幻視のレクイエム

幻視のレクイエム

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***第一章 深夜の窓辺に揺らめく影***

その夜、神崎律は奇妙な静けさの中で目覚めた。隣人の生活音も、遠くの車の走行音も、どこか霞んで聞こえる。まるで世界から自分だけが切り離されたような、不穏な静寂。時刻は午前三時。律はベッドから這い出し、ぼんやりと窓の外を眺めた。古いアパートの三階、ここからの眺めはいつもと変わらないはずだった。向かいには建設途中のオフィスビルが、無機質な鉄骨を夜空に突き刺している。しかし、その夜、律の視線は吸い寄せられるように、そのビルの十階あたりに釘付けになった。

鉄骨の隙間から、何かが揺らめいている。律は目を凝らした。それは、人の形をしているように見えた。長い髪、白いワンピース。女性だ。彼女は、足元が危うい鉄骨の端に立っていた。今にも落ちそうな危ういバランスで、月明かりを浴びて、まるで幽霊のようにそこに佇んでいる。律の心臓が激しく脈打つ。悪寒が背筋を這い上がった。自殺未遂か? あるいは、何かの事件か? 律は急いでスマートフォンを手に取り、110番にダイヤルしようとした。しかし、指が震えて、なかなかプッシュできない。この状況が現実だという確信が、なぜか持てなかった。あまりにも非現実的で、夢を見ているような感覚。逡巡する律の目の前で、その白い影は、ふわりと、あまりにも静かに、闇の中へと消えていった。

「――っ!」

律は悲鳴を上げかけたが、喉の奥で押し殺した。全身の血液が逆流したような衝撃。通報しなければ。しかし、もう彼女の姿はない。一体何が起こったのか? 律は呼吸も荒く、何度も窓の外を見つめ続けたが、ビルはただ静かに、その巨大な影を落としているだけだった。
翌朝。律は眠れぬまま、昨夜の出来事を警察に伝えようか、いや、もしかしたら自分の見間違いかもしれないと、幾度も考えを巡らせていた。あの光景は、あまりにも鮮烈で、リアルすぎた。朝食も喉を通らず、コーヒーを淹れる手も震えている。意を決してアパートを出て、あの建設途中のビルへ向かった。
しかし、ビルは普段と変わらない姿で、朝日に照らされていた。建設作業員たちが忙しなく行き交い、鉄骨を叩く音が響く。律は昨夜女性がいたはずの階を見上げるが、そこに何か異変があったような形跡は一切ない。防犯テープも、血痕も、割れたガラスもない。何事もなかったかのように、日常がそこにはあった。
律は、出勤してきたビルの警備員に声をかけた。「昨夜、何か変わったことはありませんでしたか? 十階あたりで…」
警備員は訝しげに律を見て、「何もありませんでしたよ。深夜は警備員が巡回してますが、異常の報告は一切なしです。何か勘違いでは?」と答えた。
律は呆然とした。周囲の住民に尋ねてみても、誰も「そんなことは知らない」「何も見ていない」と首を振るばかり。律の言葉は、まるで透明な壁に阻まれるように、誰にも届かない。
昨夜の出来事は、幻だったのか? しかし、あの恐怖、あの動悸、あの白い影の鮮やかさは、幻などではありえない。律の心の中に、深い疑念と、拭いきれない恐怖が芽生えた。自分だけが知る、この世に存在しない「真実」。それが、律の孤独な戦いの始まりだった。

