星屑の栞

星屑の栞

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古書のインクと、陽に焼けた紙の匂い。望月奏(もちづきかなで)にとって、それは幼い頃から慣れ親しんだ世界の香りだった。祖父から継いだ古書店「望月書房」の店主になって三年。時代の波は、この静かな入り江のような場所にも容赦なく押し寄せ、客足は日に日に遠のいていた。軋む床、煤けた天井、そして支払いの催促状。奏は、本棚の隙間から差し込む西日をぼんやりと眺めながら、重いため息を吐いた。

祖父は言っていた。「本はな、ただの紙の束じゃない。持ち主の時間が、想いが、染み込んでるんだよ」と。その言葉を信じて店を守ってきたが、今やその言葉さえも空虚に響く。人々は指先ひとつで物語を消費し、古い紙に染みた時間など見向きもしない。焦燥感が、古いインクの匂いに混じって胸に澱んでいた。

雨がアスファルトを叩く音だけが響く、ある日の午後。店のドアベルが、錆びた音を立てて鳴った。入ってきたのは、奏の世界とはおよそ不釣り合いな、鮮やかなマニキュアを施した若い女性だった。美咲と名乗る彼女は、亡くなった母親の遺品から出てきたという、一枚のメモを差し出した。

「これ、探してるんです。青い表紙で、星の挿絵がある童話……」

タイトルも出版社も分からない、あまりに曖昧な手がかり。商売になるとは思えなかった。だが、助けを求めるように揺れる彼女の瞳から、奏は目を逸らすことができなかった。

それから数日、二人は店の奥にある書庫に籠もった。埃っぽい空気の中、背表紙の文字を一つひとつ指でなぞる作業は、果てしなく思えた。会話を交わすうち、奏は美咲が母親と確執を抱えたまま、永遠の別れを迎えたことを知った。「なんで、こんな時代に古本屋なんてやってるんですか?」不意に美咲が尋ねた。奏は、埃を払いながら、ぽつりと祖父の思い出を語った。持ち主の想いが染み込んでいる、という祖父の口癖を。美咲は、黙って聞いていた。その横顔に、ほんの少しだけ寂しさの色が滲んだように見えた。

そんな矢先、商店街に大規模な再開発計画が持ち上がり、望月書房にも立ち退きの通知が届いた。薄っぺらい封筒が、奏の最後の希望を打ち砕いた。もう、潮時なのかもしれない。祖父に申し訳ないという思いと、すべてから解放されたいという安堵が入り混じり、心がぐちゃぐちゃにかき混ぜられるようだった。

その夜、奏は半ば自暴自棄に書庫の整理を始めた。何冊もの本を無造作に段ボールに詰めていく。その時だった。高く積まれた本の山がバランスを崩し、一冊の小さな本が棚の隙間から床に滑り落ちた。

拾い上げた本は、表紙の色も褪せた、くすんだ青色の童話集だった。何かに導かれるようにページをめくると、見返しに、インクが滲んだ拙い文字が記されていた。

『みさきへ。いつか、夜空の一番星になれますように。母より』

星が瞬く夜空を描いた挿絵のページには、一枚の小さなクローバーの押し花が、栞のように挟まれていた。これだ。全身の血が逆流するような衝撃と共に、奏は確信した。

翌日、奏からの連絡を受けて店に駆けつけた美咲は、その本を手に取ると、わっと声を上げて泣き崩れた。「私、ずっと……ずっと母さんに愛されてないと思ってた……」。それは、幼い頃、母が毎晩のように読んでくれた思い出の本だった。喧嘩したまま、本当の気持ちを伝えられなかった後悔が、涙となって溢れ出す。一冊の古い本が、途切れてしまった親子の時間を、何十年もの時を超えて繋ぎ合わせたのだ。

その光景を前にして、奏は雷に打たれたように立ち尽くしていた。自分がやっていることは、ただ古い本を売ることではなかった。誰かの失われた記憶を、伝えられなかった言葉を、この手で繋ぐ仕事だったのだ。祖父の言葉が、初めて魂の奥深くまで染み渡った。

数週間後、望月書房の最終営業日。店には、別れを惜しむ常連客たちの穏やかな声が響いていた。だが、奏の表情に悲壮感はなかった。その隣には、少しだけはにかみながら客の応対を手伝う美咲の姿がある。

店の入り口に、奏は一枚の張り紙を出した。『移転準備のため、しばらく休業いたします』。その横には、カフェスペースを併設した、新しい店の小さな設計図が貼られていた。人が集い、語らい、本と出会うための新しい場所。

窓から差し込む夕陽が、店内に舞う無数の埃を金色に照らし、まるで星屑のようにきらめいていた。奏は、古書の匂いと、未来への確かな希望を胸いっぱいに吸い込む。祖父から受け継いだバトンを、今、自分の足で、新しい時代へと繋いでいく。その横顔は、夜空に輝く星を見つけた時のように、静かな光に満ちていた。

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