音の調律師と世界の歪み

音の調律師と世界の歪み

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柏木奏(かしわぎ そう)の指先が、象牙色の鍵盤の上を滑る。彼が扱うのは、単なるピアノではない。依頼主の祖父が遺したという、百年物のドイツ製アップライトピアノ。その音は、長い沈黙のせいでひどく淀み、濁っていた。

「……よし、こんなものか」

最後の弦を締め、試弾のために和音を奏でる。澄み切った、それでいて温かみのある音が礼拝堂のように静かな部屋に満ちた。これだ。これが奏の仕事。忘れられた音に、再び命を吹き込むこと。彼は、絶対音感を持つピアノ調律師だった。

仕事を終え、古びた調律ハンマーを革のケースに仕舞った時、ふと奇妙な感覚に襲われた。キーン、という耳鳴り。だが、それはただの耳鳴りではなかった。特定の音階にも当てはまらない、奇妙にねじれた「音」。まるで、世界の調律が狂ったような不快な響きだった。

次の瞬間、奏の足元がぐにゃりと歪んだ。視界が万華鏡のように乱れ、部屋の風景が音の粒子となって分解していく。彼が最後に認識したのは、自分の調律ハンマーが眩い光を放ったことだった。

気づくと、奏は見知らぬ草原に立っていた。空には七色の虹が幾重にもかかり、地面から生える植物は、まるでガラス細工のように光を反射している。風が吹くと、草木はぶつかり合い、ウィンドチャイムのような心地よい音色を奏でた。

「ここは……?」

呆然と呟く奏の耳に、悲鳴が飛び込んできた。見れば、少し離れた場所で、亜麻色の髪の少女が黒い霧のような不定形の「何か」に追われている。その「何か」からは、先ほど奏が聞いたのと同じ、あの耳障りな不協和音が鳴り響いていた。

「危ない!」

考えるより先に、体が動いていた。奏は少女と「何か」の間に割って入り、とっさに手に持っていた調律ハンマーを構える。武器になるとは思えない。だが、これしか持っていなかった。

黒い霧が、不協和音の叫びと共に襲いかかってくる。その瞬間、奏の絶対音感が、霧の正体を見抜いた。
(違う……これは叫びじゃない。音が、ずれているんだ。本来あるべきピッチから、致命的に!)

奏は、近くに転がっていた岩を、調律ハンマーで力껏叩いた。カーン!と、乾いた音が響く。彼は耳を澄まし、黒い霧が発する不協和音の「核」となる音を探り当てた。そして、その音を補正するであろう「正しい音」を頭の中に響かせながら、再び岩を叩く。

カン、カン、カン!

奏が叩き出す音は、黒い霧の不協和音と共鳴し、干渉し合った。すると、あれほどおぞましかった霧の形がみるみるうちに薄れ、最後には澄んだ音の粒子となって霧散してしまった。

「あ……ありがとうございます! あなたは、もしや……『調律師』様ですか?」

助けられた少女が、尊敬の眼差しで奏を見つめていた。リラと名乗った彼女の話は、奏の理解を遥かに超えていた。

この世界「ハルモニア」は、万物を構成する「音」によって成り立っている。美しい和音は世界に秩序と恵みをもたらし、不協和音は「歪み(ディストーション)」と呼ばれる魔物や災厄を生み出す。人々は「奏者(プレイヤー)」として楽器を奏で、世界の調和を保っているのだという。

「でも、最近『歪み』の力が強まっているんです。世界の中心にある『始原の音叉(プライマル・フォーク)』の調律が、少しずつ狂い始めているせいで……」

リラは悲しげに語る。ハルモニアの奏者たちは、誰もその狂いを正確に特定できずにいた。だが、奏は違う。彼は、異世界から来た、音のズレを完璧に聴き分ける絶対音感と、それを物理的に正す技術を持つ、唯一無二の存在だった。

「どうか、私たちを助けてください! あなたのその『耳』と『技』で、この世界の調律を……!」

自分の持つ技術が、世界を救う力になる。現代日本では、電子音に取って代わられ、時代遅れとさえ言われた自分の力が。奏の胸に、熱いものがこみ上げてきた。

「わかった。やってみよう」

奏とリラの旅が始まった。目的地は、世界の中心にそびえ立つ「天響の塔」。その最上階に「始原の音叉」は安置されているという。

道中、彼らは様々な「歪み」に遭遇した。川のせせらぎが濁流のような轟音と化し、森の木々が軋むような断末魔をあげる。そのたびに、奏は調律ハンマーを手に、歪みの原因となる不協和音を探り当てた。時には石を叩き、時には大木の幹を叩き、時にはリラが奏でる竪琴の音を微調整させ、環境そのものを「調律」していく。それは戦いというより、巨大な楽器を修理していくような、スリリングで緻密な作業だった。

数々の困難を乗り越え、二人はついに「天響の塔」の頂にたどり着く。そこに鎮座していたのは、山のように巨大な水晶の音叉だった。しかし、そこから発せられる不協和音は、これまで遭遇したどの「歪み」よりも複雑で、圧倒的だった。無数の音が乱れ、絡み合い、奏の絶対音感をもってしても、狂いの根源を特定できない。

「だめだ……音が多すぎる……!」

膝をつく奏に、リラが声をかける。
「一人で聴こうとしないでください、ソウさん! 私たちの音も使って!」

その言葉に、奏ははっとした。そうだ、ここはハルモニア。世界そのものが、壮大なオーケストラなのだ。
「リラ! 塔の下にいる奏者たちに伝えてくれ! 俺が合図したら、全員でこの世界の『基音』を奏でるんだ! 一切の装飾も旋律もなし、ただ、純粋な一つの音を!」

リラの竪琴が、塔の構造を伝って麓の仲間たちへメッセージを届ける。やがて、世界中から無数の音が集まり始めた。風の音、水の音、人々の奏でる楽器の音。それら全てが、奏の指示した「基音」に収束していく。

世界が、一つの音で満たされた。その完璧なユニゾンの中で、ただ一つだけ、異質な響きが浮き彫りになる。

「……見つけた!」

奏は叫ぶと同時に、渾身の力を込めて調律ハンマーを振り上げた。目標は、巨大な水晶音叉の、ただ一点。狂いの震源地。

キィィィンッ!

金属と水晶がぶつかる甲高い音が響き渡った瞬間、世界を覆っていた全ての不協和音がピタリと止んだ。後に残ったのは、どこまでも透明で、清らかな「始原の音叉」本来の響き。その音は、さざ波のように世界中に広がり、歪んでいた万物を優しく癒していく。

空は青さを取り戻し、七色の虹がより一層輝きを増した。奏の目の前で、リラが歓喜の涙を流していた。

元の世界に戻る方法もあると、リラは言った。だが、奏は穏やかに首を振った。彼は、自分の古びた調律ハンマーを誇らしげに握りしめる。

「俺は、ここに残るよ。この世界には、まだ調律が必要な音がたくさんありそうだ」

彼の耳は、歓喜に沸く人々の声援の中に、まだ微かに残る次の「歪み」の予兆を、確かに捉えていた。柏木奏、異世界の調律師。彼の胸を躍らせる、新たな仕事が今、始まろうとしていた。

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