残滓の天秤

残滓の天秤

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第一章 虚ろな重力

警視庁捜査一課の誰もが、その異様さに息を呑んだ。現場は、若き天才ヴァイオリニスト、月島詩織が暮らす高層マンションの一室。窓も扉も内側から施錠された完璧な密室。荒らされた形跡はなく、彼女の愛器であるストラディバリウス『アポロン』だけが、主を失ったかのようにケースの中で静かに佇んでいる。彼女は、ただ忽然と消えた。

「状況は?」

重苦しい沈黙を破ったのは、特殊捜査課「感情重量分析室」室長の響蓮(ひびき れん)だった。煤竹色のコートを纏った彼は、まるで空間そのものを検分するかのように、鋭い視線を部屋の隅々まで走らせる。

「見ての通りだ、響君。人ひとりが煙のように消えた。超常現象でも信じたくなる」

年配の刑事が、疲れた声で応じる。

蓮は応えず、目を閉じて深く息を吸った。空気が、鉛のように重い。彼の特殊な感覚が、この部屋に残留する尋常ならざる感情の質量を捉えていた。

この世界では、強い感情は「エモーショナル・ダスト」と呼ばれる微小な粒子を発生させる。喜び、怒り、哀しみ、恐怖。それらは塵のように降り積もり、物理的な「重さ」となって空間や物体に刻み込まれる。蓮は、その重さを精密に感じ取り、数値化できる、国内唯一の「感情重量士」だった。

彼はゆっくりと部屋の中央へ歩を進める。床の一点が、まるで局所的な重力異常を起こしているかのように、彼の足を引きずり込もうとする。

「……酷いな」

蓮は呟き、特殊なセンサーグローブを嵌めた手で、その空間にそっと触れた。指先に、ずしりとした圧力がかかる。それは、打ち捨てられた錨のような、底なしの重さだった。

「悲嘆反応、7.8グラヴィス。あり得ない数値だ」

グローブに接続された端末が、冷たい電子音と共に数値を表示する。1グラヴィスは、人間が一生で経験する平均的な悲しみの総量に相当する。7.8グラヴィス。それは、一つの都市が壊滅した跡地で計測されるような、カタストロフ級の悲嘆の重さだった。

「一人の人間から、こんな重さの感情が生まれるはずがない。これは……誰か一人の悲しみじゃない」

蓮は、現場の刑事たちの訝しげな視線を背に受けながら、部屋の隅に置かれたヴァイオリンケースに近づいた。許可を得て蓋を開けると、ニスが飴色に輝く『アポロン』が姿を現す。彼はグローブを外し、素手の指先でそっと楽器のネックに触れた。

瞬間、彼の意識に二つの相反する感覚が流れ込む。一つは、何千もの聴衆の喝采を浴びた時に生まれたであろう、泡のように軽く、輝かしい「歓喜」の粒子。それはまるで、陽光の下で踊る埃のようにきらめいていた。しかし、その輝きを覆い尽くすように、もう一つの感覚が蓮の精神を侵食する。それは、悲しみでも怒りでもない。もっと冷たく、深く、全てを飲み込むような「虚無」の重さだった。まるでブラックホールのように、他のあらゆる感情を吸い込み、消し去ってしまうような、絶対的な空虚。

「……君は、何を失ったんだ」

蓮は、誰にともなく問いかけた。密室に残されたあり得ないほどの悲しみの重さと、楽器に宿る奇妙な虚無。事件は、常識的な捜査の枠組みを、静かに逸脱し始めていた。

第二章 感情の秤

捜査は暗礁に乗り上げた。月島詩織の交友関係、金の流れ、その全てがクリーンだった。彼女を恨む者、陥れようとする者の影はどこにも見当たらない。誰もが口を揃えて彼女の才能を称賛し、その人柄を愛していた。だが、蓮が彼らから感じる感情の重さは、どこか薄っぺらかった。驚きと悲しみは確かにある。しかし、その奥底に、詩織の失踪を心の底から憂うような、ずしりとした質量が感じられなかった。

