第一章 揺らぐ墨痕
柏木奏(かしわぎ かなで)の世界は、常に微かに揺らいでいた。それは地震のような物理的な揺れではない。彼女の目にだけ映る、歴史の揺らぎだ。古文書の墨痕が水中の藻のように蠢き、古い石畳の模様が陽炎のように歪む。人々が特定の過去を忘れかけたり、あるいは誤った解釈が広まったりすると、その対象に宿る「時」が不安定になり、奏の目にはノイズとして映るのだ。
祖父もまた、同じものが見える人だった。高名な古文書修復師だった祖父は、その能力を「歴史からのSOSだ」と奏に教えた。「我々の仕事は、ただ紙を繕うのではない。忘れ去られ、歪められようとする歴史の悲鳴を聴き、その声を本来の形に正してやることだ」。その言葉は、奏にとっての絶対的な信条となっていた。
だから、山深い里にある観月寺(かんげつじ)から、これまで未発見だったという経典の修復依頼が舞い込んだ時、彼女は武者震いした。寺の奥深く、桐の箱に幾重にも守られていたそれは、千年の時を経たとは思えぬほど保存状態が良かった。だが、奏が白手袋に包まれた指先でそっとそれに触れた瞬間、経験したことのない激しい眩暈に襲われた。
目の前の経典が、ぐにゃりと液状化する。書かれているはずの文字は黒い渦となり、紙の繊維一本一本が叫び声をあげて分裂していくような、凄まじい「揺らぎ」だった。紙の向こうに、一瞬だけ、松明の灯りに照らされた人々の切迫した顔と、深い森の風景が見えた気がした。
「これは……」
奏は息を呑んだ。これは単なる風化や忘却による揺らぎではない。何者かが、あるいは歴史そのものが、この存在を世界から完全に消し去ろうとしている。そんな冒涜的な意志さえ感じられた。
傍らに立つ老住職が、静かに言った。
「お分かりになりますか。この経典は、生きておるようで、同時に死にかけておるのです」
奏は固くこぶしを握った。祖父の言葉が蘇る。これは歴史からのSOSだ。そして、これほどまでに強烈な叫びを、彼女はこれまで聞いたことがなかった。この経典に記された歴史を救う。それが、この力を持つ自分に与えられた使命なのだと、奏は強く確信した。
第二章 影の民の囁き
修復作業は困難を極めた。経典に触れるたび、奏は激しい揺らぎの奔流に精神を削られた。特殊な薬品で紙の劣化を止め、欠損部分には寸分違わぬ質感の和紙を充てる。その作業の合間に、彼女はこの経典が伝える「歴史」の正体を探った。
解読できたわずかな文字列から浮かび上がってきたのは、「影の民(かげのたみ)」という不可解な言葉だった。彼らは独自の言語と自然観を持ち、山の精霊と対話する術を持っていたらしい。しかし、国の中央史はもちろん、この地方のどの郷土史を紐解いても、「影の民」に関する記述は一切見つからなかった。まるで、初めから存在しなかったかのように。
「彼らは、歴史から意図的に抹消されたのかもしれません」
作業場で、奏は傍らで茶をすする老住職に語った。
「時の権力者にとって、都合の悪い存在だったのでしょう。だから記録を焼き、人々の記憶からも消し去ろうとした。この経典だけが、唯一の証拠なのです」
老住職は、湯呑みを見つめたまま静かに答えた。
「歴史とは、勝者が紡ぐ物語。光が強ければ、その分、濃い影が生まれるのは世の理ですな」
「だからこそ、私がこの影に光を当てなければ。彼らが生きた証を、未来に繋がなくてはなりません」
奏の言葉には、使命感に燃える若者特有の熱がこもっていた。
住職はふっと顔を上げ、奏の目を真っ直ぐに見つめた。その皺深い瞳の奥には、穏やかさとは違う、何かを測るような色が浮かんでいた。
「柏木さん。もし……もし、失われることが救いである歴史というものが、あるとしたら?」
「……どういう意味ですか?」
「忘れ去られることで、ようやく安らぎを得る魂もある。全ての記憶が、暴かれることを望んでいるとは限りませぬぞ」
その言葉は、ひやりとした小石のように奏の胸に落ちた。だが、彼女はすぐにそれを振り払った。感傷だ。真実から目を背けるための言い訳に過ぎない。祖父は言っていた。歴史の真正性こそが、我々の守るべき唯一の正義なのだと。奏は再び経典に向き直り、揺らぎと格闘しながら、消えかかった文字の輪郭を懸命に甦らせていった。
第三章 反転する真実
修復作業が終盤に差し掛かった、月が雲に隠れた夜だった。最後の一節を修復するため、奏が集中力を極限まで高めて経典に触れた、その瞬間。世界が反転した。
もはや揺らぎや幻視という生易しいものではない。彼女の意識は完全に肉体から引き剥がされ、千年前の深い森の闇へと投げ込まれていた。肌を撫でるのは湿った夜気。耳に届くのは、風にそよぐ木々の葉音と、厳かな祈りの声。目の前では松明が円を描くように焚かれ、その中心で、「影の民」と呼ばれた人々が静かにひざまずいていた。
