言の葉のコンパス

言の葉のコンパス

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神保町の古書店「時雨堂」の隅で、相馬健太は埃の匂いに包まれて生きていた。背表紙の文字をなぞることが、誰かと視線を交わすよりずっと得意な彼にとって、そこは世界で一番安全な場所だった。

ある雨の日、年配の女性が「整理していたら出てきたから」と一冊の古い国語辞典を置いていった。何の変哲もない、使い古された辞典。しかし、健太がページをめくった瞬間、物語は静かに動き出した。

辞典には、びっしりと書き込みがあった。特定の単語に引かれた赤い線。余白には、日付や謎めいた記号、短い詩のような一文が、細やかな文字で記されている。例えば「灯台」の項には、『君のいる場所。北緯三十五度、東経百三十九度』と。「約束」の項には、『六月の最初の土曜、いつものベンチで』。
それは、誰かが誰かに宛てた、秘密の対話のようだった。

「面白いだろう、それ」
背後から声をかけたのは、店主の白石さんだった。白髪を無造作に束ねた老人は、悪戯っぽく笑う。
「ただの書き込みじゃない。宝の地図かもしれんよ」

その言葉に背中を押され、健太の退屈な日常は、ささやかな冒険に変わった。彼は仕事の合間を縫って、辞典の解読に没頭した。赤線を引かれた単語を順番に拾い上げ、余白の記述と照らし合わせる。それはまるで、見知らぬ誰かの人生の航路をたどるような作業だった。

最初の発見は、辞典の巻末に挟まっていた古い貸出カードだった。名前は「高遠小夜子」。日付は、三十年も前のものだ。そして、貸出カードの裏には、走り書きで『明人さんへ。次の答えは「旅立ち」のページに』とあった。

小夜子から、明人へ。これは二人の交換日記ならぬ、交換辞典だったのだ。

健太は、辞典が示す場所を実際に訪ねてみることにした。休日に電車を乗り継ぎ、最初にたどり着いたのは、今はもうない喫茶店の跡地だった。辞典には『琥珀色の時間』と記されていた場所だ。今は小綺麗なドラッグストアに変わっていたが、通りの向かいにある古い時計店の店主が、当時のことを覚えていた。
「ああ、喫茶『琥珀』ね。いつも窓際の席で本を読んでいた若い男女がいたよ。とてもお似合いの二人だった」

次に訪れたのは、閉鎖された小さな公園だった。『約束』の場所と記された錆びついたベンチ。健太がそこに座ると、まるで三十年の時を超えて、小夜子と明人の楽しげな声が聞こえてくるような気がした。

辞典の謎を追ううちに、健太は変わっていった。人と話すのが苦手だった彼が、聞き込みのために見知らぬ人に声をかける。古い地図を広げ、街を歩く。本の中の物語ではなく、現実の物語を追いかける高揚感が、彼の心を少しずつ外へと開いていった。

調査の末、高遠小夜子も、恋人だった明人も、もうこの世にいないことを知る。明人は病で若くして亡くなり、小夜子も数年前に亡くなったという。彼らの物語は、悲しい結末を迎えていた。

それでも、健太は辞典の解読をやめなかった。最後の一ページに、まだ解けていない最大の謎が残されていたからだ。
「終着駅」の項。そこには、こう書かれていた。
『始まりの場所へ。すべての言葉が眠る、静かな書庫で君を待つ』

始まりの場所。すべての言葉が眠る、静かな書庫。
健太は息を呑んだ。まさか。
彼は店の奥、白石さんしか入らない特別な書庫へと向かった。許可を求めると、白石さんは何も言わずに頷き、鍵を渡してくれた。まるで、すべてを知っていたかのように。

埃っぽい書庫の奥。古い洋書が並ぶ棚の、一番下の段。そこに、辞典の記述と一致する、タイルの模様が少しだけ違う床があった。タイルをそっと持ち上げると、下には小さな木箱が埋められていた。

箱の中には、一通の手紙があった。明人が、小夜子に宛てた最後の手紙だった。

『親愛なる小夜子へ。
この手紙を君が読む頃、僕はもう君の隣にはいないだろう。ごめん。最後まで一緒にいられなくて。
でも、悲しまないでほしい。僕たちの時間は、この辞典の中に永遠に生きている。僕たちが交わした言葉、笑い合った場所、一緒に見た風景。そのすべてが、君を守る灯台になるはずだ。
だから、顔を上げて。君の物語は、まだ始まったばかりなのだから。僕の終着駅は、君の新しい旅の始発駅なんだ。
愛を込めて。 明人』

涙が、古い便箋の上に落ちた。それは、悲しみだけではない、温かい涙だった。二人の愛の物語は、決して終わってはいなかった。それは、この辞典を通じて、今、健太の心に受け継がれたのだ。

店に戻ると、白石さんが穏やかな顔で言った。
「見つかったかね。小夜子さんは、最後まであの箱を開けなかった。きっと、明人くんの最後の言葉通り、前を向いて生きていくと決めたんだろう。そして、いつか誰かがこの謎を解き明かし、二人の物語を未来へ運んでくれると信じていたのかもしれない」

健太は、窓の外の賑やかな通りを見つめた。ついこの間まで、自分とは無関係だと思っていた世界。だが今は、そこにいる一人ひとりにも、それぞれの物語があるのだと感じられた。

「いらっしゃいませ!」

店に入ってきた客に、健太は自ら声をかけていた。驚くほど自然に、明るい声が出た。客は少し驚いた顔をしたが、すぐに笑顔で応えてくれた。

一冊の古い辞典が、健太の人生のコンパスになった。もう彼は、埃っぽい本の影に隠れるだけの青年ではない。彼は今、自分自身の物語を紡ぐために、新しいページを開いたのだ。

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