三上悟が最後に見た地球の景色は、手すりの錆びた会社の屋上から見下ろす、ありふれたアスファルトの灰色だった。次の瞬間、彼は空にいた。眼下に広がるのは、底を知れぬ乳白色の雲海。そして、その大空に、大小様々な島が、まるで気まぐれに置かれた石のように浮かんでいた。
「な……んだ、これ……」
足場は草の生えた岩塊。背後には崖。前方には、奈落。高所恐怖症の悟にとって、それは死刑宣告にも等しい光景だった。眩暈と吐き気で膝が笑い、思わず一歩後ずさった。その瞬間、彼の体は信じられない方向へ「落下」を始めた。真横だ。
「うわあああっ!?」
地球の常識が悲鳴を上げた。体が水平に引かれ、崖っぷちから吸り出される。死を覚悟したその時、風を切る音と共に、しなやかな腕が彼の襟首を掴んだ。
「よそ見は危ないよ、おじさん」
声の主は、革のブーツを履いた少女だった。彼女は崖の側面に、まるで壁が床であるかのように仁王立ちしている。ブーツに埋め込まれた鈍色の石が、淡い光を放っていた。
「ここは重力の流れが複雑なんだ。初めてかい?」
少女はリナと名乗った。彼女はこの天空諸島を渡り歩く「渡り人」で、そのブーツは「飛翔石(レビストーン)」の力で重力を操る道具なのだという。
リナに助けられ、彼女の住む浮島「エアリア」へ連れてこられた悟は、この世界の理不尽な物理法則に絶望した。重力は島ごとに異なり、場所によっては無重力に、あるいは上や斜めに向かって「落ちる」ことさえあるという。人々は、長年の経験と勘だけを頼りに、危険な空を渡っていた。
「あんたみたいに重力に慣れてない人間は、一歩も動けないね」
リナの言葉に、悟は返す言葉もなかった。地球での知識も、社会人としてのスキルも、ここでは何の役にも立たない。彼はただの、高所恐怖症の遭難者だった。
だが、数日を過ごすうち、悟は奇妙な事実に気づき始める。渡り人たちが「勘」と呼ぶ飛翔石の制御。それは、悟がかつて大学でかじった物理学の法則に酷似していた。彼らが「風を読む」と言うのは、ベクトルのかけ合わせであり、「石を蹴る」のは、作用・反作用の理屈そのものだった。彼らは無意識に、複雑な方程式を解いていたのだ。
その日、事件は起きた。
空の彼方から、不気味な紫色の雲「重力嵐(グラビティ・ストーム)」が迫り、エアリアを飲み込んだのだ。島全体が軋み、経験したことのない不規則な揺れが襲う。
「まずい!島の主飛翔石(マスター・レビストーン)が嵐で狂った!このままじゃ奈落に落ちる!」
長老の叫びが響き渡った。島を空に留める巨大な主飛翔石を再起動するには、島の四方にある制御盤を、寸分の狂いなく同時に起動させる必要がある。だが、嵐の中では重力の流れは予測不能。ベテランの渡り人さえ、一歩踏み出せば奈落に飲み込まれるのが関の山だった。絶望が島を覆う。
その時、震える足で一歩前に出たのは、悟だった。
「……俺に、やらせてください」
誰もが唖然とする中、悟は地面に木の枝で数式と図形を描き始めた。
「リナさん、あなたの飛翔石の最大出力は? 慣性移動時の減衰率は? 嵐の中の重力ベクトルは、不規則に見えて、一定の周期で変動しているはずだ!」
地球の物理学。この世界では誰も見向きもしなかった無用の知識。だが、それは、混沌に見える現象の奥に潜む「法則」を読み解く鍵だった。
悟は恐怖に顔を青くしながらも、脳をフル回転させる。彼は飛べない。だが、空の飛び方を、誰よりも正確に「識る」ことができた。
「リナさん、南の制御盤へ! 右斜め上40度へ3秒間最大噴射! その後、噴射を止め、慣性で進みながら正面から来る水平の重力流に乗るんだ!」
「そんな無茶な!」
「計算上は可能です!信じて!」
リナは一瞬ためらった後、悟の瞳に宿る確信を信じて宙を舞った。彼女の体は、悟の指示通り、まるで嵐の中に見えないレールが敷かれているかのように、滑らかに制御盤へと到達した。
「すごい……本当に着いた!」
「次、東! あの浮遊岩をキック、作用・反作用で角度を90度変えろ!」「西は二人で飛んで、途中で分離しろ!運動量保存の法則だ!」
悟は、リナに背負われながら、絶叫に近いナビゲートを続けた。眼下に広がる奈落の闇が彼を苛むが、それ以上に、自分の知識が仲間を導き、世界を動かす興奮が勝っていた。彼はもはや、ただのサラリーマンではなかった。この世界の天律を解き明かす、唯一無二の「空識者」だった。
四つの制御盤が同時に起動した瞬間、島の落下がぴたりと止まった。重力嵐が嘘のように晴れ渡り、安定した浮遊感が戻ってくる。島は、救われたのだ。
歓声が沸き起こり、渡り人たちは悟を英雄として担ぎ上げた。
数日後。悟は一人、島の断崖に立っていた。眼下の雲海は、もう前ほど怖くはない。彼はそっと足元の小石を蹴り、自分の体をほんの少しだけ、宙に浮かせてみた。ふわり、と体が軽くなる。
「案外、悪くない」
彼の足元には、まだ見ぬ空と、解き明かすべき無数の法則が広がっていた。空識者の物語は、今、始まったばかりだった。
空識者の天律(くうしきしゃのてんりつ)
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