秒針の止まった時計店と、騒がしい愛の音

秒針の止まった時計店と、騒がしい愛の音

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第一章 沈黙の工房

油と埃、そして古びた金属の匂い。

それが、俺の世界のすべてだ。

路地裏の突き当たり、看板も出していないその店には、今日も静寂だけが降り積もっている。

「……佐久間さん、いらっしゃいますか」

引き戸が軋む音と共に、遠慮がちな声が店内の空気を揺らした。

俺は作業机に向かったまま、ルーペの位置を直す。

「予約のない客は取らんと言ったはずだが」

「どうしても、これだけは見ていただきたくて」

入ってきたのは、三十代半ばほどの女性だった。喪服のような黒いワンピース。その手には、場違いなほど派手な蛍光色の目覚まし時計が握りしめられている。

「『想い出の修復師』。それがあなたの通り名ですよね」

彼女は一歩踏み出し、カウンターにその安っぽい時計を置いた。

「夫の遺品なんです。壊れてしまって、最期の『記憶』が再生できないんです」

俺は溜息をつき、ようやく椅子を回転させた。

この世界には、持ち主の強い念を記憶する物体――『残留思念物質』が存在する。

俺のような技術者は、壊れたそれらを修復し、最期のメッセージを遺族に届けるのが仕事だ。

だが、俺は安物が嫌いだ。

「プラスチック製の量産品か。構造が単純すぎて、強い念なんて残りゃしない。持ち帰れ」

「お願いします! 夫は……喧嘩別れしたまま、事故で逝ってしまったんです。最後に何か言い残していないか、それだけが知りたくて」

彼女の目には、切迫した色が浮かんでいた。

俺は舌打ちをし、その派手な時計を手に取った。

軽い。あまりにも軽い。

だが、裏蓋のネジ穴が潰れているのを見たとき、俺の職人としての指先がわずかに反応した。

何度も、何度も、強引にこじ開けて修理しようとした痕跡。

「……置いていけ。直る保証はないぞ」

「ありがとうございます……!」

第二章 騒音の正体

夜が更け、街の喧騒が消えると、俺は作業に取り掛かった。

蛍光色のプラスチックを慎重に外し、内部の基盤を露出させる。

安物のクオーツ。だが、配線の一部が、素人の手によるハンダ付けでつぎはぎだらけになっていた。

「不器用な奴だな」

ピンセットで回路を辿る。

この時計は、何度も壊れ、そのたびに持ち主自身の手で無理やり蘇生させられてきたようだ。

なぜ、こんな安物を?

