重みを背負う鳥
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重みを背負う鳥

第一章 触れることの呪い

古びた紙の匂いと、静寂が支配する空間。僕、蒼(あお)が働く古書店『時の螺旋』は、世界から隔絶された避難所のような場所だった。背表紙をなぞる指先、ページをめくる微かな音。それだけが僕の日常を満たしていた。

僕は、人に触れることができない。

正確には、触れることを極端に恐れている。他者の肌に指が触れた瞬間、僕の脳裏には、その人が生涯で最も強く抱える後悔が、色鮮やかな幻視となって流れ込んでくるのだ。それは決まって、その後悔が生まれた瞬間の、若かりし日の姿で現れる。言葉は聞こえない。だが、焼け付くような痛み、凍てつくような悲しみ、その感情の残滓だけは、まるで自分の体験のように僕の心を抉る。

だから僕は、釣り銭は必ずトレイに置き、客が差し出す本は指先が触れないよう慎重に受け取る。そうやって、他者の人生の澱から目を背けて生きてきた。

そんな僕の日常に、週に二度ほど、穏やかな波紋を広げる老人がいた。時田さんと名乗る彼は、いつも店の隅にある歴史書の棚を静かに眺め、何も買わずに帰っていく。彼の周りだけは、空気が澄んでいるように感じられた。その背筋は驚くほどまっすぐに伸びていて、年齢を感じさせない。彼が店を出る際に僕に向ける、皺の刻まれた目元の優しい微笑みだけが、僕と世界を繋ぐ唯一の細い糸だった。

第二章 空っぽの背中

その日は、冷たい雨がアスファルトを叩いていた。店じまいの準備をしていた僕の耳に、店の入り口で鈍い音が響いた。振り返ると、時田さんが濡れた床に足を取られ、大きく体勢を崩していた。

「危ない!」

考えるより先に、体が動いていた。僕は彼の腕を強く掴んで、その体を支える。

びくり、と全身がこわばった。幻視が来る。どんな痛みが、どんな悲しみが僕を襲うのだろうか。僕は固く目を閉じた。

しかし、何も起こらなかった。

予期していた激しい感情の濁流はなく、ただ、静まり返った湖畔にいるかのような、凪いだ心象風景が広がるだけ。後悔の欠片すら見当たらない。こんなことは初めてだった。

安堵したのも束の間、僕は別の異変に気づく。彼を支える僕の腕に、物理的な重さとはまったく質の異なる、途芳もない『重圧』がのしかかってきたのだ。それはまるで、見えない山脈を丸ごと背負っているかのような、圧倒的な存在感を持つ『重み』だった。

この世界では、人は人生の大きな選択の度に、手放した可能性を『重み』として背負う。それは僕のように特殊な能力がなくとも、誰もが漠然と感じながら生きている、人生の軌跡そのものだ。だが、時田さんの背負う重みは尋常ではなかった。数えきれないほどの人生を、幾重にも重ね合わせたような、底なしの重さ。

後悔がないのに、これほどの重みを背負っている?

世界の法則が、彼の存在の前で音を立てて歪むような感覚。僕の心に、初めて他者への強い好奇心が芽生えた瞬間だった。

第三章 木彫りの鳥

あの日以来、僕は時田さんと少しずつ言葉を交わすようになった。彼は自分の過去を語ることはなかったが、僕の話をいつも静かに聞いてくれた。

ある日、時田さんが古びたジャケットのポケットから、手のひらに収まるほどの小さな木彫りの鳥を取り出して見せてくれた。それは長い年月を経て、木肌の色は深く褪せ、翼の縁は滑らかに摩耗していた。

「これはね、わしが飛ばせなかった鳥だよ」

彼はそう言って、愛おしそうに鳥の頭を撫でた。その不格好な鳥は、どう見ても空を飛べるような形には見えなかった。

「飛ばせなかった、ですか?」

「ああ。遠い場所へ旅立つ人に渡したんだ。『いつでも帰ってこい』と、願いを込めてね。だが、この鳥はわしの手元に戻ってきた。そして、持ち主は二度と戻らなかった」

彼の声には悲しみの色はない。ただ、どこまでも深い受容があった。その横顔を見つめながら、僕は直感していた。この飛べない鳥が、彼の背負う途方もない重みと、空っぽの後悔の謎を解く鍵なのだと。

第四章 共鳴する重み

一週間、時田さんは店に姿を見せなかった。胸騒ぎがして、僕は常連客名簿を頼りに彼のアパートを訪ねた。古びた木造アパートの二階、静まり返った部屋のドアをノックすると、中からか細い声が聞こえた。

時田さんは、床に敷かれた布団の上で静かに横たわっていた。顔色は悪く、呼吸も浅い。部屋にはほとんど物がなく、窓辺に置かれたあの木彫りの鳥だけが、夕日を浴びて寂しげに佇んでいた。

