声の温度を聴く調香師

声の温度を聴く調香師

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第一章 冷たい追憶

水島奏(みずしま かなで)には、秘密があった。彼には、他人の声に「温度」が感じられるのだ。それは比喩ではない。喜びや愛情に満ちた声は、陽だまりのように温かく肌を撫で、怒りや憎悪は、鋭い氷片のように皮膚を刺す。そして、嘘や欺瞞に満ちた声は、決まって不自然なほど冷たかった。

この特異な感覚のせいで、奏は幼い頃から人との間に見えない壁を築いてきた。言葉と感情の温度が食い違う瞬間に遭遇するたび、世界そのものが信じられなくなるような眩暈に襲われたからだ。彼はやがて、言葉を介さないコミュニケーションを求め、香りの世界に没頭した。感情を香りに翻訳する調香師という仕事は、彼にとって天職であり、唯一のシェルターだった。

海を見下ろす坂の途中にある彼のアトリエ「Parfum de l'âme(魂の香水)」には、様々な想いを抱えた客が訪れる。奏は彼らの声の温度を聴き、その魂の機微を香りに映し出すことで、確かな評価を得ていた。しかし、彼自身は誰の心にも触れず、また触れさせず、ガラス瓶に閉じ込めた感情の標本を眺めるように、静かに生きていた。

ある初夏の午後、ドアベルが澄んだ音を立てた。入ってきたのは、背筋をしゃんと伸ばした、品の良い老婆だった。彼女は藤島千代と名乗り、その声は鈴を転がすように軽やかで、温かかった。

「先生の噂はかねがね。失われた記憶さえも、香りで呼び覚ますことができると聞きまして」

奏は静かに頷き、アンティークの椅子を勧めた。窓から差し込む光が、彼女の銀色の髪を柔らかく照らしている。

「どのような香りを、お求めで?」

「亡くなった夫の香りを、再現していただきたいのです」

千代はそう言うと、懐かしそうに目を細めた。その表情も、仕草も、亡き夫を深く愛している者のそれだった。だが、奏はその言葉を聞いた瞬間、全身に鳥肌が立つのを感じた。

彼女の口から紡がれた「夫」という単語。その声の響きは、まるで真冬の窓ガラスに触れたかのように、芯から冷え切っていたのだ。愛情を語る温かい旋律の中に、一点だけ存在する、絶対零度の不協和音。

奏はカウンターの下で固く拳を握りしめた。これは、ただの依頼ではない。彼の感覚が、これまで経験したことのない深い謎の始まりを告げていた。

第二章 偽りのアロマ

「夫は、とても優しい人でした」

千代の追憶が始まった。その声は、春の小川のせせらぎのように、穏やかで温かい。奏は彼女の言葉に耳を傾けながら、目の前に並べた何十種類もの香料の瓶に意識を集中させた。

「よく二人で、この近くの海岸を散歩したものです。潮の香りに混じって、夫の吸う煙草の匂いがして……ええ、チェリーの香りがする、甘い煙草でした」

奏は、タバコアブソリュートと、微かなチェリーの香料をムエット(試香紙)に垂らす。潮風を表現するために、アンバーグリスとシーソルトのアコードを加えた。千代の語る思い出の断片は、どれも温かい温度を帯びており、香りの構成要素を特定するのは容易なはずだった。

「庭に咲く梔子(くちなし)の花を、よく私の髪に飾ってくれました。不器用な手つきでね」

甘く官能的なガーデニアの香り。奏は、彼女が語る情景を忠実に香りでスケッチしていく。シトラスの爽やかさ、書斎の古い紙の匂い、愛用していた革靴の香り。それらを語る彼女の声は、紛れもなく温かい。

しかし、奏の混乱は深まるばかりだった。個々のエピソードを彩る声は温かいのに、物語の主語である「夫」という存在そのものに言及する瞬間、その声は決まって氷点下の冷たさを帯びるのだ。まるで、美しい額縁に飾られた、色のない空虚な絵画を見ているようだった。

