男は自分の名前を、カイとだけ覚えていた。
彼が目覚めた場所は、無数の光球が宙を舞う雑踏、「記憶市場(メモリア・バザール)」だった。ここでは「記憶」が通貨であり、命を繋ぐ糧だった。琥珀色に輝く「幸福」は高値で取引され、澱んだ鉛色の「絶望」は安価な燃料として燻る。人々は他人の記憶を買い、自らの体験として消費することで、心の渇きを癒していた。
カイの心は、ほとんど空っぽだった。過去も、故郷も、大切な人の顔も思い出せない。その空虚を埋めるように、彼は「記憶狩り」として生きていた。忘れられた廃墟や禁忌の森に眠る「野良記憶」を回収し、市場で売る。そうして稼いだ対価で、いつか自分の失われた記憶を買い戻すのだ。それが、彼が彼であるための唯一の目的だった。
「また無茶をしたね。その傷、昨日の『後悔』の棘かい?」
隣を歩く少女、リナが心配そうにカイの腕を覗き込む。彼女は、記憶の価値を見抜く不思議な瞳を持っていた。カイが拾ってくる光球に触れ、その来歴と純度を瞬時に見定める、唯一無二の相棒だ。
「大したことない。それより、今日の稼ぎで『懐かしい匂い』の記憶が買えそうだ」
「……本当にいいのかい? カイ。知らない方が、幸せなこともある」
リナは時折、遠い目をしてそう呟く。その瞳の奥に、カイの知らない何かが隠されていることに、彼は気づかないふりをしていた。
少しずつ、カイは自分の記憶の断片を買い集めていった。『陽だまりのような温もり』、『誰かの優しい歌声』、『銀の髪を揺らす少女の泣き顔』。それらはパズルのピースのように散らばり、決して一つの絵にはならなかった。もどかしさが募るほど、カイは核心に繋がるであろう、たった一つの強烈な記憶を渇望するようになっていた。
そんなある日、市場の裏路地で耳にした噂が、彼の運命を大きく揺さぶる。
「聞いたか? 『始祖の王冠』と呼ばれる、最古にして最高の記憶が闇市に出るらしい」
その言葉を聞いた瞬間、カイの空っぽの胸が、ズクリと痛んだ。根拠はない。だが、直感が告げていた。それが、自分の探していた最後のピースだと。
リナの制止を振り切り、カイは全ての財産をはたいて闇市に潜入した。薄暗いテントの奥、厳重な結界に守られた台座の上に、それはあった。太陽そのものを封じ込めたかのように、眩い黄金色の光を放つ巨大な記憶の球体。それが『始ぞの王冠』だった。
カイはそれに手を伸ばす。指が触れた瞬間、世界が白く染まった。
奔流となって、失われた全てが流れ込んでくる。
――ここは、かつてマナが枯渇し、崩壊を待つだけの世界だった。
――民の嘆きを憂いた若き王子は、一つの決断を下す。自らの魂に満ちる膨大な『幸福の記憶』をエネルギーに変換し、世界に分け与えることで、世界の寿命を繋ぎ止めるという禁断の儀式を。
――彼の名は、カイ。銀の髪を持つ巫女、リナに見守られながら、彼は自らの存在を世界に捧げた。その犠牲の上に成り立ったのが、この「記憶市場」のシステムだった。人々が消費する記憶は、元はすべて、王子カイが与えた幸福の残滓なのだ。
真実を知ったカイの足元で、地面が軋む音を立てた。空を見上げると、瑠璃色の天蓋にガラスのような亀裂が走っている。彼が記憶を取り戻したことで、世界へのエネルギー供給が止まり、再び崩壊が始まったのだ。
「……そうか。俺が俺を取り戻すことは、世界を壊すことだったのか」
絶望に膝をつくカイの肩を、いつの間にか追ってきたリナが強く抱きしめた。
「ごめん、カイ……言えなかった。あなたが幸せそうに、自分の記憶の欠片を探しているのを、止めることなんてできなかった」
彼女の瞳から零れた涙が、カイの頬に熱い軌跡を描く。
カイはゆっくりと立ち上がった。市場を見渡す。そこには、他人の記憶でささやかな幸福を享受し、笑い合う人々の姿があった。父親が息子に「初めて自転車に乗れた喜び」を買い与え、老婆が亡き夫との「穏やかな午後の記憶」に涙ぐんでいる。それらは全て、かつてカイが持っていたものだった。彼が手放した幸福が、こうして世界を彩っている。
彼は、決意の顔でリナに微笑みかけた。
「俺は、王子なんかじゃない。ただのカイだ」
カイは再び、『始祖の王冠』に向き直った。今度は躊躇わない。彼は両手で光の球体を抱えると、祈りを込めて、それを再び天に解き放った。
「ありがとう。俺の全てだった、温かい日々よ」
黄金の光は無数の粒子となり、天に昇っていく。それは、彼が「王子カイ」であった最後の記憶。世界を救ったという栄光も、リナと過ごした幼き日々の思い出も、全てが光の雨となって世界に降り注ぎ、空の亀裂を優しく塞いでいった。
光が止んだ時、カイはただの青年としてそこに立っていた。彼の瞳から、かつての渇望や苦悩は消え失せ、生まれたての赤子のような、静かな安らぎが満ちていた。自分の名前すら、もう覚えていない。
「おかえり」
リナが、震える声で言った。
カイは彼女を見て、不思議そうに首を傾げる。だが、その声の響きと、目の前の少女の涙が、言葉にならない温かい何かを心の底に灯した。彼は、理由もわからずに、そっと微笑んだ。
二人は、活気を取り戻した市場の雑踏へと歩き出す。
過去を失い、未来も知らない。だがカイの心には、確かに一つの感情が残っていた。誰かを守れたという、名もなき誇り。それは、誰にも売ることのできない、彼だけの最後の記憶だった。
忘却の市場と最後の記憶
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