勿忘草のソナタ

勿忘草のソナタ

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第一章 閉じた音色

古びた紙とインクの匂いが満ちる空間で、桐島蒼は世界のすべてから隔絶されているかのような安らぎを得ていた。父から受け継いだ古書店『時の栞』の店主として、彼は埃をかぶった物語の番人をしながら、自身の止まった時間をやり過ごしている。かつて、彼の指はヴァイオリンの弦の上を蝶のように舞い、聴衆の心を震わせる音色を紡ぎ出していた。だが、五年前にすべては終わった。雨の夜の事故で左手の繊細な神経を損なって以来、彼の世界から音楽は色褪せ、ヴァイオリンはケースの中で沈黙を続けている。

その日も、窓の外で降り始めた冷たい雨が、店内の静寂を際立たせていた。客の姿はなく、蒼はカウンターの奥で、ただ本のページをめくる音だけを立てていた。そのとき、ドアベルがちりん、と寂しげな音を立てた。

入ってきたのは、品の良いグレーのコートをまとった小柄な老婦人だった。濡れた傘を丁寧に畳むその所作には、長年培われたであろう気品が漂っている。彼女は店内をゆっくりと見回し、やがて蒼のいるカウンターへと静かに歩み寄った。

「こちらで、大切なものを預かっていただけないでしょうか」

その声は、古楽器のように深く、澄んでいた。彼女は少し震える手で、大切そうに抱えていた革製のファイルから、一冊の古い楽譜を取り出した。表紙にはタイトルがなく、ただ中央に、色褪せた一輪の勿忘草(わすれなぐさ)の押し花が挟まっているだけだった。

「これは……楽譜ですか」

「ええ。とても古い、けれど、とても大切な曲です」

老婦人の瞳は、遠い過去を見つめているようだった。その深い眼差しに、蒼は言い知れぬ不安と好奇心を掻き立てられる。

「ただの預かりものでしたら、金庫などの方が安全かと」

「いいえ、あなたでなければ駄目なのです。『時の栞』の、桐島さんだから」

なぜ自分の名を。蒼が問い返す前に、老婦人は彼の目を真っ直ぐに見つめ、言葉を続けた。その声には、切実な響きが宿っていた。

「お願いです。この楽譜は、決して誰にも渡してはなりません。特に……『彼』には。絶対に」

『彼』とは誰なのか。蒼がその言葉の意味を掴めずにいると、老婦人はふっと寂しそうに微笑み、「それでは、よろしくお願いいたします」と深く頭を下げた。そして、蒼が何かを言う間もなく、彼女は再び雨の中へと消えていった。

カウンターの上には、謎の楽譜だけがぽつんと残された。勿忘草の淡い青が、まるで誰かの涙のように見えた。蒼の止まっていたはずの時間が、この瞬間、軋みを立てて動き始めたことに、彼はまだ気づいていなかった。

第二章 不協和音の訪問者

老婦人が去ってから三日後の朝、蒼は新聞の片隅に小さな記事を見つけた。市内で起きた交通事故。被害者の欄に印刷された名前に、彼は息を呑んだ。――相沢千鶴子。添えられた小さな顔写真には、あの老婦人が穏やかに微笑んでいた。

偶然か、それとも。胸騒ぎを抑えきれず、蒼は預かった楽譜に手を伸ばした。羊皮紙のような手触りの紙面には、インクが滲み、無数の染みが時の経過を物語っている。彼は店の奥にある、今は物置と化した練習室へ向かった。そこには、母の形見であるアップライトピアノが、分厚い布をかぶって眠っている。

布を取り払うと、懐かしい木の香りがした。鍵盤の蓋を開け、楽譜を譜面台に置く。蒼は動かしにくい左手を庇いながら、右手だけで、震える指を鍵盤に落とした。

ポロン、と響いた音は、驚くほど優しく、切なかった。それは、寄せては返す波のように穏やかで、それでいて胸の奥を締め付けるような哀愁を帯びたメロディだった。弾き進めるうちに、蒼の心に不思議な懐かしさが込み上げてくる。なぜだろう。初めて見るはずのこの旋律が、まるで幼い頃に聴いた子守唄のように、心の琴線に触れるのだ。

