残痕の蒐集家
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残痕の蒐集家

第一章 染み付く記憶

朝の光が埃を照らす部屋で、湊(みなと)は洗面台の鏡に映る自分を見つめていた。また一つ、増えていた。左の鎖骨の下、青黒い痣がまるで打ち付けられたかのように浮き出ている。痛みはない。ただ、そこにあるという事実だけが、冷たい錨のように彼の意識を沈ませる。それは、誰かの「忘れ去られた死」の痕跡だった。

湊は無言でシャツのボタンを留め、痣を隠した。彼の体は、もはや他人の死の地図だ。右腕には水死者の死斑がまだらに広がり、左足の脛には焼死者の皮膚が引き攣れたような痕跡が刻まれている。これらは全て、この世の誰からも忘れられた者たちの、最後の叫びだった。

街に出ると、世界は無関心な喧騒で満ちていた。カフェの窓際の席に座り、冷めたコーヒーを啜る。隣のテーブルでは、若い男女が声を潜めて噂話をしていた。

「聞いた? 最近、裏路地に『煤けた影』が出るんだって」

「ああ、煙みたいな匂いがして、近づくと息が苦しくなるってやつだろ。怖いわね」

彼らの口から紡がれる「恐怖」の言葉が、耳の中で粘つく。湊は知っていた。その言葉たちが、やがて世界に具体的な「形」を与えることを。人々は語り、そして忘れる。その忘却の果てに、名もなき怪物がひっそりと産声を上げるのだ。

湊は懐から、古びた手鏡を取り出した。祖母の形見だというそれは、真夏でも掌が凍えるほど冷たく、表面は常にうっすらと湿っている。そっと覗き込むと、鏡の中の自分の姿の向こう、鎖骨の下の痣がぐにゃりと歪んだ。そこには、高所から落下し、地面に叩きつけられる瞬間の、見知らぬ男の苦悶に満ちた顔が、一瞬だけ陽炎のように映って消えた。鏡は、死の記憶を映し出す。そして、その残像は、何かを必死に訴えかけているようだった。

第二章 鏡の中の囁き

死の痕跡が増える。それに呼応するように、街の不気味な噂も増えていく。湊は、自分の体がまるで、この世界に溢れ出す「恐怖の実体」を呼び寄せるアンテナか何かであるかのような、おぞましい確信を深めていた。

彼は市立図書館の薄暗い書庫に籠もっていた。古い地方新聞のマイクロフィルムを回し、指先で黄ばんだ記事の見出しを追う。彼の体にある痕跡――溺死、焼死、転落死、凍死――それらが記録された、忘れられた過去を探し出すために。

「身元不明男性、工事現場足場より転落か」

数十年も前の小さな三面記事。湊は息を呑んだ。鎖骨の痣が、ずくりと疼くような錯覚。記事に添えられた不鮮明な現場写真。そこは、今では再開発で姿を変えた駅前の広場だった。

夜、自室のベッドに横たわり、再び手鏡を覗き込む。腕に広がる水死者の死斑が、鏡の中では水草のように揺らめいていた。その奥で、青白い顔をした若い女の残像が、ゆっくりとこちらを向き、何かを乞うように口を開閉させている。その唇は声を発しない。だが、湊にはその無音の囁きが聞こえる気がした。

『忘れないで』

その言葉が、冷たい鏡面から彼の心へと直接染み込んでくる。湊は目を閉じた。彼らが忘れられた場所、彼らが失われた瞬間。それを探し出し、思い出すことが、おそらくは唯一の手がかりなのだと、彼は直感していた。

第三章 弔いの調べ

鏡の中の女が指し示しているように見えたのは、街外れを流れる古い用水路だった。かつては氾濫を繰り返し、幾人もの犠牲者を出したと、図書館の資料には記されていた。今ではコンクリートで固められ、その面影もない。

湊は用水路の土手を、風に吹かれながら歩いた。雑草に埋もれるようにして、小さな石の慰霊碑が傾いて立っていた。苔むした表面に刻まれた名前は、ほとんど判読できない。だが、その一つに、湊は見覚えがあった。資料で見た、水難事故の犠牲者リストにあった名だ。

彼は慰霊碑の前に膝をつき、そっと手を合わせた。そして、心の中でその名を呼び、彼女の人生に想いを馳せた。家族に愛され、友人と笑い合い、ささやかな未来を夢見ていたであろう、一人の人間の生。そして、濁流に飲まれた最期の瞬間の恐怖と絶望。湊は、まるで自分の記憶であるかのように、その全てを鮮明に思い出した。それは、死を弔うというより、忘れられた存在を、世界にもう一度「在った」と認識させるための儀式だった。

その瞬間、奇跡が起きた。彼の右腕を覆っていた青黒い死斑が、陽光に溶ける雪のように、すうっと薄れ、消えていったのだ。

驚いて顔を上げると、街の方角から聞こえていた不気味な噂――「水辺に現れる濡れた女」の話が、まるで嘘だったかのように人々の口に上らなくなっていることに、彼は翌日になって気づいた。