奏は数日かけて、最初の試作品を完成させた。チェリータバコをトップに、潮風とガーデニアが香り立ち、ラストはレザーと古書のウッディノートが包み込む。完璧なはずだった。千代の語った思い出のすべてが、そこに詰まっている。

「いかがですか」

奏がおずおずと差し出したムエットを、千代は静かに手に取った。ゆっくりと香りを吸い込み、そして、小さく首を横に振った。

「……素晴らしい香りですわ。でも、違います。これは、夫の香りではありません」

その声は、やはり冷たかった。失望の色さえ感じられない、無機質な拒絶。

奏は言葉を失った。彼の能力が、初めて役に立たないと感じた瞬間だった。声の温度は、彼女が嘘をついているとは告げていない。彼女は本心から「違う」と思っている。だが、彼女の語る愛情と、声が放つ冷たさの乖離は、埋めようのない溝となって奏の前に横たわっていた。

彼はその後も、配合を変え、何度も試作品を作った。しかし、答えはいつも同じだった。アトリエには、行き場のない「夫の香り」の残滓が重く漂い、奏の心は焦燥感で満たされていった。このままでは、調香師としての自信だけでなく、自分という存在の根幹である「声の温度を感じる能力」そのものへの信頼が揺らいでしまう。彼は、千代という人間の心の深淵に、知らず知らずのうちに引きずり込まれていた。

第三章 声の告白

霧雨が窓を叩く、ある日の午後。奏は、積み上げられた試作品の山を前に、途方に暮れていた。千代の依頼を受けてから、すでに一ヶ月が経とうとしている。

ふと、彼は発想を転換した。もし、彼女の言葉そのものが、彼女自身を欺くためのものであるとしたら? 声の温度が指し示す「冷たさ」こそが、唯一の真実だとしたら?

奏は、一つの恐ろしい仮説にたどり着いた。

「藤島さん……あなたは、ご主人を愛していなかったのではありませんか?」

次の日、アトリエを訪れた千代に、奏は震える声でその問いを投げかけた。それは、調香師として許されざる一線を超える言葉だったかもしれない。だが、もう彼にはこれしか道は残されていなかった。

空気が凍りついた。千代は驚いたように目を見開き、その顔からすっと表情が消える。沈黙がアトリエを支配する。奏は、彼女から放たれるであろう拒絶の冷たい声に身を固くした。

だが、数秒の後、千代の口から漏れたのは、奏が予期しない声だった。

「……どうして、それを」

その声は、冷たくも温かくもなかった。まるで、長い間凍っていたものが、ゆっくりと溶け出す瞬間のような、悲しみに濡れた「生温かい」温度をしていた。そして、彼女の瞳から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。

「先生のおっしゃる通りです。私は、夫を愛したことはありませんでした」

千代は、堰を切ったように語り始めた。それは、七十年近く彼女の胸の内に秘められてきた、哀しい愛の物語だった。

彼女が本当に愛していたのは、夫ではなく、夫の双子の弟、海斗(かいと)だった。活発で太陽のような夫とは対照的に、海斗は物静かで、森の木々のような深い優しさを持った青年だったという。二人は密かに想い合っていたが、海斗は病で若くしてこの世を去った。

悲しみに暮れる千代を支えたのが、兄である後の夫だった。やがて周囲に強く勧められ、彼女は彼と結婚した。夫はどこまでも優しく、彼女を大切にした。千代もまた、感謝と、海斗への罪悪感から、完璧な妻を演じ続けた。夫を愛そうと努力し、幸せな家庭を築き、そしていつしか、自分自身の本当の気持ちに蓋をしてしまったのだ。