彼らの顔に、迫害された者の悲壮感はなかった。むしろ、何か大きな使命を成し遂げようとする、誇りと決意に満ちていた。一人の長老らしき男が、天を仰いで唱える。
『我らが知識は、争いの火種。我らが力は、未来の災禍。ならば我らは自ら、時の流れから身を引こう』
奏は、透明な傍観者としてすべてを見ていた。彼らは、未来を視る力を持っていたのだ。そして、自分たちの存在が、いずれ大きな戦乱を引き起こし、多くの血が流れる未来を視てしまった。彼らの持つ特異な自然観や力は、やがて来る新しい時代の中央集権的な思想とは決して相容れず、必ずや激しい対立と弾圧を生む。その結果、彼ら自身だけでなく、彼らに関わった多くの人々が不幸になることを。
『我らの名を忘れよ。我らの言葉を忘れよ。我らの生きた証、そのすべてを、忘却の揺らぎへと還すがいい。それこそが、我らが未来へ捧ぐ、最大の慈悲なり』
祈りが最高潮に達した時、彼らは自らが書き上げた経典――奏が今、修復しているそれ――を囲み、最後の大掛かりな術を執り行った。それは、自らの存在を歴史の因果から切り離し、人々の記憶から緩やかに、そして完全に消え去るための儀式だった。彼らは抹消されたのではない。自らの意志で、「忘れられること」を選んだのだ。
奏が「歴史のSOS」だと信じていたあの激しい揺らぎは、彼らが望んだ「忘却」が正しく進行している証だったのだ。そして、彼女が良かれと思ってやっていた修復作業は、彼らの崇高な犠牲を踏みにじり、平和のために封印したはずの危険な知識を、現代に甦らせる行為に他ならなかった。
祖父の教えが、正義だと信じてきたすべてが、足元から崩れ落ちていく。真実を記録することだけが、本当に正しいことなのか。歴史の真正性とは、一体何だったのか。
意識が現実に戻った時、奏の頬を涙が伝っていた。目の前には、修復がほぼ完了し、力強い墨痕を取り戻した経典がある。それは、影の民の願いに完全に逆行した、呪いにも等しい完成品だった。
第四章 白紙の弔い
奏は数日間、工房に閉じこもった。食事も喉を通らず、ただ一点、経典を見つめていた。自分がしでかしたことの重さに、押し潰されそうだった。彼女が救おうとした歴史は、救われることを望んでいなかった。彼女が光を当てようとした影は、影であることを自ら選んでいた。
老住職が、一度だけ静かに訪ねてきた。
「あなたの祖父上は、偉大な修復師でした。しかし、あまりに光が強すぎたのかもしれませぬな。光は時に、影の安らぎを焼き尽くす」
彼はすべてを知っていたのだ。奏の能力も、この経典に秘められた真実も。そして、彼女がどちらの道を選ぶのか、ただ静かに見守っていた。
苦悩の果てに、奏は一つの決断を下した。彼女は再び修復道具を手に取った。しかし、その目的は以前とは全く違っていた。
彼女は、自分の能力を、今度は逆のために使った。歴史を「固定」するのではなく、「解放」するために。揺らぎの奔流に意識を同調させ、墨痕をなぞるのではない。そのインクに宿る影の民の「願い」を読み取り、彼らの儀式を完成させるための、最後の一押しをするかのように、指先を動かした。それは修復ではなく、弔いだった。忘れ去られたいと願った魂たちを、安らかな忘却の彼方へと送り届けるための、鎮魂の儀式だった。
夜が明け、朝の光が工房に差し込んだ時、作業は終わっていた。
経典は、そこにあった。だが、奏が心血を注いで甦らせたはずの文字は、跡形もなく消え去っていた。そこにあるのは、千年の時を経た、美しい白紙の巻物だけ。あれほど激しかった歴史の揺らぎは完全に消え、まるで生まれたての赤子のような、静謐な沈黙だけがそこにあった。
影の民の歴史は、ついに完全に解放されたのだ。
仕事を終えた奏が観月寺の山門をくぐった時、ふと気づいた。いつも世界を覆っていた微かな揺らぎが、どこにも見えない。苔むした石段も、古びた門柱も、ただそこにあるがままの姿で、静かに佇んでいる。能力を失ったのか、それとも世界が彼女の選択を受け入れたのか、それは分からなかった。
確かなことは、彼女の心に、新しい価値観が静かに根付いたことだ。歴史とは、ただ記録され、記憶されるものだけではない。時には、優しさとして忘れられ、沈黙として弔われるべきものもあるのだと。
奏の足取りは、来た時よりもずっと軽やかだった。彼女はもう、歴史の悲鳴に耳を澄ますことはないだろう。代わりに、その沈黙に宿る声なき願いを、生涯、心で聴き続けるのだ。