色彩の追憶、忘却の大地
1 3939 文字 読了目安: 約8分
文字サイズ:
表示モード:

色彩の追憶、忘却の大地

第一章 藍と赤の残響

カイが古都アトリエの石畳に膝をつくと、世界から音が消えた。湿った土の匂いと、遠くの市場の喧騒がふっと途絶え、代わりに視界が奇妙な色彩で満たされていく。百年前、この広場で起きた革命の残滓。人々の感情が、今もなお陽炎のように揺らめいていた。

燃え盛る炎のごとき赤。それは、圧政への怒り。広場を埋め尽くす民衆の叫びが、無音のままカイの網膜を焼く。次いで、夜の海より深い藍。理想に破れ、友を失った者たちの悲嘆だ。その藍に触れようと指を伸ばした瞬間、ずきり、と鋭い痛みがこめかみを貫いた。まるで自分の心に、冷たい雫が染み込んでくるような感覚。カイは慌てて手を引いた。

彼の持つこの力は、呪いにも似ていた。過去の出来事の現場に立つと、その時の人々の感情が『色彩』として見える。しかし、その残像に深く同調すれば、過去の感情が奔流となって流れ込み、精神を削り取っていくのだ。

「また、これか……」

小さく呟き、立ち上がる。彼の足元では、忘れ去られようとする歴史が『記憶の粒子』となって舞い上がり、長い年月をかけて石畳の一部へと結晶化していく。この世界は、人々の忘却の上に成り立っていた。忘れられた歴史が多い場所ほど、巨大で複雑な『忘却の碑(いしぶみ)』を形成し、新たな街や大地の土台となる。アトリエの街もまた、幾重にも重なる忘却の上に築かれた、美しい墓標のような場所だった。

第二章 無音の旋律

カイが下宿に戻ると、世界中を揺るがすニュースが報じられていた。世界の基盤そのものである、最も巨大な『原初の忘却の碑』に、原因不明の亀裂が走り、崩壊の兆しを見せているという。

それと時を同じくして、各地で異常現象が頻発していた。過去の出来事が、まるで演劇のように『再演』されたり、歴史上の人物の残像が実体化したりするのだ。先ほどカイが見た革命の残響も、その一つに過ぎなかった。

カイは窓辺に置かれた、古びた木箱を手に取った。掌に収まるほどの大きさの『無音のオルゴール』。蓋を開けても、櫛歯はただ沈黙を守るだけだ。だが、カイが能力を使い、感情の色彩に満ちた場所にいる時だけ、それは微かな反応を示した。

「……光ってる?」

今、オルゴールは確かに、内側から淡い光を放っていた。それは先ほど広場で見た、怒りの赤でも悲しみの藍でもない。純粋な、名状しがたい光の色。それは、このオルゴールにだけ記録された、世界創生時の『真の歴史』の残滓。

カイは直感した。世界の崩壊は、何者かがその『真の歴史』を意図的に”削除”しようとしているために起きているのだと。オルゴールの光は、か細い道しるべのように、世界の中心――『原初の忘却の碑』の核を指し示していた。

行くしかない。

たとえ、その先に待つ過去がどれほど心を苛むものであっても。

第三章 記憶の渓谷

オルゴールの光に導かれ、カイが足を踏み入れたのは、人の記憶から完全に消え去った巨大な渓谷だった。そこは『原初の忘却の碑』そのものであり、切り立った崖はすべて、結晶化した忘却でできている。

一歩進むごとに、足元から様々な感情の色彩が滲み出した。黄金色は、かつてこの地にあった王国の栄華。しかし、そのすぐ隣には、国が滅びた時の絶望を映す、底なしの漆黒が渦巻いていた。カイは精神を守るため、意識をオルゴールから放たれる微かな光に集中させた。

道中、いくつもの『再演』に遭遇した。愛を囁き合う恋人たちの幻影は、甘い薔薇色の靄となってカイを包み込み、次の瞬間には、裏切りによって生まれた憎悪の紫色が、鋭い棘のように彼を突き刺した。感情の奔流に飲み込まれかけ、膝をつく。息が荒くなり、心臓が悲鳴を上げた。

それでも、カイは歩みを止めなかった。オルゴールの表面には、断片的な情景が浮かび上がっては消えていく。燃え盛る大地。天を突くほどの巨像。そして、泣き叫ぶ人々の姿。それは、カイが知るどんな歴史にも記されていない、世界の始まりの記憶だった。

第四章 再演される亡霊

渓谷の最深部、碑の核へと続く洞窟に辿り着いた時、カイの前に実体化した残像が立ち塞がった。全身を錆びた鎧で覆った、名もなき兵士たち。彼らの内側からは、言葉にならない無念と怒りが、どす黒い赤色となって溢れ出していた。

「……っ!」

槍を構えた兵士が、亡霊とは思えぬほどの質量を持って突進してくる。カイは身をかわし、その感情の色彩を真正面から見据えた。彼らは忘れられた戦争の犠牲者。守るべき故郷も、愛する家族も、その名誉さえも、誰にも記憶されることなく忘却の碑に埋もれた者たちだった。

