嘘の質量、沈黙の引力

嘘の質量、沈黙の引力

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第一章 沈黙の重力

神保町の裏路地にひっそりと佇む『柏木古書店』の主、柏木湊にとって、世界は二種類の人間で構成されていた。嘘をつく人間と、そうでない人間だ。もっとも、後者はほとんど存在しないに等しい。湊には、他人の嘘を物理的な「重さ」として感じる、呪いのような共感覚があった。

軽い偽りは肩に小石が乗る程度。悪意のある欺瞞は鉛の塊のように全身を苛み、息を奪う。この感覚のせいで、湊は他人との関わりを極力避け、言葉を発しない古書たちに囲まれて生きる道を選んだ。紙とインクの匂いだけが、嘘の重さから解放してくれる唯一の聖域だった。

その聖域に、予期せぬ客が訪れたのは、冷たい雨がアスファルトを濡らす午後だった。ドアベルが澄んだ音を立て、一人の女性が入ってくる。湿った空気とともに現れた彼女、水野紗季は、まるで雨に洗われた紫陽花のような、儚げで静かな佇まいをしていた。

「あの、探し物をお願いしたいのですが」

彼女の声は、雨音に溶けるような、か細くも芯のある響きを持っていた。湊はいつものように身構えた。依頼人との会話は、避けられない重力との戦いだ。だが、奇妙なことが起きた。彼女が話し始めても、湊の肩には一片の重さもかからないのだ。まるで無重力空間にいるかのように、体が軽い。

「祖父の遺品でして。彼が若い頃に書いていた日記を探しています。特定の出版社のものではなく、おそらく手製本で……」

彼女は、記憶をたぐり寄せるように、ゆっくりと日記の特徴を語った。濃紺の革装丁、表紙に刻まれた三日月の箔押し。その言葉のすべてが、何の抵抗もなく湊の耳に染み込んでいく。こんな経験は初めてだった。彼の感覚が正しければ、彼女は一欠片の嘘もついていない。

湊は、自分でも気づかぬうちに、彼女の澄んだ瞳に見入っていた。そこには、ただ純粋な目的だけが映っているように思えた。

「分かりました。お預かりします。見つかり次第、ご連絡を」

普段なら事務的に済ませる言葉が、少しだけ温かい色を帯びた気がした。

紗季が連絡先を記したメモを置いて店を出ていくと、店内には彼女の残した微かな花の香りと、異様なほどの静寂が残された。湊は自分の両肩に触れる。そこには、あってはならないはずの軽さが、まるで一つの謎のように鎮座していた。この世界に、嘘をつかない人間が本当に存在するのだろうか? それとも、自分のこの呪われた感覚が、ついに狂い始めたのだろうか。湊は、その答えを知るのが少しだけ怖かった。彼はまだ知らなかった。その軽さこそが、底知れぬほど重い真実の始まりであることを。

第二章 真実の輪郭

依頼を受けてから数日、湊は古書の山と格闘していた。紗季の祖父、水野壮一という人物は、かつて名の知れたジャーナリストだったらしい。湊は古書組合のネットワークを駆使し、壮一の足跡を辿り始めた。すると、意外な事実が浮かび上がってきた。壮一は四十年前、ある企業の不正を告発する寸前で、忽然とジャーナリズムの世界から姿を消していたのだ。その事件は、当時の政財界を揺るがす一大スキャンダルに発展する可能性を秘めていたという。

日記探しは、単なる遺品整理ではないのかもしれない。湊の胸に、小さな疑念の芽が生まれる。紗季は本当に何も知らないのだろうか。

そんな折、一人の男が店を訪れた。高そうなスーツを着こなし、柔和な笑みを浮かべた中年男。彼は水野家の遠縁だと名乗り、紗季のことを心配している、と切り出した。

「紗季くんは、少し世間知らずなところがあってね。祖父上の遺品探しに夢中になっているようだが、あまり古いことを蒸し返さない方がいいと、伝えていただけませんか」

その言葉を発した瞬間、湊の肩にずしり、と凄まじい圧力がかかった。それはただの鉛ではない。溶けた鉄を流し込まれるような、灼けつくほどの重圧だった。湊は思わず息を呑み、本棚に手をついて体を支える。男の顔からは笑みが消えない。だが、その瞳の奥には、氷のように冷たい光が宿っていた。

