第一章 匂いのない世界
水島湊の世界から匂いが消えて、五年になる。
かつて調香師だった彼にとって、それは世界の半分を失うに等しい宣告だった。事故で頭を打って以来、彼の鼻はただの呼吸器官に成り下がった。花の甘さも、雨の日のアスファルトの匂いも、淹れたての珈琲の芳しさも、すべては記憶の中の概念でしかない。感情の機微さえ、匂いと共に薄れてしまったように感じられた。
湊は今、神保町の路地裏で、ひっそりと古書店「時紡ぎ堂」を営んでいる。静寂と、紙とインクの乾いた感触だけが支配する場所。それが、今の彼にとって最も心地良い世界だった。
その日、店のドアベルが寂しげな音を立てた。入ってきたのは、雨に濡れたコートを着た若い女性だった。歳は二十代半ばだろうか。切り揃えられた黒髪が、血の気の引いた白い頬に張り付いている。彼女の瞳は、まるで底なしの沼のように深く、暗い光をたたえていた。
「あの……古書の買い取りを」
か細く、震える声だった。彼女は鞄から、ビニールに包まれた一冊の古い本を取り出した。革装の日記帳だ。使い込まれて角は丸くなり、表紙には意味の分からない紋様が刻印されている。
「大切なもののようですが」
湊は事務的に尋ねた。
「兄の……形見、なんです」
女性――高遠沙耶と名乗った――は俯いた。「兄は、一月前から行方不明で……。警察はもう、あまり動いてくれません。私には、これを手放すしかなくて」
沙耶の言葉の端々には、削り取られたような絶望が滲んでいた。湊は黙って日記帳を受け取った。その指先が、冷たい革の表紙に触れた、瞬間だった。
――ツン、と鼻腔を刺す、甘く腐ったような花の香り。
(……なんだ?)
湊は思わず眉をひそめた。ありえない。自分の鼻は、もう何も感じないはずだ。幻覚か、あるいは記憶の残滓が脳内で誤作動を起こしたのか。彼は自分の鼻を疑い、もう一度深く息を吸い込んだが、そこには古書の埃っぽい空気が広がるだけだった。
「どうか、しましたか?」
沙耶が不安そうに湊の顔を覗き込む。
「いえ、なんでもありません」
湊は動揺を押し殺し、日記帳を査定するふりをした。だが、指先に伝わる革の感触は、先ほどの幻のような匂いを執拗に思い出させた。それはまるで、百合の花が盛りを過ぎ、腐敗し始める瞬間の、むせ返るような甘さと死の気配が入り混じった香りだった。
「少し、お預かりしてもよろしいですか。価値をきちんと調べたいので」
湊の提案に、沙耶はこくりと頷いた。連絡先を記したメモをカウンターに置き、彼女は深々と頭を下げて店を出て行った。
一人残された店内で、湊は再び日記帳に手を伸ばした。もう匂いはしない。やはり気のせいだったのだろう。しかし、胸の内に奇妙なざわめきが生まれていた。匂いのない灰色の日々に投じられた、小さな、しかし確かな波紋。それは、忘れていたはずの感覚を揺り起こす、不吉な予兆のようにも思えた。
第二章 日記が放つ幻香
その夜、湊は店の二階にある自室で、預かった日記帳のページを繰っていた。沙耶の兄、高遠樹(たかとお いつき)によって綴られたその記録は、神経質なまでに整った文字で、日々の出来事を淡々と記していた。しかし、読み進めるうちに、その内容は不穏な色彩を帯びていく。
『十月七日。まただ。あの影法師が、私を見ている。電柱の陰から、ショーウィンドウの反射から。気のせいではない。確かに、私を追っている』
影法師。樹は、自分を追跡する何者かをそう呼んでいた。日記は、日に日に増していく恐怖と妄想に蝕まれていく男の精神を、克明に記録していた。
湊が次のページをめくろうと、指で紙の端をなぞった。その時だ。
――ふわりと、雨に濡れた土の匂いがした。
それは、記憶の底に眠っていた、懐かしい匂いだった。子供の頃、雨上がりの公園で泥だらけになって遊んだ日の記憶。だが、なぜ今? 日記に目を落とすと、そこにはこう書かれていた。
『十月十三日。雨。公園のベンチでずぶ濡れになった。影法師は傘も差さずに、向かいの木の陰に立っていた。まるで亡霊だ』
