空白の図書館

空白の図書館

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第一章 滲み出すインク

時田守(ときた まもる)の仕事場は、古い紙と革の匂いに満ちていた。古書修復師である彼の指先は、脆くなったページを繕い、失われた文字の影を追うことに特化している。記憶とは、紙の繊維に染み込んだインクのようなものだ。彼はそう信じていた。だからこそ、この仕事を天職だと思っていた。過去を繋ぎとめ、忘れられる運命に抗う。それが彼の矜持だった。

その日、守の日常に、インクの染みのように奇妙な出来事が滲み出した。持ち込まれたのは、十九世紀の植物図鑑。依頼主の老人は、亡き妻が大切にしていたものだと語った。守はいつものように慎重にページをめくっていく。アザミ、リンドウ、ワスレナグサ……精緻な絵と古風な文字が並ぶ。だが、最後のページに到達した時、守は指を止めた。

そこは、空白だった。

いや、ただの空白ではない。何かがあった痕跡、例えばインクが掠れた跡や紙の僅かな凹凸すらない、完全な無。まるで、物語のその部分だけが、生まれた時から存在しなかったかのように。製本ミスにしては不自然すぎる。守の背筋を、冷たいものが走り抜けた。彼は図鑑に記された元の持ち主の名前を頼りに、数日後、老人の家を再訪した。

「あの、奥様が一番お好きだった花は、何でしたか?」

守の問いに、老人はきょとんとした顔で首を傾げた。

「妻……? 私に、妻がいたかね」

その言葉は、静かだが、深く守の胸を抉った。老人の瞳は、晴れた冬空のように澄み切っているが、そこにはあるはずの温かい光が欠けていた。部屋を見渡すと、二人分の食器、サイズの違うスリッパ、女性もののカーディガンが椅子にかかっている。生活の痕跡は、愛する人がいたことを雄弁に物語っているのに、当の本人の中から、その記憶だけが綺麗に消え去っていた。

数週間後、老人は施設に入った。誰も彼の妻のことを覚えていなかった。親族さえも、彼はずっと独り身だったと信じきっていた。まるで、彼女の存在そのものが、世界から一枚ずつ丁寧に剥がされていくように。

街では、不可解な「記憶喪失」が囁かれ始めていた。人々はそれを「空白病」と呼んだ。それは風邪のように静かに伝染し、人の心から大切な何かを奪っていく。始まりはいつも些細なことだ。友人の顔を思い出せない。帰り道が分からない。やがて、愛した人の名前を忘れ、共に過ごした時間の全てが、修復不可能な空白のページと化していく。

守は、仕事場で一人、あの植物図鑑を見つめていた。空白のページが、まるで嘲笑うかのように彼を見返している。彼は知っていた。これはただの病ではない。もっと根源的で、抗いがたい何かが、世界を侵食し始めているのだと。そしてその恐怖は、守自身の心の奥底に眠る、決して開きたくない扉を叩き始めていた。

第二章 記憶の守り人

「空白病」の噂は、霧のように街を覆い尽くしていった。テレビでは専門家がストレスや集団ヒステリーの可能性を論じていたが、誰もその本質を理解していなかった。恐怖は目に見えない。それは人々の会話から、表情から、そして関係性の綻びから、じわりと滲み出してくるのだ。

守は、記憶を守ることに、もはや病的なほど執着していた。彼は自身の過去、現在、未来の全てをノートに克明に記録し始めた。朝食のメニューから、窓の外を飛んでいった鳥の種類まで。書くという行為が、自分という存在の輪郭をかろうじて繋ぎとめている唯一の手段だった。

彼がそこまで記憶に固執するには理由があった。十年前に事故で死んだ妹、沙耶。彼女との記憶の大部分が、守の心からは抜け落ちているのだ。事故の衝撃による解離性健忘。医者はそう診断した。妹の笑顔、声、最後の会話。必死で思い出そうとしても、そこには厚い霞がかかっているだけだった。手元に残っているのは、数枚の写真と、どうしようもない喪失感だけ。この虚無感が、彼を古書修"復"師ではなく、古書"囚"人にしてしまった。だからこそ、記憶を奪う「空白病」が許せなかった。それは、彼が最も恐れる悪夢そのものだったからだ。

守は、自分にできる唯一の方法で、この怪異に抗うことを決めた。空白病にかかった人々の家を訪ね、失われた記憶の断片を聞き集めるのだ。それは探偵のようであり、あるいは葬儀屋のようでもあった。