「結局、あんたの言う『感情の重さ』とやらは、何の役にも立たないじゃないか」

捜査会議で、蓮のやり方に懐疑的だった刑事が吐き捨てる。蓮は何も答えず、ただ手元の報告書に目を落としていた。彼の能力は、これまで数々の難事件で決定的な証拠を掴んできた。しかし、それは常に「誰が」「どこで」強い感情を抱いたか、という物理的な痕跡を追うものだった。今回の事件は質が違う。まるで、感情そのものが犯罪の主体であるかのような、奇妙な手触りがあった。

蓮は独り、詩織の足跡を洗い直した。彼女のスケジュール帳に、週に一度、「M」というイニシャルと共に記されたカウンセリングの予定を見つけ出す。紹介者のいない、完全予約制のカウンセリングルーム。主宰するのは、水無月(みなづき)という経歴不詳のカウンセラーだった。

蓮は、そのカウンセリングルームが入る、都心から少し離れた静かなビルを訪れた。ドアを開けた瞬間、彼は息を呑んだ。

そこは、異常なほど「軽い」空間だった。

まるで真空の中にいるようだ。通常、人が集まる場所には、日々の生活で生じる様々な感情の残滓が、薄い靄のように漂っているはずだった。喜び、苛立ち、退屈、期待。それらが混ざり合い、独特の「場の重さ」を形成する。しかし、この部屋にはそれが一切なかった。空気は澄み切っているのに、まるで呼吸ができないような、奇妙な閉塞感があった。

「ようこそ、響さん」

部屋の奥から、穏やかな声がした。白衣を着た、年齢不詳の男。水無月だった。彼の表情は柔和だが、その存在そのものが、蓮の感覚を狂わせる。水無月という人間からは、何の感情の重さも感じ取れない。彼は、感情の秤の上では「ゼロ」の存在だった。

「月島詩織さんのことでお見えでしょう」

水無月は、全てを見透かしたように言った。

「彼女がどこにいるか、ご存知ですか」

蓮は、警戒心を最大限に高めながら尋ねた。この男は危険だ。彼の内面の静けさは、常人が持ちうるそれとは根本的に異なっている。

水無月は静かに微笑むと、ゆっくりと首を横に振った。

「彼女は、どこにもいません。そして、どこにでもいるのです」

その言葉は、まるで禅問答のようだった。だが蓮は、その言葉の背後にある、想像を絶する真実の輪郭を、おぼろげに感じ始めていた。

第三章 ゼロの救済

「あなた……一体、何者なんだ」

蓮の声は、自分でも驚くほどにかすれていた。目の前の男、水無月が醸し出す「無」の圧力は、蓮がこれまで経験したどんな負の感情よりも恐ろしかった。

「私は、あなたと同じですよ、響さん」

水無月は、静かな声で語り始めた。「あなたと同じ、人の感情に触れることができる人間です。ただ、少しだけ役割が違う。あなたは重さを『測る』人。私は重さを『受け取る』人です」

水無月の告白は、衝撃的だった。彼は、他人の苦痛や悲嘆、絶望といった負の感情を、相手から「吸収」し、自らの内で消滅させる能力を持っているというのだ。彼はそれを「救済」と呼んだ。苦しむ人々は、彼のもとを訪れ、魂の重荷を下ろしていく。その対価として、彼は莫大な富を得ていたが、金が目的ではないようだった。彼の動機は、もっと純粋で、だからこそ歪んでいた。

「月島さんは、天才でした」と水無月は続ける。「しかし、その才能こそが彼女を苛む最大の重荷だったのです。聴衆からの期待、完璧な演奏へのプレッシャー、そして何より、自らの音楽を愛するがゆえの、終わりのない自己探求。彼女の『喜び』は、いつしか『苦痛』と分かちがたく結びついてしまった」

詩織は、その苦しみから逃れるために水無月を頼った。最初は、プレッシャーや不安といった負の感情だけを取り除いてもらっていた。しかし、それでは根本的な解決にはならなかった。苦しみの源泉は、彼女の音楽そのものにあったからだ。

「彼女は、ある日こう言いました。『先生、私の全てを、この喜びごと、どうか引き受けてください』と」

蓮の背筋を、冷たいものが走り抜けた。

「まさか……」

「そうです」水無月は、まるで聖職者のような穏やかな顔で頷いた。「私は彼女の願いを聞き入れました。彼女の中から、音楽への情熱、喜び、感動、その全てを吸い上げたのです。感情とは、魂の重さそのものですから」