「……ご忠告、ありがとうございます。ですが、私は依頼人に忠実なだけです」

声を絞り出すのがやっとだった。男は満足したように頷き、名乗りもせずに店を出ていった。嵐が過ぎ去った後も、湊の体には不快な重さが残り続けた。あの男の嘘は、単なる偽りではない。底知れぬ悪意と、何かを隠蔽しようとする強い意志が込められていた。

湊は混乱した。紗季の周囲には、明らかに危険な嘘が渦巻いている。だが、当の彼女自身からは、なぜ嘘の重さを感じないのか。

その夜、湊は調査の進捗を報告するため、紗季に電話をかけた。電話越しでは「重さ」は感じられない。だが、彼女の声を聞くことで、何か分かるかもしれないと思ったのだ。

「そうですか……お手数をおかけします」

紗季の声は相変わらず静かで、どこか寂しげだった。湊は、あの男のことを告げるべきか迷った。しかし、確証のない情報で彼女を不安にさせることはできない。

「水野さん、あなたのお祖父さんは、何か大きなことから、あなたを守ろうとしていたのかもしれませんね」

湊が思わず口にすると、電話の向こうで紗季が息を呑む気配がした。

「……分かりません。祖父は、ただ優しいだけの人でしたから」

その声は微かに震えていた。湊には、それが嘘ではないと直感的に分かった。しかし、彼女が何かを知らない、ということ自体が、一つの巨大な空白のように感じられた。彼女の純粋さは、まるで丁寧に磨き上げられた鏡のようだ。だが、その鏡は、何か最も重要なものを映し出していないのではないか。湊は、真実の輪郭に触れようとすればするほど、その中心が空虚であるかのような、奇妙な感覚に囚われていった。

第三章 空白の告白

執念の調査の末、湊はついにその一冊を発見した。それは、組合の古老が個人的に保管していた、いわば「曰く付き」の蔵書の中に紛れていた。濃紺の革装丁、三日月の箔押し。間違いなく紗季が探していた日記だ。湊は逸る気持ちを抑え、古びたページを慎重にめくった。

そこに綴られていたのは、壮年のジャーナリストが綴った、正義感と苦悩の記録だった。四十年前の企業不正事件。その核心に迫った彼が掴んだ証拠。だが、読み進めるうちに、湊は背筋が凍るような記述に突き当たった。

『彼らは私の口を封じるために、最も卑劣な手段を選んだ。私の最愛の孫、紗季を使ったのだ。まだ幼い彼女に、ある種の暗示をかけた。事件の真相に繋がる特定のキーワードや事実に触れようとすると、彼女は声を発することができなくなる。真実を語ろうとする意思そのものを、内側から封じ込めたのだ。彼女は嘘をついているのではない。嘘がつけないのだ。なぜなら、語るべき「真実」そのものを奪われているのだから』

湊は愕然とした。全身の血が逆流するような衝撃。紗季から嘘の重さを感じなかった理由が、今、最悪の形で明らかになった。彼女は嘘がつけないのではなく、「真実を語れない」のだ。彼女の言葉に重さがなかったのは、そこに語られるべき核心が存在せず、完全に無害な事実だけがフィルタリングされて出てきていたからだ。彼女の純粋さは、作られた空白だった。湊が感じていた無重力は、真実がごっそりと抉り取られた、巨大な虚無の重さだったのだ。

日記には、さらに驚くべき事実が記されていた。この呪いのような暗示を解く唯一の方法は、彼女自身がこの日記を読み、何が起きたのかを理解すること。そして、日記の最終ページに書かれた、ある言葉を声に出して読むこと。それは、一種の自己覚醒を促すためのトリガーだった。

壮一は、いつか信頼できる誰かがこの日記を見つけ、紗季に渡してくれることを信じて、ジャーナリストとしてのキャリアの全てと引き換えに、孫娘の「沈黙」を守り抜いたのだ。

