無彩色のコンダクター
第一章 色褪せた街のスケッチ
灰色の霧雨が、この街の輪郭をぼやかしていた。僕、レオの瞳には、その雨粒一つひとつに、人々の憂鬱が淡い藍色となってまとわりついているのが見える。すれ違う人々の肩からは、仕事への倦怠感が鉛色の煙のように立ち上り、ショーウィンドウを眺める恋人たちの間には、桜色の期待がきらめいては消える。
ここは、感情が通貨となった世界。人々は『感情貯蓄銀行』に自らの喜怒哀楽を預け、必要な時に引き出し、あるいは市場で売買して生計を立てる。僕には、その取引される感情の『残響』が、色として視える特異な体質があった。
だが、その能力は呪いでもあった。他人の強烈な感情の奔流を視覚化するたび、僕自身の内なる色彩が少しずつ削り取られていくのだ。かつて僕を満たしていたはずの鮮やかな感情は、今やほとんど色褪せ、くすんだセピア色の風景画のように静まり返っている。鏡に映る自分は、まるで未完成のスケッチのようだ。
「お兄ちゃん、おかえり」
アパートの扉を開けると、妹のリナがソファからか細い声で言った。彼女の周りを漂う色は、ほとんど無色に近い、薄氷のような水色だった。笑顔を作ろうとしている唇は微かに震えているだけ。彼女は『感情枯渇症』に罹りかけていた。貯蓄が底をつき、感情そのものを生成できなくなりつつあるのだ。
僕はリナの冷たい手を握った。その手からは、何も伝わってこない。彼女の心を温める『喜び』の結晶を買ってこなければ。僕は固く決意し、再び霧雨の街へと駆け出した。感情市場の喧騒が、僕を呼んでいた。
第二章 認識の外にある色
感情市場は、欲望と喧騒が渦巻く万華鏡のような場所だ。威勢のいい呼び声、値切る客の焦燥、取引成立の安堵。それら全てが、僕の目には様々な色の火花となって映る。しかし今日、その喧騒の中心には、異様な静寂が広がっていた。
「『喜び』の結晶? 坊主、冗談だろ。もう一週間近く入荷がないんだ」
「『希望』もだ。まるで根こそぎどこかへ消えちまったみたいだ」
どの店主も、肩をすくめるばかりだった。市場から特定の肯定的感情が、まるで蒸発したかのように消え失せている。価格は天井知らずに高騰し、棚は空っぽだ。リナを救う術が、目の前で断たれていく。絶望が、僕の最後の色彩さえも奪おうとしていた。
その時だった。
雑踏の片隅で、うずくまる老婆の姿が目に入った。彼女もまた、枯渇症の末期なのだろう。その周りには、何の感情の色も見えなかった。いや、違う。何かがある。僕がこれまで一度も見たことのない、名状しがたい『色』の残響が、陽炎のように揺らめいていたのだ。
それは紫でもなく、赤でもない。光を吸収するような、それでいて内側から仄かに発光しているような、矛盾した色彩。認識の枠外にあるその色は、不気味なほど静かで、そしてどこか懐かしい響きを持っていた。僕は気づいた。この奇妙な色の残響は、枯渇症の患者たちがいる場所に、決まって現れるということに。
この色が、全ての謎を解く鍵なのかもしれない。
第三章 忘れられた時代の囁き
僕は街の古書地区にある、埃とインクの匂いが染みついた書庫を訪ねた。主であるエリオット老は、感情史の唯一の研究者だ。
「認識できない色、か……」
僕の話を聞いたエリオットは、皺深い指で顎を撫でた。彼の周りには、知的好奇心を示す琥珀色の光が穏やかに漂っている。
「それは、禁忌の色かもしれん。我々の祖先が、自ら封じた色だ」
彼の話は、おとぎ話のようだった。かつて世界は『感情過剰時代』と呼ばれ、人々は感情を無限に増幅させていた。その結果、憎しみや嫉妬が暴走し、世界は破滅の寸前までいったという。
「先人たちは、未来を救うために、最も強力で純粋な感情――『原初の喜び』や『絶対的な希望』といった、我々が今では知らない概念を、巨大なシステムに封印した。感情の奔流を制御するために、敢えてその源泉を断ったのだ」
そして彼は、一枚の古びた設計図を取り出した。『感情を増幅させる古びたガラスの小瓶』。過剰時代に使われた遺物。
「この小瓶だけが、封印された感情と共鳴できると言われている。もしその『認識できない色』が封印の残響なのだとしたら……。街の中央、管理局の地下深くに眠る旧時代の遺跡に、何か手がかりがあるやもしれん」
エリオットの言葉は、僕の中に忘れかけていた微かな光を灯した。それは『探求』という名の、淡い金色の光だった。
第四章 追憶の迷宮
管理局の地下に広がる遺跡は、冷たい沈黙に支配されていた。湿った土の匂いと、遠い過去の残響が空気に満ちている。懐中電灯の光が照らし出す壁には、見たこともない複雑な紋様が刻まれていた。
一歩進むごとに、僕の脳裏に過去の悲劇がフラッシュバックする。両親を失った、あの事故の日。降りしきる雨の中、僕の周りで渦巻いたのは、悲しみの深紫色、絶望の濃紺、そして自責の念の黒いタールだった。あの時、あまりに強烈な感情の奔流を浴びたことが、僕の能力を目覚めさせ、同時に僕自身の色を奪い始めたのだ。