***第二章 疑惑の街、揺らぐ現実***

律の日常は、一夜にして、歪んだ鏡の中に閉じ込められたようだった。あのビルを見上げるたびに、全身を冷たい水が流れるような感覚に襲われる。彼女が確かに目撃したはずの出来事が、誰一人として共有してくれない。その事実は、律の心を蝕み始めた。
律はイラストレーターとして自宅で仕事をしている。締め切りが迫るイラスト制作も手につかず、無意識のうちに窓の外に目を向けてしまう。隣人たちの笑い声や、通りを走る車の音でさえ、律にとっては耳障りだった。誰もこの世界の異変に気づいていない。あるいは、気づいていないフりをしているのか? そんな疑心暗鬼が、律の心を支配し始めた。
律は独自に調査を開始した。深夜、双眼鏡を片手にビルの様子を監視したり、インターネットで近隣の事件や事故に関する情報を調べたりした。しかし、何も得られない。建設会社に問い合わせても、「そのような事実はございません」と事務的な返事が返ってくるだけだ。
ある日、律はアパートの大家と廊下で顔を合わせた。律は思い切って、もう一度尋ねてみた。「大家さん、この近くで、最近何か変な噂とか、ありませんか?」
大家は律の目をじっと見て、ふっと笑った。「神崎さん、最近お疲れのようですね。締切でも近いんですか? そんな変な話は聞きませんよ。それより、ちゃんとご飯食べてますか?」
その言葉は、優しさよりも、むしろ律を精神的に追い詰めるものだった。「神崎さんは少し変わった人だ」という、大家の無言のメッセージを受け取った気がした。律は、自分が孤立無援であることを痛感した。
食欲は落ち、眠りも浅くなった。夢の中では、あの白い影が、何度も目の前を横切っていく。目覚めると、全身が汗でびっしょりになっていた。律は自分が精神的に不安定になっていることを自覚していた。このままでは、本当に幻覚を見てしまうかもしれない。それでも、あの夜の出来事が幻覚だとは、どうしても信じられなかった。あれは、あまりにも現実だったのだ。
雨の日、律は傘を差して街を歩いていた。雨粒がアスファルトを叩く音だけが、律の耳に届く。カフェで温かいコーヒーを注文し、窓の外をぼんやりと眺めていると、ふと、あの白いワンピースの女性の後ろ姿が、雨の中を歩いているように見えた。律は慌ててカフェを飛び出した。
「待って!」
しかし、人ごみの中にその姿はあっという間に消え失せてしまう。律は雨の中、立ち尽くした。心臓が激しく鼓動する。今のは、幻だったのか? それとも、本当に彼女だったのか? 律の現実は、ひどく曖昧で、揺らぎ始めていた。疑心と焦燥が、五感を麻痺させていく。雨の匂い、アスファルトの冷たさ、街の喧騒。全てが律を置き去りにして、ただ流れていくようだった。