湊は日記を閉じた。革の表紙が、ひどく重く感じられる。あの男は、真相が暴かれることを恐れる組織の人間だろう。彼らは今も紗季を監視し、この日記が彼女の手に渡ることを阻止しようとしている。

湊は窓の外に目をやった。降り続いていた雨はいつの間にか上がり、雲の切れ間から弱々しい月光が差し込んでいる。彼は今、時限爆弾のような真実を抱えていた。これを紗季に渡せば、彼女は失われた言葉を取り戻せるかもしれない。だが同時に、四十年間彼女を守ってきた分厚い殻を、この手で破壊することになる。彼女が知るはずのなかった世界の闇と、祖父の絶望を、その細い肩に背負わせることになるのだ。これまで嘘の重さに苦しんできた湊が、今度は真実の重さに押し潰されそうになっていた。

第四章 解かれる前の選択

湊は紗季を店に呼び出した。いつものように、彼女は静かな足取りで現れた。その姿からは、彼女自身が巨大な秘密の檻に囚われていることなど、微塵も感じられない。湊はカウンターの上に、濃紺の日記をそっと置いた。

「見つかりました。あなたのお祖父さんの日記です」

紗季の瞳が、驚きと喜びに輝いた。彼女が日記に手を伸ばそうとした瞬間、湊はそれを軽く手で制した。

「水野さん。これを読む前に、聞いてほしいことがあります」

湊は、自分が感じてきた奇妙な「軽さ」の正体と、日記に書かれていた衝撃の事実を、言葉を選びながら慎重に伝えた。彼女が「真実を語れない」状態にあること。祖父が彼女を守るために施した悲しい細工のこと。そして、この日記が、その封印を解く鍵であると同時に、彼女を深く傷つけるであろう劇薬であることも。

紗季は、血の気の引いた顔で、黙って湊の話を聞いていた。表情は変わらない。だが、その澄んだ瞳の奥で、激しい嵐が吹き荒れているのが湊には分かった。彼女はきっと、自分の人生にずっと付きまとっていた、言葉にできない違和感の正体を、今まさに突きつけられているのだろう。

「この日記には、あなたの知らない真実と、あなたを長年守ってきた、優しい嘘の両方が詰まっています」

湊は続けた。彼の肩には、今、何の重さもかかっていなかった。なぜなら、彼は自分の心の底からの真実を語っていたからだ。

「これを読めば、あなたは自由になれるかもしれない。けれど、同時に、もう二度と無垢ではいられなくなる。知らなくてもいい苦しみを、背負うことになるかもしれない。だから……選ぶのは、あなたです」

これまで、他人の嘘か真実かを一方的に「感じて」きた湊が、初めて、選択を相手に委ねた瞬間だった。彼は、嘘も真実も、それ自体に善悪があるわけではないことを悟り始めていた。時には、嘘が人を守り、真実が人を破壊することもある。大切なのは、その重さを引き受ける覚悟があるかどうかだ。

沈黙が落ちる。古書の匂いと、時計の秒針の音だけが、店内に響いていた。

やがて、紗季はゆっくりと顔を上げた。その頬を、一筋の涙が伝っていた。

「……知りたい、です」

震える、しかし、確かな意志を宿した声だった。

「私が何者なのか、どんな言葉を奪われてきたのか……知らなければ、私はずっと、空っぽのまま生きていくことになる。それが、一番怖い」

湊は静かに頷き、日記から手を離した。紗季は、まるで祈るように、その革装丁にそっと触れた。そして、決意を固めた表情で、最初のページを開いた。

湊は、ただ彼女の隣に立っていた。これから何が起きるのかは分からない。彼女が真実を知った時、どんな言葉を最初に発するのだろう。その言葉には、どれほどの重さが伴うのだろうか。喜びか、悲しみか、それとも怒りか。

だが、どんな重さが来ようとも、今度の自分は、それを受け止められるだろうと湊は思った。人間の複雑さも、弱さも、そしてその中に灯る小さな強さも、すべて含めて受け入れる覚悟が、彼の中にはできていた。

窓の外では、三日月が静かに夜空に浮かんでいた。紗季が、祖父の文字をその瞳で追い始める。物語は、まだ終わらない。本当の物語は、今、この瞬間から始まろうとしていた。

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