その日の午後、店のドアが乱暴に開けられた。立っていたのは、蒼と同じくらいの年の、鋭い目つきをした男だった。黒いジャケットを着こなし、全身から焦燥と苛立ちを発散させている。

「相沢千"鶴"子という女が、ここに来なかったか」

男の口から出た名前に、蒼の心臓が跳ねた。「千"鶴"子」…新聞記事と漢字は違うが、読みは同じだ。

「さあ……お客様のことは存じ上げません」

「嘘をつくな。あの婆さんがアンタに楽譜を預けたはずだ。それを渡せ」

男は低い声で威嚇し、ずかずかとカウンターに近づいてくる。老婦人の「『彼』には渡してはならない」という言葉が、警鐘のように頭の中で鳴り響いた。こいつが『彼』なのか。

「何のことか分かりません。お引き取りください」

「ふざけるな!」

男はカウンターに手をつき、身を乗り出した。その瞳には、憎しみとも悲しみともつかない、複雑な光が揺らめいている。蒼は一歩も引かなかった。この楽譜を渡してはいけない。老婦人との短い時間の出会いが、彼の中に確かな約束として根付いていた。無気力な日常を送っていた自分の中に、守るべきものが生まれた瞬間だった。

男はしばらく蒼を睨みつけた後、「必ず手に入れてやる」と吐き捨て、嵐のように去っていった。一人残された蒼は、激しく打つ鼓動を鎮めながら、譜面台の楽譜を見つめた。この美しい旋律の裏に、一体どんな秘密が隠されているというのだろう。

第三章 置き去られた旋律

あの男の訪問以来、蒼は楽譜の謎に取り憑かれていた。警察に届けることも考えたが、老婦人の切実な願いがそれを躊躇わせた。手がかりは、勿忘草の押し花と、この音楽そのものだけだ。

蒼は専門書を読み漁り、押し花に使われた和紙の微かな紋様から、それが数十年前に特定の地域でのみ作られていた希少なものであることを突き止めた。さらに、楽譜の余白に残っていたインクの染みを拡大して見ると、そこにはかろうじて読み取れる古い住所が浮かび上がった。まるで、誰かが意図的に残した道標のように。

翌日、蒼はその住所を頼りに、電車を乗り継いで隣町の古いアパートに辿り着いた。潮の香りがする寂れた港町。アパートのドアを開けると、管理人が訝しげな顔で彼を見た。蒼が相沢千鶴子の名前を出すと、管理人は驚いたように目を丸くした。

「ああ、千鶴子さん……。数日前に亡くなられてね。身寄りがないってことで、部屋の片付けを頼まれてるんだが……」

事情を話し、蒼は部屋に入れてもらうことができた。埃っぽい六畳一間。そこは、時が止まったような空間だった。壁には、セピア色に変色した写真が何枚も飾られている。若き日の相沢千鶴子と、その隣で優しく微笑む男。蒼は息を呑んだ。その顔には見覚えがあった。若々しいが、間違いなく、十年前に亡くなった自分の父、桐島奏多だった。

頭が混乱する。父と、あの老婦人が?なぜ?蒼は震える手で、部屋の隅に置かれていた古いヴァイオリンケースに触れた。それは、父が愛用していたものとよく似ていた。

そして、本棚に挟まっていたアルバムの中に、決定的な一枚を見つけた。そこには、父と千鶴子、そして二人の間に挟まれて、無邪気に笑う三歳くらいの自分が写っていた。記憶にない光景。だが、その写真は紛れもなく真実を突きつけていた。

茫然と立ち尽くす蒼の目に、机の上に置かれた一通の封筒が留まった。宛名は『桐島奏多様』。それは千鶴子が父に宛てて書いた、しかし投函されることのなかった手紙だった。蒼は、封を破る。

『奏多さん、お元気ですか。あなたと別れてから、もう三十年以上の月日が流れてしまいましたね。あなたの息子さん、蒼さんは、立派な青年に育ったことでしょう。

実は、あなたにずっと言えなかったことがあります。あの日、あなたのもとを去った時、私のお腹には、新しい命が宿っていました。あなたと私の子です。彼には、あなたの音楽の才能を受け継いでほしいと願い、「響(ひびき)」と名付けました。

