残香の編纂者
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残香の編纂者

第一章 残香の編纂者

識(しき)の仕事は、死にゆく歴史の香りを嗅ぎ、それを記録することだった。彼が勤める『残香記録院』の書庫には、無数の硝子瓶が並んでいる。その一つ一つに、忘れ去られつつある過去の断片が、か細い香気として封じ込められていた。

この世界では、記憶こそが存在の礎だった。人々がある出来事を語り継ぎ、心に留めている限り、その歴史は書物に、建造物に、そして風景に、確かな輪郭を保ち続ける。しかし、ひとたび忘却の波に呑まれれば、全ては水彩画のように滲み、透明になり、やがては地図の上からも消え去って、虚ろな『無の領域』へと変わるのだ。

識には、その忘却の過程を嗅ぎ分ける稀有な才があった。彼は、ある場所や物に触れることで、そこに刻まれた歴史の正規の香りの他に、起こり得たかもしれない別の結末――『可能性の香り』を嗅ぎ取ることができた。それは歴史の残り香、あるいは叶わなかった夢の残響だった。

ある霧深い朝、院長室に呼ばれた識の前に、一つの木箱が置かれた。中には、乳白色の石でできた小さな竪琴。急速に透明化が進んでいるという、『アウレリア文明』の遺物だった。

「アウレリアの黄金時代が、消えかけている」

院長は重々しく言った。

「文献によれば、比類なき芸術と平和を謳歌した理想郷だ。それが、ここ数十年で急速に忘れ去られている。このままでは、ひと月も保つまい。君の鼻で、その歴史の真価を嗅ぎ分け、記録に残してほしい」

識は黙って頷き、白い手袋をはめた指で、そっと竪琴に触れた。目を閉じ、意識を集中させる。

鼻腔に流れ込んできたのは、驚くほど甘美な香りだった。蜜のように香り高い花々、暖かな陽光を浴びた果実、そして人々の穏やかな笑い声が目に浮かぶような、幸福に満ちた芳香。これが、アウレリアの黄金時代が辿った歴史の香りなのだろう。

だが、その香りの奥底に、識は違和感を覚えた。あまりにも完璧すぎるのだ。苦味も、酸味も、影も一切ない。まるで作り物のように、ただ甘いだけの香り。

そして、その甘い香りの層を突き破るように、微かに、しかし確かに存在する別の香りが彼の意識を刺した。

それは、本来この竪琴から香るはずのない、『矛盾した可能性の香り』。錆びた鉄と、乾いた血、そして燃え尽きた灰の、焦げ付くような香りだった。

第二章 蜜と陽光の偽史

記録院の最奥、時の流れから隔離された静謐な一室に、『忘却の砂時計』が安置されている。一つ一つの砂時計が、一つの文明、一つの歴史に対応していた。砂が流れ落ちる速度は、人々の記憶からその歴史が薄れる速さを示している。

識がアウレリアの砂時計に近づくと、その異常さは一目瞭然だった。琥珀色の砂が、まるで滝のように激しく流れ落ちている。このままでは、院長の言う通り、ひと月も経たずに全てが消え去るだろう。

識は砂時計のガラスに手を触れ、再び目を閉じた。竪琴から感じた、あの矛盾した香りの源を探るために。

甘い香りが、洪水のように彼を包み込む。

陽光の下で踊る人々。豊かに実った麦畑。芸術家たちが奏でる美しい旋律。誰もが微笑み、争いもなく、世界は永遠の昼下がりのような安寧に満ちていた。

だが、その幸福な光景の裏側で、焦げ付いた鉄の香りが執拗に鼻を突く。識は眉をひそめ、さらに深く、香りの源流へと意識を沈ませていった。

すると、甘い香りの層に微細な亀裂が見えた。その亀裂の向こう側に、全く異なる光景が、陽炎のように揺らめいている。それは、アウレリアの歴史が辿ったかもしれない、もう一つの可能性。

炎に包まれた街。天を突く怒号。そして、血に濡れた竪琴を握りしめ、絶望の歌を叫ぶ人々の姿。

その光景は一瞬で甘い香りに覆い隠され、かき消された。

「これは……改竄だ」

識は思わず呟いていた。

アウレリアの黄金時代は、偽りの歴史なのだ。誰かが意図的に、本来あったはずの悲劇的な歴史を覆い隠し、甘美で安定した虚構の物語を上書きしている。しかし、何のために? そして、なぜ今になって、その偽りの歴史が急速に消えようとしているのか。

謎は深まるばかりだった。

第三章 零れ落ちる真実の結晶

偽りの歴史の正体を突き止めるため、識は『無の領域』と化しつつあるアウレリアの地へと旅立った。かつて壮麗な都があった場所は、今や輪郭の曖昧な灰色の霧に覆われ、建造物のいくつかは半ば透き通り、向こう側の景色を歪んで映していた。

空気は、あの遺物の竪琴と同じ、蜜と陽光の香りで満ちている。だが、ここではその香りがより濃厚で、甘ったるすぎて、むしろ息苦しいほどだった。

識は、かろうじて形を保っている中央神殿の遺跡へと足を踏み入れた。壁には、平和な祝祭を描いた壁画が残っている。しかし、目を凝らすと、その絵の具の層の下に、別の絵が影のように浮かび上がっていた。それは、武器を手に取り、同胞と睨み合う人々の姿だった。

