最後のレシピは白紙のページ

最後のレシピは白紙のページ

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神崎湊(みなと)は、埃っぽい祖父の厨房で、一冊の分厚いノートを前に途方に暮れていた。街の洋食屋「キッチン・カンザキ」を一代で築き上げた祖父、譲二が亡くなって一ヶ月。店を継ぐと決めたはいいが、最大の壁にぶち当たっていた。

譲二が遺した秘伝のレシピノート。その最後のページが、綺麗に破り取られていたのだ。そこには、店の看板メニューであり、祖父の魂そのものと言われた「奇跡のビーフシチュー」のレシピが書かれていたはずだった。

「どうして……」

祖母に尋ねると、困ったように眉を下げた。「おじいちゃん、あのレシピだけは誰にも見せなかったからねえ。……でも、一人だけ、知っている人がいるかもしれないよ」。その口から出たのは、湊が最も会いたくない人物の名前だった。

黒岩龍介。街で唯一の星付きフレンチレストラン「L'étoile filante(レトワール・フィラント)」のオーナーシェフ。かつては祖父の無二の親友であり、今では犬猿の仲として知られる、最大のライバルだった。

プライドを心の奥底に押し込み、湊は「レトワール・フィラント」の重厚な扉を押した。銀食器の微かな音と、客たちの洗練された会話が満ちる空間。その中心で、黒岩は王のように厨房に君臨していた。

「神崎譲二の孫だと?……何の用だ」

用件を伝えると、黒岩は鼻で笑った。「あの男のレシピなど知るものか。それに、お前のようなひよっこに、譲二の味が再現できるとでも?」冷たい拒絶の言葉。だが、湊は諦めきれなかった。次の日から、開店前の店に通い詰め、無償で皿洗いや掃除を申し出た。黒岩は無視を決め込んでいたが、一週間が経った朝、ついに口を開いた。

「……そこまで言うなら、試してやる。俺を唸らせる一皿を作ってみろ。そうすれば、考えてやらんでもない」

それは、絶望の中に差し込んだ一筋の光だった。湊は祖父のノートを頼りに、夢中で料理を作った。デミグラスソース、ポークソテー、カニクリームコロッケ。だが、黒岩の評価はいつも同じだった。

「形だけの模倣だ。魂がこもっていない」
「なぜその食材を使うのか、お前自身の言葉で説明できるか?」

厳しい言葉が、ナイフのように湊の心を抉る。何度も挑戦し、何度も打ちのめされた。自信は砕け散り、店を継ぐという決意さえ揺らぎ始めていた。なぜ祖父は、こんな意地の悪い男に自分の未来を委ねるようなことをしたのか。

疲れ果てたある夜、誰もいないはずの厨房で、黒岩が一人、古い写真を見つめていた。湊の気配に気づくと、彼はポツリと呟いた。

「譲二のやつは、いつも一番大事なものは隠しちまう。レシピも、本当の気持ちもな……」

その言葉が、湊の頭に引っかかった。大事なものは、隠す?
湊はアパートに駆け戻り、もう一度レシピノートを開いた。インクの染みや油汚れを避けながら、ページを一枚一枚めくっていく。そして、気づいた。各ページの余白に、料理とは関係ないような、祖父の小さな走り書きがあることに。

『玉ねぎは涙が出るくらいが丁度いい。誰かのために流す涙は、いつか甘くなる』
『肉を煮込む時間は、腹を割って話す時間だと思え。焦りは禁物だ』
『最高の隠し味は、テーブルの向こうにいる相手の笑顔だ』

技術ではない。手順でもない。祖父が本当に伝えたかったのは、料理に向かう「心」そのものだったのだ。湊の目から、熱いものが込み上げてきた。

翌日、湊は最後の挑戦を黒岩に申し込んだ。
「ビーフシチューじゃありません。俺の料理を食べてください」
湊が作ったのは、ごく普通のオムライスだった。幼い頃、落ち込んだり、熱を出したりした時に、祖父がいつも「おまじないだ」と言って作ってくれた、湊だけの特別メニュー。

ケチャップライスを包む黄金色の卵は、完璧な半熟だ。スプーンを入れると、とろりとした卵がチキンライスを優しく覆う。黒岩は無言で一口運び、咀嚼し、そしてぴたりと動きを止めた。

みるみるうちに、その厳格な顔が歪み、大きな瞳から一筋、涙がこぼれ落ちた。

「……この味は……」黒岩の声は震えていた。「若き日の、譲二の味だ。俺がコンクールで負けて、店で荒れていた夜に……あいつが無理やり食わせに来た、あの時の……」

黒岩は、遠い目をして語り始めた。二人の間にあったのは、才能への嫉妬と、ささいなプライドのぶつかり合い。そして、あまりにも不器用な友情だった。譲二は、黒岩の才能を誰よりも信じ、独り立ちさせるために、敢えて突き放す悪役を演じていたのだ。

「……湊くん」黒岩は湊を真っ直ぐに見つめた。「奇跡のビーフシチューのレシピは、存在しない。いや、白紙なんだ」
「え……?」
「譲二は、お前に最後のページを託したんだ。自分の頭で考え、自分の心で感じて、お前自身の『最後のレシピ』を完成させろ、と。……そして俺は、その答え合わせをするための、ただの意地悪な試験官だったのさ」

破り取られたページは、白紙の未来だった。祖父が湊に託した、無限の可能性だったのだ。

数週間後、「キッチン・カンザキ」は新しい看板を掲げてリニューアルオープンした。メニューには「湊のビーフシチュー」という一品が加わっている。それは祖父の味の再現ではなく、湊がたくさんの涙と笑顔から作り出した、新しい店の魂だった。

客席には、少し照れくさそうにワイングラスを傾ける黒岩の姿がある。厨房の壁には、一枚の古い写真が飾られていた。若き日の祖父と黒岩が、まだ小さな洋食屋の前で、肩を組んで笑っている。その誇らしげな顔は、まるで未来の湊の姿を祝福しているかのようだった。

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