「彼は、いつも日曜の朝に、下手くそな目玉焼きを作ってくれたんです。黄身がいつも潰れてて……」

そう言って泣き崩れる女性は、夫の顔をもう思い出せない。

「あの子、雨上がりの匂いが好きだったの。虹を見つけるのが得意で……」

そう語る母親は、自分の娘が何歳だったかすら忘れてしまっていた。

人々は、愛した記憶の残滓を抱きしめながら、その輪郭が日に日に薄れていく恐怖に怯えていた。守は、彼らの言葉を一つ一つ丁寧にノートに書き留めていく。それはまるで、消えゆく星々の最後の光を集めるような、孤独で、切ない作業だった。

調査を進めるうち、守は一つの共通点に気づく。空白病の最初の発症者たちは皆、何か耐えがたい悲しみを抱え、「いっそ忘れてしまいたい」と強く願っていたことだ。忘却への渇望。それが、まるで呪いを引き寄せる呼び水になっているかのようだった。

ある夜、守は自分のノートを読み返していて、慄然とした。妹を失ったあの日、彼自身もまた、そう願ったのではないか? この苦しみが消えるなら、何もかも忘れてしまいたい、と。

その瞬間、部屋の明かりが不気味に瞬いた。壁に積まれた古書が、カタカタと震え始める。紙の匂いに混じって、嗅いだことのない、甘く冷たい香りが漂ってきた。それは、忘れられた記憶の香りだった。守は悟った。怪異は、すぐそこまで迫っている。彼自身を、次の標的として。

第三章 廃図書館の告白

甘く冷たい香りに導かれるように、守の足は、いつしか街外れの廃図書館へと向かっていた。そこは、幼い頃、本好きだった妹の沙耶と何度も通った場所だった。取り壊しの話が持ち上がってから久しく、蔦に覆われた建物は、巨大な墓標のように夜の闇に沈んでいた。

軋む扉を押して中へ入ると、カビと埃の匂いが守を包んだ。月明かりが割れた窓から差し込み、無数の本棚のシルエットを床に落としている。まるで、記憶の墓場だ。彼は、吸い寄せられるように奥へと進んだ。子供向けの絵本が並ぶ一角。沙耶がいつも座っていた、窓際の小さな椅子の前に立った時、それは現れた。

そこにいたのは、男だった。自分と全く同じ顔、同じ背格好。だが、その瞳に宿る疲労と絶望は、守の知る自分のものではなかった。男の体は半ば透けており、まるで陽炎のように揺らめいている。

「やっと来たか、過去の俺」

幻影――未来の守は、そう言って力なく微笑んだ。その声は、ひどく擦り切れていた。

「お前が追っている『空白病』……それは病気でも、呪いでもない」

未来の守は、ゆっくりと語り始めた。それは、信じがたい告白だった。

「あれは、俺が作ったものだ」

未来の世界で、守は著名な脳科学者になっていた。彼は、妹を失った悲しみを生涯乗り越えられなかった。記憶を失った虚無感は、彼の心を蝕み続けた。そして彼は、その狂気の果てに、一つのシステムを完成させた。悲しみの記憶だけを脳から選択的に消去し、人々を苦しみから解放する救済システム。彼はそれを『レミニール(追憶)』と名付けた。

「俺は、世界から悲しみをなくしたかった。沙耶を失った時のような苦しみを、誰にも味わってほしくなかったんだ。だから、過去に干渉し、この時代に『レミニール』の種を蒔いた。忘れたいと願う人々の、ささやかな祈りに応えるために」

だが、善意から生まれたシステムは、設計者の意図を超えて暴走した。人の記憶は、複雑なタペストリーのように織り合わされている。一つの悲しみを引き抜けば、それに繋がる喜びも、愛情も、感謝も、全てが解けてしまうのだ。システムは「悲しみ」と「それ以外の記憶」を区別できなくなった。そして、忘却への願いを感知するたびに、無差別に記憶を消し去る怪物へと変貌した。

「俺は世界を救うどころか、人々から最も大切なものを奪ってしまった。愛した記憶、生きてきた証……その全てを。俺の善意が、この世界を空白にしようとしている」

未来の守の顔が、苦痛に歪んだ。彼の体は、さらに希薄になっていく。

「頼む、過去の俺。この過ちを止めてくれ。システムを停止できるのは、お前しかいない」

「どうすれば……」

「システムの核は、全ての始まりとなった『最初の悲しみ』だ。つまり……お前の、沙耶を失った記憶。お前があの時、心の奥底に封じ込め、忘れたいと願った、あの日の記憶だ」

