天涯孤独の俺、空木陸(うつぎ りく)の前に現れた弁護士は、まるで出来の悪い冗談のような話をした。顔も知らない祖父が亡くなり、その莫大な遺産の唯一の相続人が俺だという。ただし、条件があった。
「一週間、こちらが指定する『家族』と共に、祖父の屋敷で暮らしていただきます」
あまりに馬鹿げた話に席を立とうとした俺を、弁護士は一枚の写真で引き留めた。緑豊かな庭に立つ、美しい洋館。その写真に、なぜか心を奪われた。
翌日、タクシーでたどり着いた屋敷の重厚な扉を開けると、三人の男女が緊張した面持ちで俺を迎えた。
「はじめまして。今日からあなたのお母さん役を務めます、水原千鶴です」
優雅に微笑む、元舞台女優だという女性。
「……父さん役の、田中剛だ。よろしく」
不器用そうに頭を下げる、リストラされた元会社員。
「あたしが妹! 桜井ひかりだよ! お兄ちゃんって呼んでいい?」
やけに明るい、夢を追うフリーターの少女。
彼らは、弁護士が集めたプロの俳優、というわけではないらしい。それぞれが金のために「家族」を演じる、いわば即席の素人集団だった。俺を含めた四人は、奇妙な共同生活を始めることになった。
最初の食卓は、静寂そのものだった。千鶴さんが作った完璧な料理が並んでいるのに、食器の触れ合う音だけがやけに大きく響く。誰もが互いの腹を探り、値踏みしているのが空気で分かった。これは仕事だ。早く七日間が過ぎてくれればいい。俺は壁を作り、彼らを観察することに徹した。
変化が訪れたのは四日目の夜だった。ひかりが無理を祟らせて、高熱を出したのだ。
「どうしよう、薬は……」
うろたえる千鶴さんの隣で、剛さんが「俺が買ってくる!」と嵐の中へ飛び出していく。俺は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。しばらくして、ずぶ濡れの剛さんが薬局の袋を手に帰ってきた。その背中を見て、千鶴さんは「あなた……」と涙ぐみ、ひかりの額に濡れたタオルを置くその手つきは、台本にあるような演技には見えなかった。
俺はいつの間にか、キッチンで生姜湯を作っていた。それを差し出すと、三人が驚いた顔で俺を見た。
「……風邪には、これが効くって聞いたから」
ひかりが、かすれた声で「お兄ちゃん、ありがと」と笑った。その瞬間、俺たちの間に張り詰めていた見えない糸が、ぷつりと切れた気がした。
その夜から、屋敷の空気はゆっくりと溶けていった。リビングで、ぽつりぽつりと自分たちの身の上を語り合うようになった。女優として大成できなかった千鶴さんの悔しさ。家族のために働き続けたのに、あっさり切り捨てられた剛さんの無念。夢と現実の間で揺れるひかりの不安。
彼らの剥き出しの言葉に導かれるように、俺も初めて自分のことを話した。施設を転々としたこと、誰も信じられずに生きてきたこと。
「……寂しかったんだな、陸」
剛さんが、ごつごつした手で俺の頭を無造作になでた。千鶴さんは黙って温かいココアを淹れてくれ、ひかりは「これからはあたしがいるじゃん!」と俺の腕に抱きついてきた。
それは、俺が生まれて初めて感じた温もりだった。
偽りの家族。契約で結ばれただけの関係。だが、そこには紛れもないいたわりと、優しさが満ちていた。食卓には笑い声が響くようになり、俺たちはいつしか、互いを本名ではなく「お父さん」「お母さん」「ひかり」「陸」と呼び合うようになっていた。
そして、運命の七日目がやってきた。
弁護士が屋敷を訪れ、契約の終了と、俺が遺産を相続する権利を得たことを告げた。剛さんたち三人は、それぞれの報酬を受け取ると、荷物をまとめて玄関へと向かう。
これで終わりだ。元の孤独な生活に戻るだけ。頭では分かっているのに、足が動かなかった。胸に大きな穴が空いたようだ。
「……また、会えるかな」
ひかりが振り返り、寂しそうに言った。千鶴さんは何も言わずに目を伏せ、剛さんはただ黙って俺を見ていた。
彼らがいなくなったら、この広すぎる屋敷に、温かい食卓に、意味などなくなる。金なんかよりも、失いたくないものがここにはあった。
「待ってくれ!」
俺は叫んでいた。
「行かないでくれ! 金なんていらない! 俺は……俺は、みんなと……」
言葉に詰まる俺の肩を、弁護士がそっと叩いた。そして、一通の古い封筒を差し出した。祖父からの、最後の、そして初めての手紙だった。
『陸へ。
突然、変なことをしてすまなかった。お前に残せるものは、金以外にないとずっと思っていた。だが、儂は最後に気づいたのだ。人生で一番の宝物は、金では決して買えない、心の温もりだということを。
お前は、その宝物を見つけられたかな?
もし見つけられたのなら、この家も、そこにいる仲間たちも、全てがお前への本当の遺産だ。彼らは儂が人生の最後に、命懸けで見つけ出した、お前のための『家族』だ。達者で暮らせ。
祖父より』
手紙を読み終えた俺の頬を、熱いものが伝った。三人が、驚きと感動が入り混じった顔で俺を見ている。
俺は涙を拭うと、精一杯の笑顔を作って言った。
「ただいま」
三人は一瞬顔を見合わせ、そして、本物の家族のように柔らかく微笑んだ。
「「「おかえり」」」
四人の声が、美しく調和した。俺たちの、家族になるための長いエチュードが終わった。そして、本当の物語が、今、始まった。
七日間のエチュード
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