第一章 記憶の消しゴム
路地裏の古書店「アオイ文庫」の店主、水野 蒼(みずの あお)には秘密があった。彼は、触れた相手の特定の記憶を、その脳から綺麗に消し去ることができる。それは呪いにも似た能力だった。代償として、消した記憶は行き場を失い、蒼自身の内に流れ込み、澱のように沈殿していくのだ。だから蒼は、人との深い関わりを極力避け、古書の静寂の中に身を潜めて生きていた。
その日、店のドアベルが寂しげな音を立てた。現れたのは、憔悴しきった若い女性だった。雨に濡れたコートを着た彼女、高森 沙耶(たかもり さや)は、まるで何かに追われるように蒼を見つめ、震える声で言った。
「あなたが…記憶を、消せる人だと聞きました」
蒼は黙って頷いた。その噂がどこから漏れたのかは知らない。だが、時折こうして藁にもすがる思いで訪れる者がいる。
「どんな記憶です」
「火事です。私が七歳の頃の…家の火事の記憶を、どうか消してください。毎晩、夢に見るんです。煙の匂い、肌を焼く熱、そして…悲鳴を」
沙耶の瞳は、過去の恐怖に固く閉ざされていた。彼女の頬を伝うのは雨粒か、涙か。その切実な願いに、蒼の心は揺れた。他人の記憶に触れることは、自分の魂を削る行為だ。これまでも、痴漢の恐怖、失恋の痛み、小さな失敗の記憶などを消してきたが、そのたびに蒼の中には他人の苦しみが蓄積されていった。だが、目の前の彼女の絶望は、これまでとは比較にならないほど深く、暗い。
「…わかりました。ですが、一度消した記憶は二度と戻りません。本当に、よろしいのですね?」
沙耶は力なく、しかしはっきりと頷いた。
蒼はカウンターから出て、彼女の前に立った。そして、静かに彼女のこめかみに指を添える。ひんやりとした彼女の肌から、凄まじい熱量を持つ記憶が流れ込んでくるのが分かった。
「目を閉じて。大丈夫、すぐに終わります」
蒼が意識を集中させると、彼の脳裏に鮮烈なイメージが焼き付いた。燃え盛る炎。黒煙が渦を巻き、梁が焼け落ちる轟音。そして、幼い少女の甲高い悲鳴。それは、蒼自身が体験したかのような、圧倒的な臨場感だった。彼はその記憶の塊を、力ずくで彼女の精神から引き剥がし、自分の内側へと呑み込んだ。
数秒後、蒼が指を離すと、沙耶は大きく息を吐いた。彼女の顔からは、長年憑いていたであろう苦悶の影が薄れ、どこか幼いほどの無垢な表情が浮かんでいた。
「…思い出せません。何も。煙の匂いも、熱さも…」
彼女の瞳に、かすかな光が戻っていた。
「ありがとうございました」
深々と頭を下げ、彼女は店を出ていった。後に残されたのは、湿った空気と、蒼の中に新しく根を下ろした、焦げ臭い絶望の記憶だけだった。
第二章 借り物の悪夢
沙耶が去ってから、蒼の日常は静かに、しかし確実に侵食され始めた。最初は些細なことだった。古書のページをめくっていると、ふいに鼻をつく焦げた匂い。眠りにつこうとすると、耳の奥で微かに響く誰かの悲鳴。それは沙耶から吸い取った「火事の記憶」の残滓だった。
これまでも、消した記憶の断片がフラッシュバックすることはあった。だが、今回のそれは質が違った。まるで蒼自身の過去であるかのように、五感に直接訴えかけてくるのだ。
ある夜、蒼はうなされて目を覚ました。全身が汗でぐっしょりと濡れている。夢を見ていた。自分が炎に包まれた家に閉じ込められ、焼けつく熱さと息苦しさにもがいていた。それは沙耶の記憶のはずなのに、恐怖も苦痛も、すべてが自分のものとして感じられた。心臓が激しく鼓動し、呼吸が浅くなる。蒼はキッチンへ向かい、震える手で水を飲んだが、喉の渇きは癒えなかった。