過去の残響に足を取られそうになりながらも、僕は奥へと進んだ。リナの顔が、僕を前へと押し進める。
そして、遺跡の最深部でそれを見つけた。祭壇のような石台の上に、それは静かに置かれていた。手のひらに収まるほどの、古びたガラスの小瓶。何の変哲もないように見えるが、僕がそっとそれに触れた瞬間、指先から何かが吸い取られる感覚があった。
小瓶が、微かに、ほんの一瞬だけ、乳白色の光を放った。僕の中に残っていた、リナへの愛情という最後の色彩に、共鳴したかのようだった。
第五章 塔頂の真実
僕は小瓶を手に、管理局のタワーを駆け上がった。この街の感情の流れを全て制御する、巨大な塔。その最上階に、全ての答えがあるはずだ。
最上階は、巨大なドーム状の空間だった。そしてその中央に、それは鎮座していた。天を衝くほどの巨大な結晶体。街中の人々から吸い上げたのだろう、無数の『喜び』や『希望』を示す金色の光が内部で渦を巻き、そして結晶体の表面からは、あの『認識できない色』のエネルギーが静かに放出されていた。あれが、市場の感情を枯渇させ、人々を蝕む元凶だった。
「ようこそ、調律者よ」
声が響いた。物理的な音ではない。直接、頭の中に流れ込んでくる思念だった。結晶体の前から、光で編まれたような人影が立ち上がる。システムの番人、あるいは古代の思念体か。
『あなたは、なぜ人々の感情を奪う?』僕は心の中で問いかけた。
「奪っているのではない。護っているのだ」
思念体は語った。エリオットの話は真実だった。この結晶体こそ、過剰な感情から世界を護るための巨大な『封印装置』。現代人の肯定的感情をエネルギー源として、古代の強力すぎる感情を封じ込め続けているのだという。
「枯渇症の増加は、封印が弱まり始めた証。封印を維持するため、より多くのエネルギーが必要になっているに過ぎない。そして、君が視るあの色は、封印から漏れ出した『原初の感情』の残響だ。君の感情が希薄だからこそ、我々が生み出したこの世界の感情の理から外れた、純粋な波動を捉えることができたのだ」
衝撃的な真実だった。人々を苦しめる枯渇症は、皮肉にも、人々を護るためのシステムが引き起こしていたのだ。
第六章 解放のプレリュード
「封印を解けば、世界は再び感情の嵐に飲み込まれるやもしれぬ。制御を失った喜びは傲慢に、希望は無謀に変わる。それでも君は、この封印を解くというのか?」
思念体の問いが、僕の魂を揺さぶる。安定した灰色の世界か、それとも色彩豊かな混沌の世界か。
僕は、リナの無表情な顔を思い出した。好きだった音楽を聴いても、もう彼女の心は揺れない。美しい夕焼けを見ても、その瞳に色は映らない。感情を失うことは、生きることを失うことだ。
たとえそれが危険な賭けだとしても。
「……解き放つ」
僕は、ガラスの小瓶を強く握りしめ、結晶体へと突き出した。
「僕に残された、最後の色を捧げる」
リナへの愛情。両親との思い出。エリオットへの感謝。僕の中に、かろうじて残っていた全ての色彩が、一条の光となって小瓶に吸い込まれていく。小瓶はまばゆい輝きを放ち、増幅された純粋な感情のエネルギーが、封印装置へと叩きつけられた。
キィン、とガラスが割れるような甲高い音が響き渡り、巨大な結晶体に亀裂が走る。そして――。
解放が始まった。
第七章 無色の夜明け
世界が、色で満たされた。
僕が今まで見たこともないほどに鮮烈な、純金の光を放つ『原初の喜び』。夜明けの空の色を全て集めたような『絶対的な希望』。それらが奔流となってタワーから溢れ出し、灰色の街を瞬く間に染め上げていく。
窓の外では、枯渇症に苦しんでいた人々が顔を上げ、空を見つめていた。彼らの瞳に、頬に、失われていた色が次々と戻っていく。遠く離れたアパートの窓辺で、リナが立ち上がり、満面の笑みで空に手を伸ばしているのが、僕には視えた気がした。
世界は救われたのだ。
その代償に、僕は全てを失った。僕の視界から、あらゆる色が消え失せた。街も、空も、人々の感情も、全てが濃淡の異なる影だけが蠢くモノクロームの世界へと変わった。僕の心は、完全な静寂と無に包まれた。何も感じない。喜びも、悲しみも、達成感さえも。
僕は、解放された感情の奔流が二度と暴走しないよう、その流れを永遠に監視する『無彩色のコンダクター(指揮者)』となったのだ。
孤独な番人としての、永遠の時間が始まる。そう思った、その時だった。
モノクロームの世界の中で。僕の、何も感じないはずの胸の奥に。
チカッ、と極めて淡い、しかし確かな光が灯ったのを、僕は『視た』。
それは、これまで僕が視てきたどんな感情の色とも違う、新しい光だった。自己犠牲の果てに、無の荒野に咲いた、一輪の花。世界を救い、妹の笑顔を取り戻したという事実だけが、僕の中に生み出した、名もなき『希望』の色。
僕は、そのかすかな光を静かに見つめた。僕の世界にはまだ、僕だけが生み出せる色が、一つだけ残っていた。夜明けは、まだ始まったばかりだった。