第一章 錆びた鉄の恐怖
俺、水島湊(みなしま みなと)の世界は、味で出来ている。
他人の感情が、舌の上で具体的な味覚として再現されるのだ。医者はこれを共感覚(シナスタジア)の一種だと診断したが、俺にとっては呪いでしかなかった。喜びは弾けるソーダ水、怒りは焦げ付いた唐辛子、悲しみは冷たい海水。街を歩けば、無数の感情の味がごちゃ混ぜになった不快なスープを無理やり飲まされるようで、自然と人との関わりを避けるようになった。
築三十年のアパートで、ひっそりと翻訳の仕事をしながら暮らす日々。それが俺の最適解だった。隣の201号室に住む桜井さんという老婦人との、挨拶程度の付き合いを除いては。彼女から漂うのは、いつも日向のような穏やかさ。味にすれば、上質な和三盆のような、角の取れた優しい甘さだった。その味が、俺のささくれた心をわずかに癒してくれていた。
異変に気づいたのは、一週間前の火曜日の夜だった。
ベランダで夜風にあたっていると、隣室からふわりと、これまで感じたことのない味が流れ込んできたのだ。
それは、錆びた鉄と湿った腐葉土を混ぜ合わせたような、鈍く、それでいて粘りつくような味だった。舌の奥にじわりと広がる不快感。間違いなく、それは「恐怖」の味だった。しかし、単なる恐怖ではない。じわじわと生命力を吸い取られるような、底なしの沼に足を取られたような、静かで永続的な恐怖。
俺は壁に耳を当てたが、物音一つしない。翌朝、ゴミ出しで顔を合わせた桜井さんは、いつもと何ら変わらなかった。「おはようございます、水島さん」と、しわくちゃの顔で微笑む彼女からは、確かにいつもの和三盆の味がした。だが、その甘さの奥底に、昨夜の錆びた鉄の味が微かに、しかし確かにこびりついている。まるで、美しい和菓子に一滴だけ、毒が垂らされたかのように。
誰かが彼女を脅しているのか? 何か事件に巻き込まれたのか?
俺の平穏は、壁一枚隔てた隣から漏れ出す「恐怖の味」によって、静かに侵食され始めていた。これまで見て見ぬふりをしてきた他人の感情が、初めて無視できない脅威として、俺の舌を麻痺させていた。
第二章 偽りのバニラエッセンス
それからというもの、俺は桜井さんの様子を注意深く窺うようになった。ストーカーのようで自己嫌悪に陥るが、あの錆びた鉄の味を知ってしまった以上、放ってはおけなかった。
桜井さんの部屋からは、日中、断続的に恐怖の味が漏れ出してくる。だが、週末になると、その味に変化が訪れた。新しく加わったのは、甘ったるいが、どこか人工的な「偽りの安堵」の味。鼻をつくほどのバニラエッセンスと、薬品を混ぜたような、気味の悪い甘さだ。
その味の正体は、すぐに判明した。桜井さんの息子夫婦だった。四十代半ばほどの、身なりの良い二人組。彼らは週末になるときまって高級そうな菓子折りを手に、桜井さんの部屋を訪れるようになった。
俺はベランダの仕切り板の隙間から、彼らの感情を味わった。息子からは、焦げ付いた砂糖のような「苛立ち」の味がした。その妻からは、水で薄めた蜂蜜のような、ぼんやりとした「罪悪感」の味がした。そして二人が帰った後、桜井さんの部屋に残るのは、偽りのバニラエッセンスの残り香と、より一層濃くなった錆びた鉄の恐怖だった。
状況は明らかだ。息子夫婦が、何らかの理由で桜井さんを追い詰めている。金銭か、あるいは介護の問題か。彼らが持ってくる菓子折りは、罪悪感を薄めるための免罪符なのだろう。そして桜井さんは、恐怖に耐えながら、穏やかな母親を演じている。
俺の胸は、焦げ付いた唐辛子のような怒りでじりじりと焼かれた。だが、何ができる? 共感覚なんてものを、誰が信じるだろう。「あなたの息子さんから、苛立ちの味がします」とでも言うのか。俺は無力だった。ただ壁の向こうの気配を探り、漏れ出してくる味に顔をしかめることしかできない。
ある土曜の午後、アパートの廊下で息子夫婦とすれ違った。彼らは俺に軽く会釈したが、その瞬間、俺の舌を刺したのは、これまでで最も強い苛立ちと罪悪感の味だった。そして、彼らが去った後の廊下には、錆と腐葉土の匂いが、まるで怨念のように漂っていた。
違う。この恐怖は、桜井さん一人のものじゃない。息子夫婦もまた、何かを恐れている。
俺の頭の中で、バラバラだった味のピースが、不穏なパズルを形成し始めていた。
第三章 氷砂糖の決意
このままではいけない。俺の中で、何かが限界に達していた。意を決して、俺は隣のチャイムを鳴らした。安物の菓子折りを手に、訪問販売のふりでも何でもするつもりだった。
ドアを開けた桜井さんは、一瞬驚いた顔をしたが、すぐにいつもの穏やかな笑みを浮かべた。「あら、水島さん。どうかなさいましたか?」
「あの、少し、音が気になったものですから…」
我ながら、ひどい口実だった。しかし、桜井さんはあっさりと俺を中に招き入れた。「どうぞ。散らかっていますけど」
部屋に足を踏み入れた瞬間、俺は息を呑んだ。
錆びた鉄と腐葉土の味が、部屋中に満ち満ちていた。それはもはや味覚ではなく、肌を刺すような圧力となって俺を襲う。だが、その圧倒的な恐怖の中心にいるはずの桜井さんから漂ってくる味は、全くの別物だった。