彼には父親のことは話さずに育てましたが、最近、彼は自分のルーツを探り始め、あなたを、そしてあなたの家族を憎んでいるようです。私は、彼があなたを誤解したまま憎しみに囚われるのが怖い。

だから、あなたが生涯で一度だけ、私のために作ってくれたあの曲を、あなたの息子である蒼さんに託すことにしました。あの楽譜は、あなたが生きた証であり、あなたの愛の証です。どうか、二人の息子が、音楽を通じて互いを理解し合えますように。それが、私の最後の願いです……』

手紙が、蒼の手から滑り落ちた。あの男は、響。自分の、異母兄弟。父には、もう一つの家族がいた。そして母は、そのすべてを知っていたのだろうか。自分のヴァイオリニストとしての道を閉ざした事故は、父の突然の死に心を乱された直後のことだった。父への思慕、裏切られたという思い、様々な感情がごちゃ混ぜになり、蒼はその場に崩れ落ちた。あの優しい旋律は、父が自分以外の誰かのために紡いだ愛の詩だったのだ。

第四章 そして、音楽は続く

古書店に戻った蒼は、何日も店を閉めた。父への裏切られた思いと、兄としての責任感、そして響という男への複雑な感情が渦巻き、彼は眠れない夜を過ごした。だが、心に響き続けるのは、あの哀しくも美しい旋律だった。それは、もはや単なる父の裏切りの証ではなく、父の苦悩と、千鶴子という女性への深い愛情、そして二人の息子に向けられた祈りのように感じられた。

一週間後、蒼は響に連絡を取った。電話の向こうで警戒する響に、蒼は静かに言った。「話がある。父さんの、桐島奏多のことで」。

再び『時の栞』に現れた響の瞳には、以前と同じ鋭い光が宿っていた。蒼は何も言わず、彼を店の奥の練習室へと案内した。そして、父の遺品であるヴァイオリンをケースから取り出し、ピアノの前に座った。

「聴いてほしい。父さんが、君の母親のために作った曲だ」

蒼は、深く息を吸った。そして、不自由な左手で慎重にヴァイオリンのネックを握り、右手でピアノの鍵盤を弾き始めた。たどたどしい演奏。思うように動かない指がもどかしい。だが、彼は諦めなかった。一音一音に、父の想い、千鶴子の願い、そして初めて会った弟への言葉にならない感情を込めた。

ピアノの旋律に、ヴァイオリンの音色が重なる。それは完璧な演奏ではなかった。時折音が掠れ、リズムが乱れる。それでも、その音楽には魂が宿っていた。二つの楽器が、まるで対話し、慰め合い、そして赦し合うように、一つの物語を紡いでいく。それは、引き裂かれた家族の、哀しくも美しいソナタだった。

曲が終わった時、部屋には静寂が満ちていた。響は、俯いたまま動かなかった。やがて、彼の肩が小さく震え始め、ぽつり、ぽつりと涙が床に落ちるのが見えた。

「母さんは…何も言わなかった。ただ、時々遠くを見て、寂しそうに笑うだけだった…」

絞り出すような声で、響は言った。自分たちを捨てたと思っていた父が、こんなにも美しい音楽で母を愛していたことを知り、彼の長年の憎しみは、氷が溶けるように消えていった。

それから、二人は夜が更けるまで語り合った。父のこと、それぞれの母のこと、そして自分たちのこと。血を分けた兄弟が、父の遺した音楽によって、三十数年の時を経てようやく出会えたのだ。

数日後、蒼は古書店の片隅で、久しぶりにヴァイオリンを構えていた。窓から差し込む午後の光が、彼の指先を優しく照らす。完璧な演奏は、もうできないかもしれない。だが、彼の心には、音楽を奏でる純粋な喜びが戻ってきていた。過去の呪縛から解き放たれ、彼の時間は再び、確かな音色を伴って流れ始めた。

譜面台に置かれた楽譜。そこに挟まれた勿忘草の花言葉は、「私を忘れないで」。それは、時を超え、父から二人の女性へ、そして母から二人の息子へと託された、愛と記憶のメッセージだった。音楽は決して消えない。人の想いを乗せて、それは永遠に続いていくのだ。蒼はそっと目を閉じ、新たな一音を、静かに空間へと放った。

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