埃をかぶったチェロケースが、部屋の隅で棺のように鎮座している。橘翔太(たちばな しょうた)は、その黒い塊に目を向けることなく、濁った水の入ったグラスを傾けた。かつて、彼の指は弦の上を舞い、万雷の拍手を浴びた。だが、今その指は、リモコンのボタンを無感動に押すことしかできない。
三ヶ月前、些細な事故で左手首の神経を痛めた。演奏家生命の断絶。世界から音が消え、色彩が失われた。生きる意味を見失った翔太は、空っぽの日々をただやり過ごしていた。
そんな折、亡くなった祖父の遺品整理を頼まれ、古びた段ボール箱を開けた。中から出てきたのは、一台の木製メトロノーム。翔太が子供の頃、音楽家だった祖父がいつも傍らに置いていたものだ。懐かしさからゼンマイを巻いてみたが、振り子はぴくりとも動かなかった。完全に壊れている。
捨てようとして、ふと脳裏に祖父の言葉が蘇った。
『いいか翔太。この世にはな、どんなものでも直せる魔法使いみたいな職人がいるんだ』
子供だましの与太話だと思っていた。だが、今の翔太には、その言葉が妙に心に引っかかった。藁にもすがる思いで、祖父が話していた古い商店街の記憶を辿る。果たして、錆びついた看板が辛うじて「時田工房」と読める、時代から取り残されたような店を見つけた。
ガラス戸を引くと、チリン、と乾いた鈴の音が鳴った。店内は薄暗く、油と古い木の匂いがした。壁一面の棚には、時計、万年筆、ブリキの玩具、果ては用途のわからない機械の部品までが、まるで生き物の標本のように並べられている。
「ごめんください」
奥の作業台から、ひょっこりと老人が顔を出した。丸眼鏡の奥の目は、悪戯っぽく細められている。
「ほう、珍しいお客さんだ。何をお探しで?」
「あの、これを……」
翔太はおずおずとメトロノームを差し出した。
老人は時田弦治(ときた げんじ)と名乗った。彼はメトロノームを手に取ると、医者が患者を診るように、あらゆる角度から注意深く眺めた。
「ふむ。これはただの機械じゃない。持ち主の『時間』がたくさん染み付いてる。こいつを動かすには、あんたの『時間』も少しばかり手伝ってもらう必要があるが、構わんかね?」
意味が分からなかった。だが、翔太は頷くしかなかった。
「お願いします」
修理は奇妙な形で始まった。
「まず、このゼンマイだ」と、弦治は錆びたゼンマイを指差した。「心の底から楽しかった時のことを思い浮かべながら、この布で優しく磨いてごらん」
馬鹿げている。そう思ったが、他にできることもない。翔太は言われるがまま、目を閉じた。脳裏に浮かんだのは、初めてコンクールで優勝した日のことだ。鳴り止まない拍手、高揚感、師に肩を抱かれた時の誇らしさ。夢中で布を動かしていると、弦治が「よし、そこまで」と声をかけた。見ると、あれほど頑固だった錆が、嘘のように輝きを取り戻していた。
「次は、この振り子の軸だ」と弦治は言った。「一番悔しかったことを、洗いざらい話してごらん。涙が出たら、それを隠さなくていい」
翔太は抵抗した。しかし、弦治の静かな眼差しに見つめられると、堰を切ったように言葉が溢れ出した。事故のこと、ライバルに先を越された焦り、そして、チェロを弾けない絶望。話しているうちに、頬を熱いものが伝った。自分でも忘れていた涙だった。弦治は黙ってその涙を指でぬぐうと、それを振り子の軸にそっと塗り込んだ。すると、固着していた軸が、滑らかに動くようになった。
最後の仕上げは、心臓部である歯車だった。
「さて、あんたが人生で一番、謝りたい相手は誰だね?」
翔太の心に浮かんだのは、祖父の顔だった。音楽の道を応援してくれた祖父に、一度も心の底から感謝を伝えたことがなかった。「もっと上手くならなきゃ」という焦りばかりで、その温かい眼差しに応える余裕がなかった。
「じいちゃん、です」
声を絞り出すと、弦治は満足そうに頷き、ピンセットで小さな歯車をそっと所定の位置にはめ込んだ。カチリ、と小さな音が響いた。
全ての「修理」を終え、弦治がゼンマイを巻く。
沈黙。
そして――。
カチッ。
澄んだ音が工房に響いた。続いて、カチッ、カチッ、と振り子が心地よいリズムを正確に刻み始めた。それは、ただの機械音ではなかった。翔太の心臓の鼓動と重なる、力強い生命の音だった。止まっていた翔太自身の時間が、再び動き出した瞬間だった。
「物はな、思い出を記憶する。そして時々、持ち主にそれを思い出させてくれるんだ」と弦治は微笑んだ。「こいつが刻むのは、あんたの新しい時間だよ」
翔太は深々と頭を下げ、工房を後にした。空は、店に入る前よりもずっと青く見えた。
アパートに帰ると、彼は真っ直ぐに部屋の隅へ向かった。そして、静かにチェロケースの留め金を外す。久しぶりに触れた楽器は、ひんやりと、しかし確かな重みで彼に応えた。
まだ、指は思うように動かないかもしれない。だが、翔太の胸には、メトロノームが刻む確かなリズムが鳴り響いていた。彼は柔らかい布を手に取ると、愛おしむように、チェロの埃を拭い始めた。その顔には、失われた光を取り戻した者の、静かで力強い笑みが浮かんでいた。
ゼンマイ仕掛けの心臓
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