その時、足元で何かがキラリと光った。

見れば、透明な床石の隙間に、小さな結晶が挟まっている。それは、アウレリアの『忘却の砂時計』の中に、ごく稀に混じって流れ落ちる『真実の記憶の結晶』だった。通常の砂よりも遥かに早く忘却の底に沈んでしまう、真実の歴史の凝縮体だ。

識は慎重にそれを拾い上げた。結晶は彼の指先で、まるで生きているかのように微かに震えている。彼はそれを、そっと懐から取り出した革袋に収めた。

記録院に戻った識は、再び砂時計の前に立った。流れ落ちる琥珀色の砂の中に、時折、あの結晶が星屑のように煌めいては、あっという間に底へと消えていく。偽りの歴史が消えゆく速度が速すぎるために、覆い隠されていた真実の断片が、こうして時折、表面に噴出しているのだ。

彼は決意を固め、遺跡で見つけた結晶を指先で強く握りしめた。

パリン、と微かな音を立てて結晶が砕けた。

次の瞬間、識の世界は匂いの奔流に呑み込まれた。

第四章 集合的忘却の頌歌

それは、地獄だった。

蜜と陽光の甘い香りは跡形もなく吹き飛び、代わりに彼の五感を蹂躙したのは、絶望そのものを凝縮したかのような香りだった。

飢餓がもたらす腐臭。終わらない内乱の血と硝煙の匂い。そして、同胞の肉を喰らうことで生き延びた者たちが放つ、狂気の酸っぱい香り。

アウレリアの黄金時代など、どこにも存在しなかった。彼らの歴史は、あまりにも残酷で、救いようのない悲劇の連続だったのだ。その絶望の果てに、彼らは自らの文明、いや、世界そのものを終わらせるための最終兵器を作り上げてしまった。

そして、識は見た。その兵器が起動される直前、世界が震え、人々が空を見上げる光景を。

それは、特定の誰かの意志ではなかった。

あまりにも辛い歴史から目を逸らしたい。この苦しみを忘れたい。そんな、生きとし生けるもの全ての、声なき叫び。それは巨大なうねりとなり、『人類の集合意識』とでも呼ぶべき大いなる力が、アウレリアの歴史に干渉したのだ。

集合意識は、彼らの残酷な歴史を『忘れ去る』ことを選んだ。そして、その空虚を埋めるために、誰も傷つかず、誰もが幸福な『蜜と陽光の偽史』を編み上げた。それは、自らの存続を脅かすほどの絶望から人類を守るための、究極の自己防衛本能だった。

偽りの歴史が今、急速に消えている理由も理解できた。甘美な虚構は、所詮、真実の土台がない砂上の楼閣だ。時の流れとともに綻びが生じ、人々がその物語に微かな違和感を覚え始めたことで、忘却が加速していたのだ。

識は、激しい眩暈とともに現実へと引き戻された。全身から汗が噴き出し、呼吸が浅くなる。

歴史を改竄していたのは、特定の悪意ある誰かではない。

それは、過去の過ちを繰り返さないために、自ら記憶を『忘れ去る』ことで進化してきた、我々人類そのものだったのだ。

第五章 沈黙の歴史家

識は、自らが編纂すべき記録を記すための、白紙の羊皮紙の前に座っていた。

傍らには、アウレリアの『忘却の砂時計』。その砂は、もう残り僅かだった。

彼のペン先には、二つの歴史が宿っている。

一つは、あまりにも残酷で、人類の存続すら脅かしかねない『鉄と血の真実』。これを記録すれば、人々は再び絶望の淵に立たされるだろう。集合意識はさらに強く忘却を望み、その反動で世界の『無の領域』は急速に拡大し、破滅を招くかもしれない。

もう一つは、人々が自ら選び取った『蜜と陽光の嘘』。この甘美な虚構を記録すれば、アウレリアの歴史は、偽りのまま、しかし美しい物語として世界に定着するだろう。人類は残酷な真実から守られるが、それは同時に、真の過ちから学ぶ機会を永久に失い、虚構の上で脆弱な平和を享受し続けることを意味する。

ペンを持つ手が、重かった。

彼は、人類が選んだ『美しい嘘』を守るべきか。

それとも、全てを破壊するかもしれない『残酷な真実』を白日の下に晒すべきか。

長い、長い沈黙が流れた。

砂時計の最後の砂が、サラサラと音を立てて落ちていく。

やがて識は、ゆっくりとペンを置いた。

彼はどちらも記さなかった。

彼は立ち上がり、残り僅かとなった砂が静かに落ち続ける砂時計を、ただじっと見つめた。

真実も嘘も、羊皮紙の上には残さない。その代わりに、彼はこの矛盾した二つの歴史を、その甘さと焦げ付くような苦さの両方を、たった一人で記憶し続けることを選んだ。彼がこの香りを忘れさえしなければ、アウレリアの歴史は、たとえ世界から忘れ去られても、完全には消滅しない。

それは英雄的な決断ではない。世界を救う奇跡でもない。

ただ、一人の人間が、人類の忘却に抗い、その罪と夢の両方を引き受けるという、孤独で、果てしない責務の始まりだった。

窓の外では、また一つ、遠くの街の輪郭が霧の中に溶けていく。新たな忘却の始まりを告げるように。

識は、静かに目を閉じ、胸いっぱいに、甘く、そして焦げ付いた香りを吸い込んだ。

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