「蒼くんか……すまないね、見苦しいところを」

「いえ、水くらいなら……」

僕は彼の体を支え、枕元の水を飲ませようとした。その時だ。彼の手が僕の腕に触れた。

瞬間、世界が反転した。

時田さんの背負う無数の重みが、僕の魂に直接流れ込んでくる。それは、僕自身が抱える、過去に友人を救えなかった後悔の重みと激しく共鳴し、僕の意識を飲み込んでいった。これは幻視じゃない。他者の人生の重さを、僕が丸ごと追体験させられているのだ。

第五章 無数の幻視

意識の奔流の中で、僕は見ていた。

事業に失敗し、家族の前でうなだれる中年男性。

愛する人を事故で失い、雨の中で泣き崩れる若い女性。

夢を諦め、故郷に帰る列車の窓を見つめる少年。

無数の人々の、人生で最も痛ましい後悔の光景。そして、その傍らにはいつも、若き日の時田さんがいた。彼は、苦しむ人々の前に静かに立つと、こう告げるのだ。

「その重み、私が預かろう。君は、前だけを見て歩きなさい」

人々は訝しむ。だが、時田さんの目に宿る深い慈愛に触れると、堰を切ったように涙を流し、自らの後悔を彼に差し出す。時田さんは、差し出された見えない後悔を、自らの背中にそっと乗せていく。一つ、また一つと。

幻視の最後に、一枚の光景が焼き付いた。遠い地へ旅立つ最愛の女性に、彼が木彫りの鳥を手渡す場面。彼女が亡くなり、その遺品として鳥が手元に戻ってきた日。彼は空っぽになった自分の心を見つめ、決意したのだ。自分の後悔はもう、彼女と共に手放した。この空っぽになった背中に、これからは他者の苦しみを背負っていこう、と。

彼は、後悔を持たなかったのではない。自らの後悔を手放すことで、他者の後悔を無限に引き受けるための「器」になったのだ。

第六章 最期の贈り物

「……蒼、くん」

幻視から引き戻されると、時田さんの息は虫の音のように弱々しくなっていた。彼は最後の力を振り絞るように、震える手で窓辺の木彫りの鳥を掴み、僕に差し出した。

「君は……わしに似ている。その目は、人の痛みが分かりすぎる目だ。だが……背負いすぎるなよ」

僕がその鳥をそっと受け取った瞬間、彼の指先が僕の肌に最後に触れた。

そして、僕は見た。彼が見ていた、唯一の報酬を。

無数の後悔の幻視の、そのずっと奥。時田さんが後悔を引き受けた人々が、それぞれの場所で、ささやかに、しかし確かに笑っている姿があった。新しい家族を作り、新たな夢を見つけ、前を向いて歩いている。

それを見守る若き日の時田さんの幻影は、この世の何よりも優しい、安堵と喜びに満ちた表情をしていた。他者の苦しみを背負うことは、彼の唯一の喜びだったのだ。

時田さんは、微笑んでいた。

穏やかな寝息を立てるように、彼は静かに旅立った。ふっと、僕の体を押しつぶしていた途方もない重圧が、春の陽炎のように消えてなくなるのを感じた。

第七章 飛べない鳥と歩き出す道

時田さんの小さな葬儀が終わった数日後、僕は古書店のカウンターに立っていた。左手には、温もりを失った木彫りの鳥が握られている。

一人の若い女性客が、法律書の専門書を手にレジへ来た。彼女の手から本を受け取る。指先が、触れた。

いつものように、幻視が流れ込む。司法試験に落ち、自室で一人、声を殺して泣く彼女の姿。だが、いつもと違っていた。その涙に濡れた幻視の向こう側に、僕は微かな光を見た。諦めずに再び机に向かう彼女の姿、そして、数年後、桜並木の下を晴れやかな顔で歩く未来の可能性が、ぼんやりと見えたのだ。

僕は、彼女に本を手渡しながら、静かに言った。

「……きっと、大丈夫ですよ」

驚いたように顔を上げた彼女は、少しだけ戸惑った後、ふわりと微笑んで頷いた。

手の中の木彫りの鳥は、飛ぶことはない。だが、それは絶望の淵に立つ誰かが、再び飛び立つために羽を休める「止まり木」なのだ。いつでも帰れる場所の、静かな約束なのだ。

僕の能力は呪いだった。でも今は、少しだけ違う意味を持ち始めている。僕はこれからも、他者の後悔に触れ続けるだろう。だが、その痛みの奥にある、小さな希望の光を探すために。

時田さんのように、すべてを背負うことはできない。それでも、ほんの少しだけ、誰かの重みを軽くする道標くらいには、なれるかもしれない。

僕は窓の外を見た。雨上がりの空は、どこまでも澄み渡っていた。

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