空っぽの器に、ひとしずく

空っぽの器に、ひとしずく

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第一章 凪いだ水面

水島湊の心は、いつも凪いだ水面のようだった。喜びの波紋が広がることはあっても、ごくさざ波程度。怒りの嵐が吹き荒れることもなく、そして何より、悲しみの雨が降ることは決してなかった。物心ついた時から、彼は涙というものを流したことがない。肉親の葬儀でさえ、周囲が嗚咽に沈む中、彼はただ静かにそこに佇んでいた。感情の欠落。そう診断されたこともあったが、本人にしてみれば、それが彼の「普通」だった。

皮肉なことに、その特性は彼の職業に最適だった。遺品整理士。人の死の痕跡を、最も濃密に浴びる仕事。依頼主の涙に引きずられることなく、感傷に溺れることなく、彼は淡々と、しかし丁寧に必要なものと不要なものを仕分け、部屋を空にしていく。故人の生きた証が詰まった空間を、まるで精密機械のようにリセットしていくのだ。同僚からは「鉄の心臓」と揶揄されたが、湊自身は何も感じていなかった。

その日、湊が訪れたのは、古びたアパートの一室だった。孤独死した老女、高遠静子の部屋。死後一ヶ月が経過しており、部屋にはむっとするような、生の終わりを告げる匂いが澱んでいた。しかし湊の鼻は、その匂いをただの化学変化として捉えるだけだ。

「身寄りはないそうだ。頼むよ、水島君」

管理会社の人間に鍵を渡され、湊は一人、部屋に入った。物は少ない。質素な暮らしぶりが窺える。テーブル、古びたテレビ、小さな本棚。彼はいつものように、手順を確認しながら作業を始めた。衣類を袋に詰め、食器を箱に収めていく。

その時、押し入れの奥に仕舞われた桐の箪笥が目に留まった。引き出しを開けると、そこには衣類ではなく、分厚い手紙の束が何十も、几帳面に重ねられていた。古びた和紙の便箋に、流麗な筆跡で文字が綴られている。宛名はない。ただ、どの封筒にも『まだ見ぬあなたへ』とだけ記されていた。

好奇心というにはあまりに静かな衝動に駆られ、湊はそのうちの一通を手に取った。封を開けると、インクの微かな香りがした。

『まだ見ぬあなたへ。もしあなたがこれを読んでいるのなら、あなたはきっと、心に大きな空洞を抱えているのでしょう。喜びも、怒りも、まるで他人事のように感じて。けれど一番辛いのは、悲しむことができないことではありませんか。世界から一人だけ切り離されたような、その途方もない孤独を、私は知っています』

湊の指が、ぴたりと止まった。心臓が、普段は感じることのない不規則な音を立てる。凪いでいたはずの水面に、小石が投げ込まれたかのような、微かな波紋が広がっていくのを感じた。それは、湊が生まれて初めて感じる、心の揺らぎだった。

第二章 波紋の行方

通常であれば、故人の手紙は個人情報として専門の業者に引き渡すか、依頼主の指示に従って処分する。それが湊の仕事のルールだった。しかし、彼はその手紙の束をどうしても手放すことができなかった。罪悪感に似た、しかしそれとは少し違うざわめきを感じながら、湊は段ボール箱の一つに手紙の束を紛れ込ませ、自宅へと持ち帰った。

その夜、湊は自室の明かりの下で、高遠静子の手紙を一枚一枚、読んでいった。手紙に日付はなく、順序も分からなかったが、どの手紙も同じように、静かで、それでいて強い意志を感じさせる言葉で綴られていた。

『空っぽであることは、罪ではありません。それは、あなたを守るために作られた、硬い殻なのです。けれど、殻の中に閉じこもったままでは、あなたは永遠に本当の温かさを知ることはないでしょう』

『人は、悲しみを知るからこそ、他人の痛みに寄り添えるのです。涙を流すからこそ、笑顔の尊さを知るのです。あなたが失ったものは、単なる一つの感情ではない。世界とあなたを繋ぐ、大切な架け橋なのです』

手紙は、まるで湊の半生をすぐそばで見てきたかのように、彼の心の深層を的確に言い当てていた。湊は、これは孤独な老女が遺した、普遍的な人生訓のようなものだろうと自分に言い聞かせようとした。しかし、読み進めるうちに、ある一節に突き当たった。

『あの日、幼かったあなたの魂が壊れてしまわぬよう、私はあなたの大きな悲しみを預かりました。それは私の独断であり、傲慢だったのかもしれません。ですが、後悔はしていません。あなたがいつか、自分の足で再び立ち上がり、この空虚の意味を探しに来る日を、私はずっと待っていました』

――あなたの悲しみを預かった?