カイはオルゴールを強く握りしめた。

戦うのではない。理解するのだ。

彼の瞳が、兵士たちの怒りの奥底にある、純粋な悲しみの藍を捉える。故郷を想う、ただそれだけの純粋な願い。

「あなたたちの痛みは、忘れない」

カイがそう囁くと、兵士たちの輪郭が揺らぎ始めた。どす黒い赤は次第に薄れ、穏やかな藍色へと変わっていく。やがて彼らは光の粒子となり、静かに消えていった。カイは、彼らが遺した穏やかな藍の光が、自分のオルゴールにそっと吸い込まれていくのを感じた。道は、開かれた。

第五章 時の番人

『原初の忘却の碑』の核は、意外なほど静謐な空間だった。巨大な水晶のような結晶が林立し、その中心に、一人の老人が静かに腰掛けていた。

「よくぞ参られた、色彩の視手よ」

穏やかな声だった。だが、カイが彼の瞳を覗き込んだ瞬間、息を呑んだ。その瞳には、この世のすべての悲しみを凝縮したかのような、途方もなく深い藍色が揺らめいていた。

「あなたが、この崩壊を……?」

「いかにも」

老人は、自らを『時の番人』と名乗った。彼は、この世界の均衡を守るために存在する超越者だった。そして、碑の崩壊は、彼自身が引き起こしているのだと告白した。

「この世界は、あまりにも残酷な真実の上に成り立っておる。人々が互いを喰らい合い、憎しみ合う、終わりなき闘争の末に生まれたのが、この世界の始まり……『真の歴史』なのじゃ」

番人は語る。彼はその過酷な真実を人々から隠すため、その記憶を『原初の忘却の碑』に封じ込め、その上に、人々が平和に暮らせる穏やかな偽りの歴史を築き上げたのだと。しかし、時折、封印が揺らぎ、真実の断片が漏れ出す。そのたびに世界は混乱に陥る。

「故に、私は決めた。真の歴史そのものを、完全に消去する。この碑が崩壊すれば、真実は永遠に失われ、世界は完全な『忘却』による平和を得る」

それは、世界を守るための、究極の自己犠牲。実行者の正体は、破壊者ではなく、歪んだ愛情を持つ守護者だった。

第六章 二つの選択

カイは言葉を失った。番人を倒せば、世界の崩壊は止められるかもしれない。だが、その瞬間、封印されていた『真の歴史』が解放され、世界は再び憎しみの連鎖に囚われるだろう。かといって、このままでは世界そのものが消滅してしまう。

倒すのか。見過ごすのか。

どちらも、本当の救いにはならない。

カイは、手に持ったオルゴールに目を落とした。そこには、先ほどの兵士たちの穏やかな藍が、今も微かに灯っている。そうだ。歴史とは、ただの事実の羅列ではない。そこには必ず、人の想いが、感情が宿っている。

「違う」カイは顔を上げた。「あなたのやり方は間違っている」

彼は一歩、番人へと踏み出した。

「真実を消すのでも、押し付けるのでもない。僕たちが、新しい物語を紡ぐんだ。悲劇をただの悲劇で終わらせない、未来へ繋がる物語を」

カイはオルゴールを番人に差し出した。

「僕には、過去の感情の『色』が見える。純粋な願いも、愛も、希望も。あなたの力で、その色彩を言葉にしてほしい。僕たちで、この世界に新しい歴史を刻むんだ」

番人は驚きに目を見開いた。その深い藍色の瞳が、初めて激しく揺らいだ。

第七章 虚構の黎明

それは、壮絶な共同作業だった。カイは『原初の忘却の碑』に眠る真の歴史の奔流に身を投じ、その中から、憎しみや絶望に埋もれた、一点の純粋な光を探し出した。それは、戦火の中で交わされた恋人たちの誓い(薔薇色)、故郷を守ろうとした兵士の祈り(藍色)、新しい時代を信じた子供たちの希望(金色)。

カイがその感情の色彩を拾い上げるたび、番人はその色を美しい言葉へと変え、新たな物語として紡いでいく。悲劇は、未来への教訓として。憎しみは、愛の尊さを知るための試練として。全ての過去を、美しく昇華させていく。

無音のオルゴールが、これまでで最も強く輝き始めた。それは歌だった。紡がれた新たな歴史が、光の旋律となって『原初の忘却の碑』に刻み込まれていく。亀裂は癒え、世界の崩壊は止まった。

カイが再びアトリエの街に戻った時、空はどこまでも青く澄み渡っていた。人々は何も知らず、穏やかな日常を笑い合っている。彼らの足元に広がる大地が、カイと番人が紡いだ、美しくも切ない『虚構』の上に成り立っていることなど、誰も知らない。

カイは懐のオルゴールをそっと握りしめた。それはもう光を放つことはなく、ただの冷たい木箱に戻っていた。だが、彼にはわかっていた。この平和の重みを、真実を知る唯一の存在として、永遠に背負っていくのだと。

人々の笑い声が風に乗って運ばれてくる。その音を聞きながら、カイはそっと目を閉じた。彼の瞼の裏には、空の青に混じる、誰にも見えない真実の藍が、静かに揺らめいていた。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る