彼の内には、これまで消してきた無数の記憶が沈殿している。恋人に裏切られた男の嫉妬。試験に落ちた学生の絶望。我が子を亡くした母親の、声にならない慟哭。それらは普段、意識の深い海の底で静かに眠っている。だが、沙耶の強烈な記憶が引き金となり、底に溜まった澱をかき混ぜてしまったようだった。
店にいても、集中力が続かない。本のインクの匂いに、血の鉄錆のような臭いが混じる。客の穏やかな話し声が、不意に罵声に聞こえる。現実と、借り物の記憶との境界が曖昧になっていく感覚。蒼は鏡に映る自分の顔を見た。目の下の隈は濃くなり、頬はこけている。そこにいるのは、他人の不幸を一身に吸い込んだ、疲弊した男の姿だった。
「もう、限界なのかもしれない…」
この能力は、蒼の許容量を超えてしまったのではないか。器から溢れ出した他人の苦しみが、彼自身の精神を溶かし始めている。恐怖がじわじわと彼の輪郭を蝕んでいく。彼は、自分が自分であるという確信を、失いかけていた。
第三章 蓋の開いた箱
蒼の衰弱が頂点に達した頃、再び店のベルが鳴った。そこに立っていたのは、高森沙耶だった。しかし、彼女の様子は以前とはまるで違っていた。安堵の代わりに、より深い、底なしの恐怖がその瞳に宿っていた。彼女は血の気の引いた顔で、何かに怯えるように周囲を見回している。
「どうしたんですか。また悪夢を?」
蒼が尋ねると、沙耶はか細い声で答えた。
「違うんです。もっと、恐ろしいことなんです」
彼女はカウンターにすがりつき、言葉を絞り出した。
「火事の記憶を消してもらったおかげで…忘れていたことを、思い出してしまったんです」
「忘れていたこと?」
「私が本当に忘れたかったのは、火事の記憶じゃありませんでした。あれは…ただの蓋だったんです」
沙耶は蒼の目をじっと見つめた。その瞳の奥には、正視できないほどの暗闇が広がっていた。
「私の家には、『それ』がいました。家族はみんな、『影』と呼んでいました。特定の形はないんです。でも、確かにそこにいて、人の気力を吸い取っていくんです。父は仕事を辞め、母は一日中寝込むようになりました。家の空気がどんどん重く、冷たくなっていく。誰も笑わなくなって…『影』は、私たちから生きる力を奪っていたんです」
蒼は息を呑んだ。それは精神的な病の話ではない。彼女は、実在する何かについて語っていた。
「七歳のあの日、私は見てしまった。『影』が、もう動かなくなった母の身体から、最後の光を吸い上げているところを。私は怖くて、とにかく逃げなきゃと思って…マッチを手に取ったんです。この家ごと燃やしてしまえば、『影』も消えるかもしれないって」
彼女の告白に、蒼は言葉を失った。沙耶は火事の被害者ではなかった。彼女は、絶望的な状況から逃れるために、自ら家を焼いたのだ。そして、その罪悪感と恐怖を封じ込めるために、無意識に「火事の記憶」だけをトラウマとして抱え込んでいたのだ。
「あなたのせいで蓋がなくなってしまった。だから、『影』がまた私を見つけたんです。今度は、もう逃げられない…」
沙耶が絶望に顔を歪めた、その瞬間だった。
店の隅の、照明が届かない暗がりが、不自然に揺らめいた。インクや古紙の匂いとは違う、冷たく、すべてを無に帰すような虚無の匂いが立ち込める。
蒼は悟った。自分が最近感じていた焦げ臭さや熱気は、単なる記憶のフラッシュバックではなかった。沙耶の記憶を吸収したことで、蒼自身が『影』の新しい標的になっていたのだ。蒼の中に蓄積された膨大な負の記憶は、『影』にとって極上の餌だった。あの借り物の悪夢は、『影』が蒼の精神に侵入しようとする予兆だったのである。
第四章 無数の灯火
「逃げてください、水野さん!」
沙耶が叫ぶ。しかし、もう遅かった。店の隅の闇が、まるで生き物のように蠢き、蒼に向かってじりじりと距離を詰めてくる。それは視覚で捉えられるものではない。魂が直接、その存在を感知していた。冷たい絶望が、蒼の足元から這い上がってくる。