「夫との思い出は、すべて真実です。幸せだったのも、嘘ではありません。でも、私の心の奥底には、いつも海斗がいました。夫の顔を見るたび、その声を聞くたび、私は海斗を思い出していたのです。だから、夫その人を語る時、私の心は凍りついてしまうのでしょう」

奏は、言葉もなく立ち尽くしていた。彼女が再現してほしかったのは、「夫の香り」ではなかった。夫との思い出という名の分厚い記憶の層の下に埋もれてしまった、たった一人の愛しい人――海斗の香りだったのだ。声の冷たさは、夫への憎しみではなく、愛せないことへの苦しみと、叶わなかった恋への、永遠に溶けることのない悲しみの結晶だった。

第四章 解放のパルファム

真実を知った奏の心は、奇妙なほど静かだった。目の前の老婆の、長すぎる秘密の重さに打ちのめされながらも、調香師としての魂が、進むべき道をはっきりと照らしていた。

「海斗さんの香りを、創りましょう」

奏のその言葉に、千代はハッとしたように顔を上げた。その瞳には、初めて少女のような戸惑いと、微かな希望の光が宿っていた。

奏は、千代に海斗のことだけを尋ねた。彼女の口から語られる海斗の思い出は、断片的で、おぼろげだった。だが、その声は、紛れもなく温かかった。心の奥から湧き出る、純粋な愛情の温度を持っていた。

「彼は……森の匂いがしました。よく山に入って、植物のスケッチをしていましたから。少し湿った土の匂いと、木の葉の青い香り……」

奏は、オークモスとパチュリ、そしてガルバナムのグリーンノートを手に取った。

「古い本が好きで、彼の部屋はいつも紙とインクの匂いがしていました」

シダーウッドと、かすかなインクのアコードを加える。

「それから……少しだけ、汗の匂い。夏の日差しのような、潔い匂いでした」

ムスクとクミンを、ごく少量。それは生身の人間の、温かい記憶の香り。

奏は、全神経を集中させて香りを調合した。それは、誰かの人生を再現する作業ではなく、一人の女性の魂を、長い冬の眠りから呼び覚ますための儀式だった。

数時間後、一つの香水が完成した。華やかさはない。だが、深く、静かで、どこか懐かしい、森の奥の泉を思わせるような香りだった。

奏は、完成した香りを染み込ませたムエットを、千代の前にそっと置いた。千代は震える手でそれを受け取ると、ゆっくりと顔に近づける。

香りを吸い込んだ瞬間、彼女の時間が、七十年前に巻き戻ったかのように見えた。彼女の目が見開かれ、その縁から大粒の涙がとめどなく溢れ出した。それは悲しみの涙ではなく、長い旅を終えた安堵と、再会の喜びに満ちた涙だった。

「……ああ……海斗さん……」

千代は、壊れそうな声で呟いた。

「これです。私が、忘れたくなくて、でも、忘れてしまっていた香り……」

その声は、奏が今まで聴いたどんな声よりも、深く、そして穏やかに、温かかった。長年の軛から解き放たれた魂が奏でる、感謝と解放の響きだった。

千代が帰った後、奏は一人、アトリエの窓を開けた。夕暮れの街の喧騒が、様々な温度を伴って流れ込んでくる。以前なら不快なノイズでしかなかったその音は、今や、無数の物語が織りなす豊かな交響曲のように聞こえた。

声の温度は、嘘や偽りを暴くためのものではない。それは、言葉の裏に隠された、声なき心の叫びを聴き取るためのものなのだ。奏は、この仕事を通して、そして千代との出会いを通して、初めて自分の能力を肯定できた気がした。

彼はもう、感情を恐れてガラス瓶に閉じ込めるだけの調香師ではない。

奏は静かに微笑むと、新しい空のボトルを手に取った。次はこの街の喧騒を、そこに生きる人々の温かい魂を、香りにしてみようか。彼の心には、誰かの本当の心にそっと寄り添うような、優しく温かい香りのイメージが、静かに広がり始めていた。

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