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。偶然か。湊は唾を飲み込み、さらにページを進めた。工場の近くで尾行されたという記述に触れると、今度は錆びた鉄の匂いが鼻先をかすめた。古いブランコ、血の味、潮の香り。日記に記された場所や出来事と呼応するように、失われたはずの嗅覚が、幻の香りとなって断続的に蘇るのだ。
これは幻ではない。何かが起きている。
この日記帳は、持ち主の強い感情や記憶を、匂いとして封じ込めているのではないか。そして、嗅覚を失った自分の脳が、何らかの形でその情報を「受信」しているのではないか。馬鹿げた考えだと頭では分かっている。だが、他に説明がつかなかった。
湊はいてもたってもいられなくなり、沙耶が残したメモの番号に電話をかけた。しかし、呼び出し音が虚しく響くだけで、誰も出ない。留守番電話にも繋がらなかった。言いようのない不安が、湊の胸を締め付けた。
沙耶はなぜ、この日記を湊の元へ持ってきたのか。金に困っているだけには見えなかった。あの瞳の奥にあったのは、絶望だけではない。何か別の、もっと硬質で、冷たい光。
湊は決意した。この謎を解き明かさなければならない。嗅覚を失い、他者との繋がりを絶ち、色褪せた世界で生きてきた自分。だが今、この日記が放つ幻の香りは、彼を否応なく現実へと引き戻そうとしていた。それは、他人の記憶と恐怖を追体験するという、あまりにも奇妙で、危険な旅の始まりだった。
彼は日記に記された地図の断片と記述を頼りに、樹が「影法師」に追い詰められた場所を特定し始めた。それは、嗅覚という羅針盤を失った船乗りが、幽霊の囁きだけを頼りに未知の海へ漕ぎ出すような、無謀な試みだった。
第三章 影法師の正体
湊は日記の記述を頼りに、湾岸地区の廃工場地帯に足を踏み入れた。潮風が運び込む錆の匂いは、もう彼には感じられない。ただ、灰色の空と、風化して赤茶けた鉄骨が、無機質な風景を作り出しているだけだ。樹が最後に目撃された場所が、この近辺だと記されていた。
巨大な貯蔵タンクの陰になった一角で、彼はそれを見つけた。地面に落ちていた、一枚のシルクのスカーフ。淡いラベンダー色のそれは、この殺風景な場所にはあまりにも不似合いだった。おそらく、沙耶のものだろう。兄の足跡を追って、彼女もここに来たのだ。
湊は躊躇いながらも、そのスカーフを拾い上げた。指先に、滑らかな絹の感触が伝わる。
その瞬間、これまで経験したことのない、強烈な幻嗅の嵐が彼を襲った。
――恐怖に引き攣った、汗の酸っぱい匂い。涙の塩辛い匂い。そして、背後から迫る誰かの、冷たい呼気の匂い。
それは沙耶がここで感じた恐怖そのものだった。兄の身を案じ、見えない脅威に怯える彼女の感情が、津波のように湊の脳内になだれ込んでくる。
だが、その恐怖の香りの奥底から、もう一つ、全く別の匂いが立ち上ってきた。
それは、懐かしくて、胸が張り裂けそうになるほど、切ない香りだった。
ホワイトムスクをベースに、ベルガモットの爽やかさと、微かなアイリスのパウダリーな甘さを重ねた、透明感のある香り。
湊はその匂いを知っていた。忘れるはずがない。それは、五年前、彼が事故に遭う直前まで、全身全霊をかけて創り上げていた、未完成の香水の香りだった。最愛の恋人、美咲に捧げるはずだった、世界でたった一つの香り。
「――ああ……」
声にならない呻きが漏れた。スカーフが手から滑り落ちる。香りを引き金に、閉ざされていた記憶の扉が、凄まじい勢いで開かれていく。
五年前の、あの夜。恋人の美咲が、ストーカーに命を奪われた。警察の捜査は難航し、犯人は闇に消えた。絶望と怒りに我を忘れた湊は、自らの手で犯人を見つけ出すことを誓った。彼は独自の調査で、犯人とおぼしき男を特定する。それが、高遠樹だった。だが、それは完全な誤解であり、人違いだった。