***第三章 欠落したパズル、現れた幻影***

律の精神的な疲弊は限界に達していた。イラストの依頼も断りがちになり、食事もまともに摂れない。鏡に映る自分の顔は、目の下に濃い隈ができ、まるで別人のようだった。夜の悪夢は続き、昼間でも、街を歩いていると、ふとした瞬間にあの白い影が視界の端をよぎるようになった。
「これは、本当に異常だ」
律はついに、心療内科のドアを叩いた。医師は律の訴えを静かに聞いた。徹夜で調べた証拠の羅列、周囲の不信、そして自分の記憶の曖昧さ。律は、ある時期の記憶がひどく不鮮明であることにも気づき始めていた。特に、数年前の大学卒業前後の出来事が、まるで霧の中にあるようだった。
医師は診察後、慎重な口調で言った。「神崎さん、深刻なストレスからくる心因性の可能性が高いですね。強い不安や疲労は、幻覚や幻聴を引き起こすこともあります。記憶の欠落も、心因性健忘の一種かもしれません。まずは、心の休息が必要です。」
律は頭では理解できたが、感情が納得しなかった。幻覚だなんて、そんなはずはない。しかし、証拠は何もなかった。医師の言葉は、律が恐れていた現実を突きつけるものだった。自分は本当に、狂ってしまったのか?
診察室を出て、律は重い足取りでアパートに戻った。夜空には、あの建設途中のビルがそびえ立っている。その時、律は自分の目を疑った。
ビルの最上階、あの夜と同じ場所。月光を浴びて、白いワンピースの女性が、そこに立っている。
「嘘…」
律の全身に鳥肌が立った。幻覚だと言われたばかりなのに、なぜまた。しかし、今回は違った。彼女は律の方を見ている。はっきりと、律の目を捉えている。まるで、「ここよ」と誘っているかのように。
律は衝動的にアパートを飛び出した。狂気にも似た衝動が、律を駆り立てる。今度こそ、彼女に会って、真実を確かめなければならない。幻覚だろうが、現実だろうが、もうどうでもいい。
ビルの入口は工事用のフェンスで囲まれ、鍵がかけられていた。しかし、律はフェンスの隙間を無理やり通り抜け、非常階段を駆け上がった。錆びた鉄骨の階段は、律の足音を不気味に反響させる。息を切らし、心臓が破裂しそうなほど脈打ちながら、律は必死に十階へと向かった。
開け放たれた鉄扉をくぐり、律は最上階の建設現場へと足を踏み入れた。コンクリートの床に、月光が差し込み、影絵のように鉄骨のシルエットが浮かび上がっている。そして、そこに、彼女はいた。
白いワンピースの女性。背を向けて、夜景を見下ろすように立っている。律は、ゆっくりと、しかし確かな足取りで彼女に近づいた。
「あなた…あなたですよね? あの夜、ここにいたのは」
女性はゆっくりと振り返った。その顔は、律の記憶の中の女性と寸分違わない。だが、その表情は、まるで感情が抜け落ちたように虚ろで、律を見つめる瞳には、一切の光がなかった。
「あの夜、あなたは…」律は言葉を続けた。しかし、女性の口から出た言葉は、律の予想を遥かに裏切るものだった。
「あの夜? あなた、何を言っているの?」
彼女の瞳は、律をまるで初めて見るかのように、何も知らない表情で律を見つめ返した。
「私は、ただ…ここに立っていただけ。あなたは、誰?」

***第四章 虚ろな真実、過去への帰還***

女性の言葉は、律の心臓を鷲掴みにし、そのまま地面に叩きつけられたような衝撃だった。彼女は律の記憶にある「あの夜」を全く知らない。そして、律自身も彼女にとって見知らぬ存在であるかのような、虚ろな問いかけ。律の現実認識は、根底から崩れ落ちた。
「違う…そんなはずはない! あなたは、あの夜、この場所にいた!」律は必死に訴えるが、女性の表情は変わらない。まるで、目の前の律を、存在しないものとして見ているかのようだった。
「あなたは…私を、一体誰だと?」
その声は、律自身の心の奥底から響いてくるかのように、どこか物悲しく、そして冷たかった。律は、女性の瞳の奥に、何か既視感を覚えた。それは、自分自身を映し出す鏡のようでもあり、しかし、決定的に異なる何かがあった。
その時、律の頭の中に、激しい頭痛と共に、断片的な映像がフラッシュバックした。
嵐の夜。雷鳴。雨の中、倒れている一台の自転車。そして、地面に散らばる、スケッチブックのページ。
「これは…」
記憶の欠落。心因性健忘。医師の言葉が律の脳裏をよぎる。律が思い出せない数年前の出来事。それは、律が大学卒業を間近に控えた、ある雨の夜のことだった。
律は、大学の卒業制作で、どうしても描きたいテーマがあった。それは、都会の片隅で忘れ去られた人々の姿。そのためのスケッチに出かけていた夜、律は不注意にも、交差点で一台の車にはねられた。幸い、命に別状はなかったものの、その事故が律の心に深い傷を残した。
律は、事故の記憶を、無意識のうちに心の奥底に封じ込めていたのだ。痛みと恐怖、そして、自分の無力さ。それが、記憶の欠落となって現れていた。
そして、今、目の前の女性の虚ろな瞳が、律にある真実を突きつける。
「あなたは…私を見ているのね。まるで、あの時の私を見るように」
女性の声が、律の思考を貫いた。
「あの時?」
「そう…あの夜、私はここにいた。あの事故の後、私の心は、この場所で立ち止まってしまったの。あなたが、私のことを忘れて、前を向こうとしたあの日から」
女性は、律の分身だった。事故によって深く傷つき、進むことを拒んだ律の「もう一人の自分」。あるいは、律が心の奥底に閉じ込めた、過去の自分自身だったのだ。あの夜、律が窓から見たのは、他人の自殺未遂などではなかった。それは、律の心の奥底に、長く閉じ込められていた「過去の自分」が、この現実に、幻影として現れた姿だったのだ。
あの白いワンピースは、律が事故の前に着ていた服と酷似している。そして、彼女が立っていたのは、律が事故現場近くのビルから見ていた、まさにその場所だった。律は、自分の心の痛みを、無意識のうちに外に投影し、それを「他人の悲劇」として認識していたのだ。
律の目に涙が溢れ出した。それは、恐怖や混乱ではなく、深い悲しみと、そして理解からくるものだった。
「ごめんなさい…私、あなたのことを、忘れていた」
律は、震える手で、女性の顔に触れようとした。しかし、その手は、虚空を掴んだ。女性の姿は、月光に溶けるように、ゆっくりと、しかし確実に、消えていこうとしていた。

