スランプ、という言葉ですら生温い。橘響(たちばな ひびき)の頭の中は、まるで真空だった。かつては神童と持て囃された作曲家の見る影もない。締め切りだけが、無慈悲な時を刻んでいる。
「もう、どんな音も聞きたくない」
苛立ち紛れにノイズキャンセリングヘッドホンを装着した瞬間だった。キィン、と鼓膜を突き破るような高周波。違う。これはただの耳鳴りじゃない。いくつもの音が複雑に絡み合い、一つの巨大な調和を成している――そんなあり得ない感覚を最後に、響の意識はぷつりと途絶えた。
目覚めると、そこは見知らぬ草原だった。空は色褪せたセピア色で、風は音もなく頬を撫でる。何より奇妙なのは、世界のすべてが活気を失っていることだった。まるで彩度の低い写真の中に入り込んでしまったかのようだ。
立ち上がった響は、猛烈な空腹感を覚えた。だが、それ以上に喉が渇くような、もっと根源的な「何か」が欠乏している感覚に襲われる。
ふと、視線の先に人影を見つけた。倒れ込んでいる少女だ。慌てて駆け寄ると、少女は虚ろな瞳で響を見上げ、か細い声で呟いた。
「おとが…たりない……」
音? どういう意味だ。響が困惑していると、不意にポケットのスマートフォンが震えた。設定したままの、ありふれた電子着信音。
ピロリロリン、と無機質な音が響いた瞬間、信じられないことが起きた。
音の波紋が広がると同時に、周囲の草花が鮮やかな緑を取り戻し、少女の頬に仄かな血の気が差したのだ。世界が、響のスマホを中心に、一瞬だけ息を吹き返したように見えた。
「……豊かな、音……」
少女は目を輝かせ、響の持つスマートフォンを指差した。
これが、響と「音喰界(おんしょくかい)」の出会いだった。この世界では、音はエネルギーであり、食物であり、生命そのものだった。人々は美しい音を「喰らう」ことで生き、不協和音は毒となり、そして完全な静寂は緩やかな死を意味するのだ。
少女リラに導かれてたどり着いた村は、死んだように静まり返っていた。人々は飢え、世界の色彩はほとんど失われている。この地を支配する「静寂の調律師」たちが、「始原の和音」と呼ばれる神聖な音を独占し、民衆には最低限の残響しか与えないのだという。
「そんな……音楽は、独占されるものじゃない」
響の中に、忘れかけていた創作意欲が灯る。彼はスマホを取り出し、保存していたクラシックの名曲――ドヴォルザークの『新世界より』を再生した。
壮大なオーケストラの響きが、光の粒子となって村中に降り注ぐ。人々は呆然と立ち上がり、その光を浴びるように両手を広げた。乾いた大地から若葉が芽吹き、老婆の顔から皺が薄れ、子供たちの笑い声が新たな音となって連鎖していく。村は、かつてない生命力と色彩に満ち溢れた。
響のスマホは「豊穣の楽器」と呼ばれ、彼は救世主として迎えられた。スランプに沈んでいた自分が、ただ音楽を再生するだけで世界を救える。その事実は、響の心を高揚させた。
だが、平穏は長く続かなかった。噂を聞きつけた調律師の下位組織「消音官」たちが現れたのだ。彼らは巨大な音叉のような武具を構え、空間を歪ませるほどの不協和音――「ディスコード」を放ってきた。ディスコードに触れた草木は黒く焼け焦げ、人々は耳を塞いで苦しむ。
「音楽を、汚すな!」
響は咄嗟にスマホを操作し、保存していたハードロックを最大音量で再生した。歪んだギターリフと激しいドラムビートが、ディスコードの不快な波長に真っ向から衝突する。音と音とが火花を散らし、空間がきしむ。それは、響が知るどんなライブよりも激しい「音のバトル」だった。
結果、勝利したのは響の音楽だった。だが、彼の顔に浮かんだのは安堵ではなく、焦りだった。スマートフォンのバッテリー残量が、残りわずかを示していたのだ。
この力は、借り物だ。無限じゃない。
本当にこの世界を救うには、そして自分の音楽を取り戻すには、この世界の理で、自らの手で、新たな音を創り出すしかない。
響は決意した。「始原の和音」を解放するため、調律師たちの本拠地「沈黙の塔」へ向かうことを。
塔の内部は、音で構築された罠の迷宮だった。強制的に眠りを誘う「忘却の子守唄」には、アップテンポなサンバのリズムをぶつけて強制的に踊らせて突破し、精神を蝕む「狂気のノイズ」には、数学的な美しさを持つバッハのフーガをカウンターとしてぶつけ、その構造を中和した。彼の持つ現代までの膨大な音楽知識が、最強の武器となっていた。
そして、塔の頂上。玉座に座っていたのは、世界の全ての音を聴き分けられるという白髪の老人、「首席調律師」だった。
「愚かな異邦人よ。音の氾濫は混沌を生む。管理された静寂こそが、この世界を保つ唯一の秩序なのだ」
老人が掲げた巨大な音叉が、空気を震わせる。それは、全ての音を打ち消し、存在すら無に還すという禁断の音、「虚無の調律(ヴォイド・チューン)」。世界から再び色彩が奪われ、静寂が全てを飲み込もうとする。
響のスマホのバッテリーは、もう尽きかけようとしていた。彼は最後の力を振り絞り、一つの音楽ファイルを再生する。それは、スランプの中で苦しみ、悩み、それでも投げ出すことのできなかった、彼の「未完成の交響曲」だった。
荒削りで、不格好な旋律。完成された美しさはない。だが、そこには響の苦悩、絶望、そして、それでもなお捨てきれない希望という「揺らぎ」が込められていた。
その人間臭い「揺らぎ」こそが、完全な秩序で構築された「虚無の調律」にとって唯一の異物だった。未完成のメロディは、虚無の構造の僅かな隙間に侵入し、内側からその秩序を崩壊させていく。
「なっ……!完成されていない、だと…?この揺らぎは、なんだ…!」
首席調律師の驚愕を切り裂き、響のメロディが塔の頂上を満たした。同時に、囚われていた「始原の和音」が解放され、世界へと解き放たれる。
二つの音は、打ち消し合うことなく、互いに共鳴し、全く新しいシンフォニーを奏で始めた。それは、管理された美でも、混沌の騒音でもない、生命そのものの音楽だった。
世界は、かつて誰も見たことのない、無限の色彩で輝き始めた。
首席調律師は敗北を悟った。「音楽とは…生まれるものだったか」
響の手の中のスマホは、完全に沈黙した。だが、彼にもう迷いはなかった。
数日後、響はリラや村人たちと共に、木の実や石、動物の皮で即席の楽器を作っていた。お世辞にも洗練されているとは言えない。だが、彼らが奏でる音は、どんな名曲よりも力強く、生命力に満ち溢れていた。
スランプは終わった。いや、本当は最初から存在しなかったのかもしれない。
橘響は、この音喰らう世界で、本当の意味での作曲家として、第一歩を踏み出した。彼の頭の中には、これから生まれるであろう、無数のメロディが鳴り響いていた。
シンフォニア・エクリプス ~音喰らう世界の調律師~
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