部屋に残された、あの異常なまでの「悲しみ」の重さ。それは、詩織から膨大な感情が引き剥がされる際に、水無月の許容量をわずかに超え、物質化した残滓だったのだ。

そして、全ての感情を失った詩織は、文字通り「重さ」を失った。魂の質量がゼロになった彼女は、この物理世界に存在するための楔を失い、霧散するように、その存在が希薄化し、消えてしまったのだという。

「彼女は消滅したのではない。解放されたのです。あらゆる重力から解き放たれ、本当の自由を手に入れた」

水無月の言葉は、蓮の築き上げてきた価値観を根底から粉砕した。

感情を「重さ」という客観的な数値で捉え、それを犯罪の証拠として扱ってきた。重い感情は、常に事件の引き金だった。だが、その重さから解放されることこそが「救い」だと語る男がいる。そして、それを自ら望んだ被害者がいる。

正義とは何か。救いとは何か。人の魂とは、一体何なのだ。

蓮は、言葉を失い、ただ立ち尽くすしかなかった。彼の信じてきた世界の天秤が、音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。

第四章 心の重さ

水無月を法で裁くことはできなかった。彼は物理的に何も奪っていない。ただ、本人の同意のもと、目に見えない「感情」を受け取っただけだ。殺人でもなければ、誘拐でもない。彼の行為は、現行法のどんな条文にも触れなかった。

蓮は、無力感に苛まれた。報告書を提出することもできず、ただ時間だけが過ぎていく。彼はあの日以来、感情の重さを測ることに、言いようのない躊躇いを覚えるようになっていた。数値の裏にある、人の魂の叫びを、彼は初めて直視してしまったのだ。

数日後、蓮は吸い寄せられるように、かつて月島詩織がリサイタルを開いたコンサートホールを訪れた。客席は空で、がらんとした空間に彼の足音だけが響く。彼は舞台の中央に立った。そこは、彼女が最後に『アポロン』を奏でた場所だ。

目を閉じ、意識を集中させる。

すると、ふわりと、無数の温かい粒子が彼の肌に触れた。

それは、詩織の演奏に感動した何千人もの聴衆が残していった、「喜び」や「賞賛」、「感動」の残滓だった。一つ一つは塵のように軽く、儚い。しかし、それらが集まり、まるで柔らかな陽だまりのような、心地よい重さを形成していた。

それは、蓮が今まで「測定」してきた、どの感情とも違っていた。数値では表せない、確かな温もりと、優しさに満ちた重さ。

彼はその時、初めて理解した。感情の重さは、苦しみだけではない。それは、人と人とを繋ぎ、心を温め、生きる意味を与える、かけがえのないものなのだと。重いからこそ、人は互いに支え合い、分かち合う。その重さこそが、生きているという実感そのものなのだ。

シニカルな仮面の下で、蓮の頬を何かが伝った。それは彼自身の、長い間忘れ去っていた感情の重さだった。

後日、蓮は再び水無月のカウンセリングルームを訪れた。しかし、部屋はもぬけの殻だった。彼もまた、どこかへ消えたのだ。

蓮が部屋に入ると、床の中央に、何か極めて微かなものが残されていることに気がついた。彼は膝をつき、そっと指先で触れる。

それは、蓮が今まで感じたことのない、特殊な感情の粒子だった。限りなくゼロに近いほど軽いが、そこには確かに質量があった。悲しみでも喜びでもない。それは、全てを終えた者の、深く、静かな「安らぎ」の重さだった。

おそらく、水無月が自らのために、最後に世界に残した唯一の感情なのだろう。

蓮は、その微かな重さを手のひらに乗せたまま、しばらく動けなかった。

世界からまた一つ、重さが消えた。

それが救いだったのか、それとも取り返しのつかない喪失だったのか。その答えを、今の彼に知る術はない。ただ、手のひらの中にある、そのか弱くも確かな重さの意味を、これからは探していこうと、彼は静かに心に誓った。空っぽの部屋に、夕陽が長く影を落としていた。

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