彼は悟った。忘れられた死を思い出すこと。それが、恐怖の実体を消滅させる唯一の方法なのだと。

第四章 世界の法則

湊の日常は一変した。彼は自らを「残痕の蒐集家」であり、同時に「弔い人」と定めた。体に新たな痕跡が現れるたびに、図書館に通い、その死の来歴を突き止め、忘れられた場所を訪れては記憶を呼び覚ます。

転落死した男のために。

火事で亡くなった家族のために。

吹雪の中で力尽きた旅人のために。

彼が一人を弔うたび、一つの痕跡が消え、街から一つの怪異が消滅した。湊は、自分の忌まわしい体質に、初めて意味を見出していた。この呪われた体で、世界を浄化できるのかもしれない。仄かな希望が、彼の胸に灯った。

だが、その希望はすぐに絶望へと塗り替えられた。一つの痕跡を消すごとに、まるで世界の忘却が彼という一点に集中するかのように、二つ、三つと新たな痕跡が、より早く、より濃く現れ始めたのだ。彼の体は、もはや正常な皮膚を探すのが難しいほど、無数の死の痕跡で埋め尽くされていく。彼は、世界中の忘れられた死を一身に引き受ける、巨大な墓標そのものになりつつあった。疲労と、自分が自分でなくなっていく恐怖が、彼の精神を少しずつ蝕んでいった。

第五章 最初の沈黙

皮肉なことに、湊の孤独な戦いは、人々の「恐怖の語り」をさらに加速させた。怪異が消えるたびに、人々はそれを「何者かが退治した」と喜び、安堵し、そしてすぐに忘れて、より刺激的で、より恐ろしい新たな噂を創造し始めた。善意の行為が、結果として新たな恐怖を生むための肥沃な土壌を耕していた。湊は、出口のない螺旋階段を降り続けるような、深い無力感に襲われた。

そんなある朝、彼は胸の中心に、これまでとは全く異質な痕跡が生まれていることに気づいた。それは痣でも火傷でもない。まるで心臓があった場所が抉り取られたかのような、冷たい「空白」だった。その痕跡に触れると、指先の感覚が麻痺するような、虚無そのものとも言うべき感触があった。

湊は震える手で、例の手鏡を胸に当てた。

しかし、鏡には何も映らなかった。歪む残像も、苦悶の表情も、そこにはない。ただ、鏡の奥深く、無限に続くかのような闇の中心から、言葉にならない、世界そのものが嗚咽しているかのような、低く長い慟哭だけが響いてきた。

彼は悟ってしまった。

これが、全ての始まり。

この世界で最も古く、最も深く、そして誰もが集合的に忘れ去ることでこの世界を成り立たせた、「最初の恐怖の死」の痕跡なのだと。

第六章 残痕の宿主

その「空白」を思い出すことを、湊の魂は本能的に拒絶していた。これを思い出せば、自分はもう湊(みなと)ではいられなくなる。取り返しのつかない何かが起こる。だが、彼の体はもう限界だった。街には、人々の新たな恐怖の語りによって生まれた、より凶悪な実体たちが跋扈し始めている。

彼は覚悟を決めた。

冷たい手鏡を強く握りしめ、目を閉じる。意識を、胸の「空白」へと深く、深く沈めていく。

記憶の洪水が、彼を呑み込んだ。

――それは、まだ世界に「死」という概念すら定かでなかった、原初の時代の光景。人々は、まだ名前のない「何か」を恐れてはいたが、それを言葉にする危険を知らなかった。

そこに、一人の子供がいた。その子は、夜の闇の中に揺れる影を見て、純粋な恐怖から、それを初めて「言葉」にした。

「あれは、僕らを喰らうものだ」

その言葉が、世界で最初の呪いとなった。言葉によって形を与えられた「影」は、その子を最初の犠牲者とした。

人々は、あまりの恐怖に、言葉が現実を創るという法則に震え上がった。そして彼らは、その子の存在そのものを、名前も、顔も、その死の事実さえも、未来永劫語らないことを誓った。世界全体で、たった一つの死を、完全に忘れ去ったのだ。それが、この歪んだ世界の法則の始まりだった。

湊が、その子の忘れられた名前を思い出した瞬間――。

彼の体を覆っていた無数の死の痕跡が、一斉に光の粒子となり、胸の「空白」へと凄まじい勢いで吸い込まれていった。焼け爛れた皮膚は滑らかになり、青黒い痣は消え失せ、彼の体は生まれたままの、傷一つない姿へと戻った。

だが、彼がゆっくりと開いた瞳には、かつての苦悩の色はなかった。そこにあるのは、全てを見通すかのような、底なしに暗く、そして静かな光だけだった。

湊は立ち上がり、窓の外の街を見下ろした。

彼の唇から、かつてこの世界の誰も聞いたことのない、新たな恐怖の物語が、美しい旋律のように紡がれ始めた。

「夜の帷が下りる時、耳を澄ますといい。忘却の底から、新しい名前を囁く声が聞こえるだろう……」

彼はもはや、死を弔う湊ではなかった。

忘れられた最初の恐怖、その新たな宿主。世界に物語を語り、恐怖を実体化させる、原初の存在そのものへと変貌していた。

彼の周りで、彼が紡ぐ言葉が、濃密な影となって蠢き始め、静かに、だが確実に、世界を侵食し始めていた。


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