それは、凍てつくような「氷砂糖の味」。
純粋で、硬質で、絶対的な冷たさ。研ぎ澄まされた刃のような、冷徹な「決意」の味だった。そして、その結晶のような味の核には、一粒の塩のような、微かで深い「哀しみ」が閉じ込められていた。
恐怖じゃない。この人は、何も恐れていない。
俺が混乱していると、桜井さんは静かにお茶を淹れながら、ぽつりと言った。
「恐怖を感じているのは、私じゃないのですよ」
彼女は、部屋の奥にある小さな仏壇に目をやった。そこには、二人の幼い子供の写真が飾られている。
「この家に『いる』、あの子たちの味です。…私の、孫たち」
桜井さんの口から語られた事実は、俺のちっぽけな想像を遥かに超えていた。
数年前、息子夫婦の育児放棄と虐待によって、二人の孫は相次いで命を落とした。事件は、事故として処理された。しかし、子供たちの恐怖と無念は、この部屋に「味」として残り続けていたのだ。錆びた鉄は、古びた檻の味。腐葉土は、庭の隅に埋められた小動物の死骸の味。それは、孫たちが生前に感じていた、絶望そのものだった。
「あの子たちは、私に知らせたかったんです。自分たちがどれほど怖かったか、どれほど寂しかったかを」
桜井さんの声は、静かだが揺るぎなかった。
「息子たちが週末に来るのは、罪悪感から供養の真似事をするため。でも、私は許さない。絶対に」
彼女が淹れてくれたお茶の湯気から、氷砂糖の冷たい決意の味が立ち上る。
彼女の計画はこうだ。近々、息子夫婦をこの部屋に呼び、睡眠薬で眠らせる。そして、部屋に火を放つ。孫たちが味わった恐怖を、罪を犯した我が子にも味わわせ、この部屋ごと全てを浄化するのだと。
これが、「転」だった。被害者だと思っていた老婦人は、復讐の女神だった。俺が感じていたのは、彼女の恐怖ではなく、亡き孫たちの残留思念と、彼女の冷徹な殺意だったのだ。俺の共感覚は、事件の表層しか捉えていなかった。その奥にある、人間の愛と憎しみが織りなす、あまりにも哀しい真実を見誤っていた。
第四章 赦しのテロワール
俺は、どうすればいいのか分からなかった。警察に通報すれば、桜井さんは捕まり、息子夫婦は助かるだろう。それが「正しい」ことなのかもしれない。だが、舌に残る孫たちの恐怖の味と、桜井さんの氷砂糖のような哀しみが、俺の行動を縛り付けた。
俺は、初めて自分の能力について考えた。この呪わしい力は、ただ他人の感情を盗み見て、一人で苦しむためだけにあるのか?
「桜井さん」俺は口を開いていた。「その計画は、駄目です」
「あなたに何が分かるのです」
氷砂糖の味が、鋭利な刃となって俺の舌を切りつけた。
「何も分かりません。でも…」俺は言葉を探した。「でも、息子さんたちからは、苛立ちと罪悪感の味がしました。彼らもまた、苦しんでいる。あなたを失うことは、彼らにとって罰にはなっても、救いにはならない」
それは、俺がこれまで避けてきた、他人への干渉だった。
「あなたの復讐は、孫さんたちが本当に望んでいることなんでしょうか。彼らが残したこの『味』は、ただ、気づいてほしかっただけなんじゃないですか。忘れないでほしかっただけなんじゃないですか」
俺の言葉に、桜井さんの瞳が初めて揺らいだ。彼女の硬質な決意の味に、ぴしりと微かな亀裂が入るのが分かった。その亀裂から、堰を切ったように、熱い塩水のような「慟哭」の味が溢れ出した。彼女はテーブルに突っ伏し、声を殺して泣き始めた。部屋に満ちていた錆と腐葉土の味が、その涙に溶けていくように、少しずつ和らいでいく。
結局、俺は警察には通報しなかった。
その代わり、桜井さんと息子夫婦が、この部屋で三人きりで対話する場を設けるよう説得した。俺はただ、アパートの自室で、壁一枚隔てた隣室から漏れ聞こえる声と、流れ込んでくる味を感じていた。
最初は、焦げ付いた唐辛子のような「怒り」、えぐみのある「自己弁護」、そして薄っぺらい「謝罪」の味が渦巻いていた。だが、時間が経つにつれて、味は変化していった。苦い「後悔」の味。塩辛い「涙」の味。そして、夜が更ける頃には、まるで赤ん坊のミルクのような、温かく、か細い「赦しの兆し」の味が、ほんの少しだけ漂い始めた。
翌朝、俺がベランダに出ると、隣の窓が開け放たれ、新鮮な朝の空気が部屋を浄化していた。長年こびりついていた錆と腐葉土の味は、ほとんど消え去っていた。代わりに、そこには複雑で、簡単には名付けられない味が満ちていた。哀しみと、後悔と、それでも生きていこうとする人間の、温かくて不格好なテロワールが。
俺は、深く息を吸い込んだ。街に満ちる無数の感情の味が、舌の上に広がる。それはもう、不快なスープではなかった。喜びも、怒りも、哀しみも、全てがこの世界を構成する、かけがえのないレシピの一部なのだ。
呪いだと思っていた俺の力は、もしかしたら、誰かの心の味を、ほんの少しだけ変えるためのものなのかもしれない。
俺はもう、味から逃げない。この複雑で、時に苦く、時に甘い世界を、丸ごと味わい尽くして生きていこう。
空は、澄み渡るようなソーダ水の味がした。