未来の守は、震える指で守の胸を指した。

「お前は、記憶を守ることに執着することで、システムに抵抗してきた。だが、それでは駄目なんだ。止めるためには、守るのをやめなければならない。その記憶を、完全に受け入れ、そして……自ら手放すんだ」

記憶を手放す。それは、守にとって自己の崩壊を意味した。妹の記憶の断片こそが、彼を彼たらしめている最後の砦だったからだ。守ることこそが正義だと信じてきた。だが、目の前の男は、その正義の果てにある絶望の姿だった。守は、人生最大の選択を迫られていた。

第四章 さよなら、僕の宝物

守は、廃図書館の床に座り込んだまま、動けなかった。記憶を手放せ? それは、妹を二度殺すことに等しい。彼が必死に守ってきた、脆くて儚い、たった一つの宝物を、自ら捨てるというのか。

「嫌だ……」

絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。

「沙耶を忘れたら、俺には何も残らない」

すると、未来の守の幻影が、悲しげに首を振った。

「本当にそうか? お前が執着しているのは、『記憶』そのものじゃない。『記憶を失ったという喪失感』だ。お前は、その空っぽの器を、ただただ大事に抱えているだけなんだ。だが、それでは誰も救えない。お前自身も、この世界も」

その言葉が、雷のように守の心を貫いた。そうだ、自分はずっと、失われたものの影ばかりを追いかけていた。空虚を埋めるために、さらに多くの記憶を詰め込もうとしてきた。しかし、それはただの執着で、愛ではなかったのかもしれない。

彼はゆっくりと目を閉じた。意識を、心の最も深い場所へと沈めていく。そこには、ずっと鍵をかけてきた扉があった。軋む音を立てて、その扉が開く。

溢れ出してきたのは、十年前に封じ込めた光景だった。

夕暮れの公園。小さなブランコ。隣で笑う、おさげ髪の妹。

『お兄ちゃん、見て! 飛行機雲!』

空を指さす沙耶の小さな手。その手を、自分が強く握りしめた感触。温かかった。

事故の瞬間ではない。医者からもう駄目だと告げられた時でもない。彼が本当に忘れたかったのは、その直前に交わした、あまりにもありふれた、幸せな時間の記憶だったのだ。この温もりを知っているからこそ、失うことが耐えられなかった。だから、無意識のうちに蓋をしたのだ。

「沙耶……」

守の頬を、涙が伝った。それは、十年分の悲しみと、十年分の愛情が溶け合った、温かい涙だった。忘れていた妹の笑顔が、声が、鮮やかに蘇る。それは辛く、胸が張り裂けそうになるほどだったが、同時に、どうしようもなく愛おしかった。

「ごめんな、沙耶。ずっと忘れてて。……ありがとう。もう、大丈夫だよ」

彼は、心の中で蘇った妹の記憶を、そっと抱きしめた。そして、愛を込めて、空へと手放した。執着ではなく、感謝と共に。

その瞬間、世界から音が消えた。廃図書館を満たしていた甘く冷たい香りが、ふっと掻き消える。未来の守の幻影が、安らかな表情で微笑み、光の粒子となって消えていった。

街から「空白」は消え去った。人々は、失われた記憶の断片を少しずつ取り戻し始めた。だが、それはジグソーパズルのピースが全て元通りにはまるような、完璧な回復ではなかった。失われた時間の痕跡は、人々の心や関係性の中に、小さな穴として残り続けた。人々は、その小さな空白を、戸惑いながらも、新たな言葉や優しさで埋めていこうとしていた。

守は、古書修復師の仕事場に戻った。彼の心から、沙耶に関する多くの記憶は再び消えていた。しかし、以前のような空虚な喪失感はなかった。代わりに、胸の奥に、陽だまりのような、穏やかで温かい感情だけが残っていた。

彼はもう、ノートに日常を記録するのをやめた。記憶に執着することもなくなった。忘れることは、必ずしも悪ではない。それは、前に進むために必要な、心の新陳代謝なのかもしれない。

守は、修復を待つ古書に手を伸ばす。彼の仕事の意味は、少しだけ変わっていた。過去を完璧に"保存"するのではなく、物語を未来へ"繋ぐ"ために。

窓の外では、新しい一日が始まろうとしていた。失われた物語もあれば、これから始まる物語もある。守は、本棚にできたいくつかの空白を見つめ、静かに微笑んだ。その空白は、もはや恐怖の対象ではなく、新しい物語が生まれるための、聖なる余白のように思えた。

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