湊は樹を「犯人」だと信じ込み、執拗に追い詰めた。昼夜を問わず尾行し、無言電話をかけ、じわじвоюわと恐怖を与え続けた。日記に記された「影法師」の正体は、復讐心に燃えた湊自身だったのだ。
そして、あの最後の夜。湊はこの廃工場で樹を追い詰めた。パニックに陥った樹は、逃げようとして足を滑らせ、鉄骨から転落した。その直後、後を追ってきた湊もまた、暗闇の中で何かに躓き、頭を強く打って意識を失った。
彼が目覚めたのは病院のベッドの上だった。嗅覚と、事故前後の全ての記憶を失って。
全てを思い出した湊は、その場に崩れ落ちた。自分が犯した罪の重さに、全身が震えた。行方不明になった樹は、おそらくあの時……。そして沙耶は、兄の日記から全てを知ったのだ。兄を追い詰めた男が、記憶を失い、のうのうと古書店を営んでいることを。
彼女が日記帳を持ってきたのは、金のためではない。湊に記憶を取り戻させ、彼が犯した罪を自覚させるため。それは、最も残酷で、最も効果的な復讐だった。
第四章 夜明けの贖罪
背後に人の気配がした。振り返ると、沙耶が立っていた。その手には、鈍い光を放つカッターナイフが握られている。彼女の瞳は、もはや沼のような暗さではなく、憎悪の炎で赤く燃え上がっていた。
「思い出したようね、影法師さん」
沙耶の声は、氷のように冷たかった。
「……すまない」
湊の口からかろうじて漏れたのは、その一言だけだった。どんな言葉も、言い訳にしか聞こえないだろう。彼は、一人の人間の人生を狂わせ、おそらくはその命さえも奪ってしまったのだから。
「謝って、兄が帰ってくるの? あなたは安全な場所から、記憶喪失という都合のいい病気に守られて、平然と生きてきた。その間、私がどんな思いで……!」
沙耶の絶叫が、廃工場に響き渡った。彼女の怒りも、悲しみも、絶望も、全てが当然のものだった。湊は立ち上がり、彼女の前に無防備に身を晒した。
「君の言う通りだ。僕は、罰を受けなければならない」
彼は目を閉じなかった。沙耶の瞳に宿る憎悪の炎を、まっすぐに見つめ返した。もし、この命で彼女の心が少しでも晴れるのなら、甘んじて受け入れよう。
幻嗅を通して、彼は沙耶の、そしてその兄の、計り知れない恐怖と苦痛を追体験した。嗅覚を失った代わりに、他人の痛みを肌で感じるという、あまりにも皮肉な能力。それは、彼が過去の自分と向き合うために与えられた、呪いであり、唯一の救いでもあった。失われた匂いの代わりに、彼は人間としての感情の機微を、今、取り戻しつつあった。
沙耶が、カッターナイフを振り上げた。湊は身動き一つしなかった。
しかし、刃が振り下ろされることはなかった。沙耶の腕は、空中で震えていた。湊の目に浮かぶ、深い後悔と絶望の色。それは、彼女がずっと見たかった復讐の光景のはずだった。だが、彼の瞳の中には、自分と同じ、あるいはそれ以上の苦しみが映し出されていた。
カタリ、と乾いた音がして、ナイフが地面に落ちた。沙耶の目から、大粒の涙が溢れ出した。復讐は、何も生まない。兄が帰ってこないのと同じように、憎しみは、ただ心を蝕むだけだった。
やがて、廃工場の隙間から、東の空を白ませる光が差し込んできた。夜の闇を溶かす、穏やかな夜明けの光。
その光の中で、湊と沙耶は、ただ黙って立ち尽くしていた。どちらも、言葉を発することはなかった。事件が解決したわけでも、罪が赦されたわけでもない。これから先、湊は自分の犯した罪を一生背負って生きていかなければならない。沙耶もまた、兄を失った悲しみを抱え続けなければならないだろう。
湊は、失われた嗅覚が戻ることはないだろうと悟っていた。だが、彼の世界はもう、灰色ではなかった。他人の痛みを「嗅ぎ分ける」という、あまりにも重い感覚。それは、彼にとって永遠に続く贖罪の始まりであり、同時に、色褪せた世界に再び意味と手触りを取り戻すための、苦しく、長い道のりの第一歩だった。
夜明けの光は、加害者と被害者という役割を超え、ただ傷ついた二人の人間を、静かに照らし出していた。