相馬拓海が、亡くなった祖父の古物店に足を踏み入れるのは、実に十年ぶりのことだった。埃と黴、そして古い木の匂いが混じり合った独特の空気が、遠い記憶の蓋をこじ開ける。遺品整理という名目だが、拓海にとっては宝探しにも似た感傷的な時間だった。
店の奥、幾重にも布が掛けられた巨大な姿見が、彼の注意を引いた。黒檀のフレームには、見たこともない植物や動物の精密な彫刻が施されている。祖父が「曰く付きだから」と、決して布を外さなかった鏡だ。好奇心に駆られ、拓海は分厚い布を一枚ずつ剥がしていった。
現れた鏡面は、不思議なほど曇り一つなく、深淵を思わせるほど澄み切っていた。拓海が鏡を覗き込んだ、その瞬間。
鏡面が、水面のように揺らいだ。
「え?」
驚いて手を伸ばすと、指先が冷たい水に触れるような感触と共に、鏡の中へと吸い込まれていく。抗う間もなく、全身がぐにゃりとした奇妙な浮遊感に包まれ、次の瞬間、彼は硬い地面に尻餅をついていた。
「……いった……」
顔を上げ、拓海は息を呑んだ。
そこは、言葉では表現しがたい光景の広がる世界だった。空には七色のオーロラが巨大な川のように流れ、大地は磨かれた水晶でできている。足元にはガラス細工のような草花が生い茂り、風が吹くたびに、それらが触れ合って澄んだ音色を奏でている。まるで、世界そのものが一つの楽器のようだった。
呆然とする拓海の前を、蛍のような光の粒がふわりと横切る。それは人の形をぼんやりと模した、身長三十センチほどの小さな存在だった。彼らは好奇心旺盛といった様子で拓海の周りを飛び回り、チリン、チリンと心地よい音を立てる。
「ここは……どこだ?」
振り返ると、そこには先程の姿見が、額縁だけの窓のようにぽつんと浮いていた。向こう側には、見慣れた古物店の薄暗い店内が見える。どうやら、帰り道は確保されているらしい。安堵と同時に、未知の世界への強烈な好奇心が胸を満たした。
拓海は、この世界を「彩層世界」と名付けた。
それから数日間、拓海は大学の講義が終わると、古物店に通い詰めた。彩層世界は、知れば知るほど驚きに満ちていた。川には液体の虹が流れ、木々は光ファイバーの束のように輝いている。光の粒――拓海が「光精(こうせい)」と呼ぶことにした住人たち――とも、少しずつ心を通わせるようになった。言葉は通じないが、彼らは身振りや光の色で感情を豊かに表現してくれた。
ある日、拓海は好奇心から、足元に落ちていた拳大の美しい結晶石をポケットに入れ、元の世界へ持ち帰ってみた。しかし、古物店の薄暗い照明の下では、あれほど鮮やかだった結晶石は輝きを失い、ただの少し綺麗な石ころに変わってしまっていた。がっかりして鏡の前に置くと、結晶石は再び内側から眩い光を放ち始める。どうやらこの世界と繋がっていることで、その輝きを保っているらしい。
逆に、こちらの世界のものを持ち込んだらどうなるだろう。拓海はスマートフォンを取り出し、ライトを点灯させた。すると、光精たちが歓声を上げるように集まってきて、スマホの光を浴びてキラキラと舞い踊る。彼らにとって、それは未知の、しかし心地よい光らしかった。
そんな交流が続いていたある日のこと。いつも陽気に飛び回っていた光精たちの動きが、どこか鈍いことに拓海は気づいた。彼らが放つ光も、心なしか弱々しい。一人の光精が拓海の袖を引っ張り、世界の中心を指差した。
そこには、天を突くほど巨大な一本の樹が聳え立っている。普段は世界全体を照らすほどの輝きを放っている「源光樹」が、今はまるで枯れ木のように色褪せていた。世界全体が、少しずつ彩度を失い始めているのだ。
どうにかできないか。拓海の脳裏に、一つのアイデアが閃いた。
翌日、彼は祖父の遺品の中から、手のひらサイズの古いプリズムを探し出した。埃を拭うと、それは太陽の光を受けて、壁に小さな虹を映し出す。
「これなら……」
拓海はプリズムを手に、再び彩層世界へと渡った。そして、弱々しく明滅する源光樹の根元へと急ぐ。光精たちが心配そうに見守る中、彼はプリズムを地面にそっと置いた。
そして、鏡に向かって叫んだ。
「じいちゃん、力を貸してくれ!」
まるでその声に呼応したかのように、古物店の窓から差し込んでいた午後の日差しが、姿見の中へと一直線に射し込んだ。光は彩層世界を突き抜け、拓海が置いたプリズムに到達する。
次の瞬間、プリズムは太陽光を七色の奔流へと分解し、スペクトルの光線を源光樹へと浴びせかけた。
ゴォォォ、と地響きのような音が鳴り、源光樹が眩い光を取り戻していく。幹は黄金に、枝は白金に輝き、葉の一枚一枚が虹色の光を放ち始めた。衰弱していた世界が、まるで息を吹き返したかのように、鮮やかな色彩で満たされていく。
光精たちは歓喜の声を上げ、拓海の周りを祝福するように舞った。彼らの体もまた、以前よりずっと力強い光を放っている。
拓海は、自分がただの闖入者ではなく、二つの世界を繋ぐ「扉守り」なのだと悟った。祖父がこの鏡を隠していた理由も、何となく分かった気がする。
彼の平凡だった日常は、この日を境に、誰も知らない秘密の冒険で彩られることになった。大学の講義ノートの隣には、彩層世界のスケッチが描かれ、ポケットの中には、鏡の前でだけ輝くお守りの結晶石が一つ。
姿見の向こうに広がる美しい世界と、小さな友人たち。拓海の胸は、これから始まるであろう新たな物語への期待に、ワクワクと高鳴っていた。
彩層世界の扉守り
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