蒼の中の、無数の記憶が共鳴するように疼き始めた。裏切られた男の憎悪が、我が子を亡くした母親の悲しみが、試験に落ちた学生の無力感が、『影』に呼応して膨れ上がり、蒼の意識を内側から食い破ろうとする。これまで彼が呑み込んできたすべての苦しみが、今や『影』を招き入れるための手引きとなっていた。
「ああ…」
蒼は膝から崩れ落ちた。もう駄目だ。このまま『影』に喰われる。他人の苦しみから目を背け、ただ消すことだけを考えてきた自分への罰なのだ。
だが、その絶望の淵で、蒼の脳裏にふと、ある光景が浮かんだ。それは、彼がかつて消した、些細な記憶だった。初恋の人に告白できずに終わった、高校生の甘酸っぱい後悔。その記憶には、痛みの裏側に、胸を焦がすような切ない恋心があった。大舞台で失敗したピアニストの屈辱。その記憶には、鍵盤を愛し、音楽にすべてを捧げた情熱があった。
そうだ。記憶は、苦しみだけではなかった。どんな絶望的な記憶の中にも、必ずひとかけらの光が宿っていたのだ。愛、希望、喜び、優しさ。それらは痛みの影に隠れて、ずっと蒼の内で眠っていた。
蒼は、自分の中に渦巻く膨大な記憶の奔流に、初めて意識的に向き合った。それは、他人の人生の濁流に身を投じる、狂気の沙汰だった。だが、彼はもはや逃げなかった。
(思い出せ。感じるんだ)
憎しみの裏にある、かつて確かに存在した愛を。悲しみの奥底にある、かけがえのない温もりを。絶望の手前にあった、ささやかな希望を。
一つ、また一つと、蒼は記憶の欠片から光を拾い集めていく。それは、闇夜に無数の蝋燭を灯していくような、途方もない作業だった。だが、彼の内側で、確かに小さな灯火が灯り始めた。それは次第に数を増し、やがて彼の魂そのものを照らす、温かい光の集合体となった。
目の前の『影』が、その光を嫌うようにたじろいだ。
蒼は、震える足でゆっくりと立ち上がった。彼は『影』を消し去ることも、打ち負かすこともできないだろう。だが、屈するつもりもなかった。
「お前は、俺を喰らうことはできない」
蒼の声は、もはや彼一人のものではなかった。そこには、彼が受け入れた無数の人々の声が、意志が、重なっていた。
「俺の中には、苦しみも絶望もある。だが、それだけじゃない。俺は、この光と共に生きていく」
蒼がそう宣言したとき、彼の全身から放たれた柔らかな光が、『影』の侵食を押し返した。『影』は苦しむように身をよじらせ、そしてゆっくりと、元の暗がりへと後退していった。それは消滅ではない。ただ、退いたのだ。
嵐が過ぎ去った店内には、静寂が戻っていた。沙耶が、呆然と蒼を見つめている。
「水野さん…」
「もう大丈夫」
蒼は、穏やかに微笑んだ。彼の顔からは疲労の色が消え、静かな覚悟に満ちた表情が浮かんでいた。彼はもはや、記憶を消すだけの空っぽの器ではなかった。他人の喜びも悲しみもすべて受け入れ、その重みと共に生きていく、「記憶の守り人」となっていた。
それから、蒼は古書店の店主を続けている。彼の周囲には、目には見えない無数の記憶が、星々のように寄り添っている。時折、悲しみの記憶が胸を締め付ける。だがそのたびに、別の温かい記憶が彼をそっと支えるのだ。彼は孤独ではない。彼は、無数の人生と共にここにいる。
『影』は、まだ世界のどこかに存在するだろう。そして、いつかまた現れるかもしれない。恐怖が完全に消えることはない。
だが、蒼はもう恐れない。彼は知っている。どんなに深い闇の中にも、必ず灯火は存在するのだということを。そして、その小さな光を守り続けることこそが、自らに与えられた本当の役割なのだと、静かに確信していた。