忘れられた世界の修復師

忘れられた世界の修復師

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古書の背表紙をなぞる指先の感触が好きだった。乾いた革の匂い、インクのかすかな甘さ、そして何世紀もの時を吸い込んだ紙の重み。古文書修復師である茅野湊(かやの みなと)にとって、そこは世界のどの場所よりも安息できる聖域だった。その日も、彼は神保町の古書店で見つけた出所不明の羊皮紙の束を、工房の机に広げていた。虫食いだらけのそれを慎重に開いた瞬間、インクの染みが奇妙な光を放ち、湊の意識は柔らかな闇に呑まれた。

次に目を開けた時、鼻腔をくすぐったのはいつもの古紙の匂いではなく、湿った石と微かなカビの香りだった。見慣れた工房は消え、代わりにそびえ立っていたのは、天井まで届く巨大な書架に囲まれた、円形の図書館。ひび割れたドームの天窓からは、見たこともない二つの月が静かな光を投げかけていた。
「……ここは」
呆然と呟く湊の前に、一人の少女が音もなく現れた。銀色の髪を長く編み、亜麻色のローブをまとった彼女は、古い物語から抜け出してきたかのように幻想的だった。
「あなたは『観測者』様ですか?」
少女は、エララと名乗った。彼女はこの「アークトゥルス」と呼ばれる世界の、崩壊しかけた中央図書館の最後の守り人だという。エララの言葉は断片的だったが、湊はすぐに状況を理解した。この世界は、その成り立ちから法則まで、全てが一冊の書物『創世の書』によって記述され、維持されている。しかし、その『創世の書』が何者かによって引き裂かれ、世界そのものが綻び始めているのだという。異常気象、枯れゆく大地、消えゆく星々。それら全てが、本の破損による世界のバグだった。
「お願いです、観測者様。あなたの知識で、この世界を……『創世の書』を修復してください」
エララは深く頭を下げた。湊はただの修復師だ。神でもなければ、魔法使いでもない。だが、彼の目の前には、破れ、汚れ、文字が掠れた羊皮紙の断片が山と積まれていた。それは紛れもなく、湊が人生を捧げてきた仕事そのものだった。

元の世界へ帰る方法はわからない。だが、このまま世界が崩壊すれば、自分も無事では済まないだろう。なにより、湊の職人としての魂が、目の前の「傷ついた本」を無視することを許さなかった。
「やってみよう」
湊のその一言に、エララの瞳が潤んだ。
そこから、湊とエララの二人だけの途方もない作業が始まった。湊はまず、断片の洗浄と補強から取り掛かった。特殊な植物の根から糊を作り、破れた箇所を極細の繊維で繋ぎ合わせていく。彼の世界で培った技術は、この異世界でも完全に通用した。インクも、鉱石や植物をすり潰して調合した。失われた文字は、前後の文脈と世界の法則から推測し、一文字ずつ丁寧に書き込んでいく。
エララは献身的に湊を支えた。必要な材料を集め、食事を用意し、夜にはランプの灯りを掲げてくれる。彼女が語るこの世界の美しい神話や、人々の素朴な暮らしの話を聞きながら作業をする時間は、湊にとって不思議な安らぎを与えた。修復が一片進むごとに、図書館の外の世界は微かに息を吹き返した。嵐が鎮まり、枯れた中庭の木に若葉が芽吹き、夜空に消えかけていた星が一つ、また一つと輝きを取り戻す。湊は、自分の仕事が世界を癒していく確かな手応えに、これまで感じたことのないほどの充実感を覚えていた。いつしか、元の世界へ帰りたいという気持ちは、この世界を守りたいという使命感へと変わっていった。

長い月日が流れ、ついに最後の断片を残すのみとなった。それは、物語の結末を記した最終章。湊は達成感と安堵に包まれながら、最後のページに筆を入れようとした。その時だった。インクで復元された文字が、彼の目に恐ろしい真実を突きつけた。
『――世界の理は完全に修復され、物語は静かに幕を閉じる。役目を終えた観測者は、元の次元へと帰還する』
指先から血の気が引いた。全身が冷たい水に浸されたように凍りつく。修復の完了は、世界の救済ではなかった。それは、この『創世の書』という物語の終焉を意味していたのだ。そして、湊の帰還。それは、この愛すべきアークトゥルスという世界の完全な消滅と引き換えだった。
「そんな……」
絶望に染まる湊の顔を、エララが不安そうに見つめている。彼女は、この残酷な結末を知らない。ただ、世界の救済と湊との穏やかな日々が続くと信じている。湊は選択を迫られた。このまま修復を止め、不完全な世界でエララと共に生きるか。あるいは、彼女も、この世界そのものも、全てを消し去って自分だけが元の世界へ帰るか。
湊は震える手でペンを置いた。二つの月が、天窓から彼の葛藤を静かに見下ろしている。インクの匂いが、やけに重く感じられた。

どれほどの時間が経っただろうか。湊は静かに立ち上がり、再びペンを握った。彼の瞳には、もう迷いの色はなかった。彼は、彼にしかできない、最高の修復を成し遂げることを決意した。
彼はまず、書かれていた最後の文章を、寸分違わず完璧に復元した。インクが乾き、世界の法則が完全に綴じられた瞬間、図書館全体がまばゆい光に包まれた。湊の身体がふわりと浮き上がり、元の世界への扉が開かれようとする。
「湊さん!」
エララの悲痛な声が響く。だが、湊は微笑んだ。彼は光に包まれながら、最後の力を振り絞り、まだインクの染みが残っていたページの余白に、新たな一文を書き加えた。それは、神の記述を模倣した、彼の修復師としての技術の粋を集めた完璧な「追記」だった。

『――だが、綴じられた物語は終わりではない。それは、そこに生きる者たちの手によって、新たな歴史の始まりを紡ぐための第一章となる』

光が収まった時、湊は床に立っていた。元の世界への扉は消えている。代わりに、彼の手にあった『創世の書』は、神々しい光を失い、ただの重厚な一冊の古書へと姿を変えていた。神による物語は終わり、人々の手による歴史が始まったのだ。彼は帰る場所を自ら消し去った。
「……どうして」
涙を流すエララに、湊は静かに言った。
「僕は修復師だからね。物語を終わらせるんじゃなく、未来へ繋げるのが仕事なんだ」
彼は新しい羊皮紙を一枚取り、インク壺の蓋を開けた。
「さあ、エララ。僕たちの歴史の、最初のページを一緒に書こう」
二つの月が照らす静かな図書館で、湊はゆっくりとペンを走らせる。インクと羊皮紙の匂いに満ちたその場所で、彼は忘れられた世界の修復師から、新たな世界の記録者になった。彼の横顔には、後悔などひとかけらもなく、ただ穏やかな満足感が浮かんでいた。

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