新しいのを買えば数百円で済むだろうに。

焦げ付いた回路の匂いが鼻を突く。

『想い出』を読み取るには、このつぎはぎの回路を、持ち主が生きていた時と同じ電圧で通電させなければならない。

それは、血管を一本ずつ繋ぎ直すような緻密な作業だ。

俺の妻もそうだった。

病室で、動かなくなった彼女の手を握りながら、俺は何も直せなかった。

時計は直せても、人間は直せない。

そんな無力感が、十年経った今も俺の指先にまとわりついている。

「……繋がったか」

最後の配線を接続した瞬間、時計のスピーカーから「ジジッ」とノイズが走った。

修復完了だ。

これで、この時計が記憶している『最も強い感情が込められた瞬間』が再生される。

俺は彼女――依頼人の有村美咲に電話をかけた。

第三章 再生

翌日の夕暮れ。

美咲は、祈るように手を組んでカウンターの前に立っていた。

「再生します。……覚悟はいいですね」

「はい」

俺はスイッチを入れた。

期待されるのは、愛の言葉か、あるいは謝罪か。

だが、スピーカーから響いたのは、耳をつんざくような大音量の電子音だった。

『ピピピピ! ピピピピ! ピピピピ!』

けたたましいアラーム音。

美咲がびくりと肩を震わせる。

「これ……毎朝の……」

音は止まらない。

そして、その裏で、男の荒い息遣いが聞こえてきた。

『……くそっ、もう四時か』

衣擦れの音。重い体が布団から這い出る気配。

『眠い……。だが、行かなきゃな』

独り言だ。

『美咲の誕生日まで、あと一週間。今の現場だけじゃ、あの指輪には届かねえ』

美咲が息を呑んだ。

音声は続く。

『あいつ、最近笑わなくなったからな。……俺が甲斐性なしだからか』

男の声は疲労に満ちていたが、そこには確かな熱があった。

『待ってろよ。絶対、一番いいやつを買ってやるからな』

そしてまた、けたたましいアラーム音が響く。

『ピピピピ!』

男が乱暴にボタンを叩く音。

『よし、起きろ俺。美咲のために、起きろ』

プツン。

そこで、音声は途切れた。

店内には、再び静寂が戻った。

「……喧嘩の原因は、彼が毎晩帰りが遅くて、理由を言ってくれなかったからなんです」

美咲の声が震えている。

「浮気でもしているんじゃないかって……私、彼を詰って……」

俺は黙って、派手な時計を指差した。

「こいつのハンダ付け、ボロボロだったぞ。アラームが鳴らなくなるたびに、必死で直してたんだ」

毎朝、死ぬほど眠い体を叩き起こすために。

愛する女の笑顔を見るためだけに。

この安っぽい時計は、彼の戦場における唯一の相棒だったのだ。

「彼は、あなたに言葉を遺せなかったんじゃない」

俺は言った。

「この『騒音』こそが、彼の愛そのものだったんだよ」

第四章 時を刻む音

美咲はその場に崩れ落ち、時計を抱きしめて泣いた。

「うるさい……うるさいよ、あなた……」

その嗚咽は、店内の埃っぽい空気を浄化していくようだった。

俺は視線を逸らし、作業机の奥に置いてある写真をちらりと見た。

妻の写真。

俺もまた、言葉少なな職人だった。

『愛している』なんて、言ったことがあっただろうか。

ただひたすらに、客の時計を直し続ける背中を、彼女に見せていただけではなかったか。

美咲が顔を上げた。

涙で濡れたその表情は、入ってきた時よりもずっと晴れやかに見えた。

「佐久間さん。この時計、直していただいて、本当にありがとうございました」

「……代金は要らん。こんな安物の修理に金を取ったと知れたら、俺のプライドに関わる」

「ふふ、頑固な職人さんですね」

彼女は微笑むと、時計を大事そうにバッグにしまい、店を出て行った。

引き戸が閉まる。

残されたのは、俺と、無数の時計たちが刻む秒針の音だけ。

チク、タク、チク、タク。

それは今まで、俺を急かすだけの音だと思っていた。

だが今は、少しだけ優しく聞こえる。

俺は引き出しの奥から、ずっと直せずにいた古い婦人用の腕時計を取り出した。

妻の遺品だ。

「……さて」

俺はルーペを目に当てた。

「お前が何を遺しているのか、そろそろ聞いてやってもいい頃だな」

工具を手に取る。

指先が、不思議と震えることはなかった。

工場の窓から差し込む夕日が、舞い上がる埃を黄金色に染めていた。

止まっていた俺の時間が、今、カチリと音を立てて動き出した気がした。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • 佐久間(さくま): 偏屈な時計修復師。口は悪いが、機械に残された感情を読み取る繊細な指先を持つ。妻を救えなかった無力感から、自身の過去には蓋をしている。
  • 有村美咲(ありむら みさき): 依頼人。夫と喧嘩別れしたことを悔やむ未亡人。派手な目覚まし時計を「夫のすべて」として持ち込む。
  • 美咲の夫(故人): 声のみの登場。不器用で口下手だが、妻のために身を粉にして働いていた男。その愛は「言葉」ではなく「行動(騒音)」に残された。

【考察】

  • 「騒音」という愛の形: 通常、愛のメッセージは「美しい言葉」で語られることが多いが、本作では「不快なアラーム音」と「疲労した独り言」こそが、最も純粋な愛の証として描かれている。美しさが飾られたものではなく、泥臭い生活の中にこそ真実があるというテーマ。
  • 対比の構造: 「静寂を好む職人・佐久間」と「騒がしい時計」、「安物のプラスチック」と「プライスレスな記憶」、「止まった時間」と「動き出す時間」。これらの対比が、物語の後半で統合され、主人公の心境変化を際立たせている。
  • 修復のメタファー: 佐久間が時計の回路(血管)を繋ぎ直す行為は、断絶された夫婦の絆を結び直す行為であり、同時に彼自身の「止まった心」を修理するプロセスそのものである。
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