寂しい味が、彼の舌の上に広がった。カイは静かに目を閉じ、その小さな物語に、心を傾けるのだった。