湊の頭の中で、何かが警鐘を鳴らした。これは一体どういうことだ。この老女は、自分のことを知っている? まさか。湊は自分の記憶をたどった。高遠静子という名前に覚えはない。写真も見たが、全く見知らぬ顔だった。

翌日から、湊の日常は少しずつ変化した。仕事中も、ふとした瞬間に手紙の言葉が頭をよぎる。彼は、これまで決してしなかったことを始めた。高遠静子の過去を調べ始めたのだ。アパートの大家、近所の住人、彼女が通っていたという小さな図書館。わずかな手がかりを求めて、聞き込みを続けた。

人々が語る高遠静子像は、一様に「物静かで、不思議な雰囲気の、優しい人」というものだった。そして、誰もが口を揃えてこう言った。「あの人の前で悩みを話すと、不思議と心が軽くなるんです」。まるで、悲しみを吸い取ってくれるような人だった、と。

湊の胸の波紋は、次第に大きくなっていた。これは偶然ではない。何か、自分と彼女を繋ぐ、決定的な何かがあるはずだ。もしかしたら、自分は幼い頃に彼女と出会っているのではないか? 彼女は、自分の母親か、あるいはそれに近しい存在だったのではないか? そう考えると、手紙の言葉が腑に落ちる。自分を捨てた母親が、罪悪感から書き綴った手紙なのではないか、と。そうであってほしい、という奇妙な期待が、湊の心に芽生え始めていた。

第三章 嵐の真実

湊はついに、高遠静子の遠縁にあたるという女性の連絡先を突き止めた。電話口の向こうで、その女性は静子の思い出を懐かしそうに語った後、ぽつりと言った。

「静子さん、お子さんはいませんでしたよ。生涯独身でしたから。ただ……あの方は、少し、特別な人でしたからね」

特別な人。その言葉に、湊は息を飲んだ。彼は女性に会い、直接話を聞くことにした。

古民家風のカフェで向かい合った遠縁の女性は、穏やかな口調で語り始めた。

「静子さんはね、『感情調律師』だったんです」

「……感情、調律師?」

聞き慣れない言葉に、湊は眉をひそめた。

「ええ。私たちの家系に、ごく稀に生まれるのです。他人の強すぎる感情……特に、耐え難いほどの悲しみや苦しみを、相手に触れることで吸い取り、和らげることができる人間が。静子さんは、その力が特に強かった」

女性は、おとぎ話でもするように続けた。

「でも、それは魔法なんかじゃない。吸い取った感情は、消えてなくなるわけじゃないんです。すべて、調律師の中に蓄積されていく。他人の悲しみを引き受けるということは、その重みを自分自身で背負い続けるということ。だから、静子さんはいつもどこか寂しそうで……人と深く関わることを避けていました」

湊は、言葉を失った。頭の中で、手紙の言葉と、女性の話が繋がり、一つの形を結んでいく。

「三十年ほど前だったかしら」と、女性は遠い目をして言った。「静子さんが、ひどく心を痛めていた時期がありました。近所で大きな事故があって、まだ幼い男の子が、目の前でご両親を亡くしたそうです。その子は、あまりのショックに心を閉ざして、泣くことも、叫ぶこともできず、ただ虚ろな目で宙を見つめているだけだった、と。医者も匙を投げるほどの状態で……」

湊の全身から、血の気が引いていくのが分かった。それは、自分の過去そのものだった。両親を事故で亡くしたこと。その後の記憶が、曖昧であること。そして、物心ついた時から、悲しみを感じなくなったこと。