***第五章 再生のレクイエム、静寂の彼方***

「行かないで…!」
律の悲痛な叫びが、がらんとした建設現場に虚しく響き渡る。女性の姿は、まるで夜の帳に吸い込まれるように、光の粒子となって消え去ろうとしていた。律は、その消えゆく光景を、ただ見つめることしかできなかった。
最後に、女性の唇が微かに動き、律にはその言葉が聞こえた気がした。
「もう、大丈夫よ…前を向いて」
光が完全に消えた後、律は一人、冷たいコンクリートの床に座り込んだ。体中の力が抜け、全身が震える。あの夜見た光景は、誰かの悲劇ではなかった。それは、律自身の心の傷が、現実世界に投影された「幻視」だったのだ。そして、律がずっと追い求めていた「真実」とは、外部に存在するものではなく、律自身の内面に深く根ざしていた。
あの事故の後、律は絵を描くことへの情熱を失いかけていた。都会の片隅で生きる人々の「影」を描くことに、無意識の恐怖を覚えていた。しかし、あの「幻影」との邂逅は、律にとって、過去の自分と向き合うための、あまりにも鮮烈な契機となった。
夜が明け始め、東の空がゆっくりと茜色に染まっていく。律は窓の外の夜景を見下ろした。昨夜まで、あのビルは律にとって、不安と恐怖の象徴だった。しかし、今は違う。そこには、過去の自分と決別し、新たな一歩を踏み出すための、静かな決意が宿っている。
アパートに戻った律は、シャワーを浴び、ゆっくりとコーヒーを淹れた。いつもより、その香りが深く、温かく感じられた。そして、数ヶ月ぶりに、律はスケッチブックを手に取った。真っ白いページに、鉛筆を走らせる。そこには、夜明けの光を浴びて、静かにたたずむ建設途中のビルの姿が描かれていた。しかし、そのビルのどこにも、あの白い影はなかった。代わりに、律の心には、未来への希望の光が差していた。
律は、あの幻影が自分に与えてくれたメッセージを理解した。過去の傷を癒し、心の声を聴き、再び前を向いて生きること。それは、決して事件が解決したという単純なものではなかった。律自身の内面で、深い再生のレクイエムが静かに奏でられたのだ。
窓の外には、新しい一日が始まろうとしている。街は活気を取り戻し、人々はそれぞれの日常へと向かう。律は、現実と幻、記憶と真実の曖昧な境界線の中で、自分自身と向き合い、未来へと歩み出すことを選んだ。彼女の心に残るのは、切ないほどの静寂と、確かな希望の余韻だった。幻視は消え去った。しかし、それによって開かれた内なる真実の扉は、律の心を永遠に変えただろう。

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