「静子さんは、放っておけなかった。このままでは、あの子の魂は壊れてしまう、と。だから、彼女は禁じ手を使ったんです。通常、調律は相手の感情を『和らげる』程度に留めるのが鉄則です。でも彼女は……その子の未来を救いたい一心で、彼の『悲しみ』という感情の根源を、根こそぎ自分の中に取り込んでしまった。感情そのものを、奪ってしまったんです」

女性は、真っ直ぐに湊の目を見て言った。

「その代償は、あまりに大きかった。他人の、それも子どもの純粋で巨大な悲しみを丸ごと引き受けた静子さんは、それからずっと、その重みに苛まれ続けました。彼女はあなたを救った。そして、そのために、自らは深い孤独の中に沈んでいったんです。彼女はあなたの母親ではありません。でも、誰よりもあなたの幸せを願っていた……言わば、あなたの心の育ての親、だったのかもしれませんね」

嵐のような真実が、湊の空っぽだった心を激しく揺さぶった。悲しみを感じないのではない。奪われていたのだ。自分を守るために。見ず知らずの他人が、自分の人生を犠牲にして。

手紙の言葉が、全く違う意味を持って蘇る。

『あなたがいつか、自分の足で再び立ち上がり、この空虚の意味を探しに来る日を、私はずっと待っていました』

それは、罪悪感の告白ではなかった。遠くから、我が子の成長を見守るような、深く、そして切ない愛情の言葉だったのだ。

第四章 空っぽの器に、ひとしずく

湊は、高遠静子の墓の前に立っていた。遠縁の女性に教えてもらった、海を見下ろす小さな墓地。墓石は新しく、彼女が亡くなってから建てられたものだろう。

彼は何を言うべきか分からなかった。感謝か。謝罪か。それとも、恨み言だろうか。なぜ、俺から悲しみを奪ったんだ、と。だが、どの言葉も、彼の喉から出てくることはなかった。

ただ、目の前の墓石を見つめていると、胸の奥深く、今まで感じたことのない圧力がこみ上げてくるのを感じた。それは痛みだった。鈍く、重く、締め付けられるような痛み。高遠静子という一人の女性が、自分のために背負い続けた三十年分の孤独と悲しみの、ほんの欠片が、今になって自分の心に染み渡ってくるかのようだった。

それは、悲しみではなかった。少なくとも、湊が知っている言葉では表現できなかった。感謝、後悔、愛情、そして、もう二度と彼女に会うことはできないという途方もない喪失感。それら全てがごちゃ混ぜになった、名付けようのない感情の濁流。

その時だった。湊の目から、一筋の熱い液体が頬を伝った。

それは、涙ではなかった。塩辛くもなかった。ただ、ひたすらに熱い、雫だった。

空っぽだった器に、初めて注がれた、温かいひとしずく。

それは彼の心に落ち、静かに、しかしどこまでも深く、波紋を広げていった。彼は初めて、失うことの痛みを知った。そして、与えられることの温かさを知ったのだ。

数ヶ月後、湊は遺品整理の仕事を続けていた。

新たな現場は、若い音楽家が病で亡くなった部屋だった。部屋には、彼が愛したであろうギターと、書きかけの楽譜が残されている。以前の湊なら、それらをただの「モノ」として処理しただろう。

しかし今、彼の目には違って見えた。

ギターの傷の一つ一つに、彼の情熱が見える。楽譜のインクの滲みに、彼の夢の続きが見える。そして、部屋に残された静寂の中に、彼を失った誰かの、声なき悲しみが聞こえる気がした。

湊は、まだ涙を流すことはできない。大声で泣き叫ぶこともないだろう。高遠静子が引き受けた悲しみの器は、あまりに大きく、深い。

だが、彼の心はもう空っぽではなかった。

彼は、故人の遺したモノの中に、悲しみだけではない、かつてそこに確かに存在した温かい感情の残滓を見つけ出すことができるようになっていた。そして、それを丁寧に拾い上げ、次へと繋いでいく。

それが、自分から悲しみを引き受け、温かい感情の種を遺してくれた彼女への、唯一の恩返しだと信じて。湊の凪いでいた水面には、今、いくつもの小さな、しかし確かな波紋が、絶えず生まれ続けていた。

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