***第一章 止まった時間のアトリエ***
健太のアトリエは、時が止まっていた。窓から差し込む午後の光が、空気中に舞う無数の埃をきらきらと照らし出し、まるで銀河のように緩慢に渦を巻いている。壁一面に並ぶ棚には、彼が手掛けた建築模型が息を潜めるように鎮座していた。精巧に作られたミニチュアの家々。しかし、そのどれもが過去の再現であり、新しい未来を想像させるものは一つもなかった。
三年前、妻の美咲がこの世を去ってから、健太の世界は色を失った。アトリエの隅には、彼女が好きだったカモミールのティーカップが、飲み干されないまま置かれている。カッターナイフを握る彼の指は、かつての繊細な熱を忘れ、ただ惰性で動くだけだった。
今日は健太の四十二歳の誕生日。そして、美咲の三回忌を終えたばかりの、静かな日。インターホンの無機質な音が沈黙を破ったとき、彼は一瞬、息を止めた。宅配業者から受け取ったのは、見覚えのあるシンプルな段ボール箱。差出人の欄は、今年も空白だ。
これが届くのは、三度目だった。美咲が亡くなった年の誕生日から、毎年必ずこの日に届く、謎の贈り物。健太はそれを、アトリエの作業机にそっと置いた。カッターで丁寧に封を切ると、中から現れたのは、深い海の青を湛えた一本の万年筆だった。ずしりとした心地よい重みが、手のひらに伝わる。添えられたカードには、ただ一言、美しい筆跡で『お誕生日おめでとう』とだけ記されていた。美咲の筆跡だ。
なぜ、亡くなったはずの妻からプレゼントが届くのか。
最初の年は混乱し、親戚や友人に尋ねて回った。誰も心当たりはないと言う。二年目は、それが美咲の遺した最後の悪戯なのだと、半ば諦めと共に受け入れた。そして三年目の今日、健太はただ、胸を締め付けるような切なさと、温かい愛情の名残に打ちひしがれていた。
彼は万年筆を握りしめたまま、窓の外に目をやった。隣の家の庭では、小学三年生になる陽菜ちゃんが、一人で縄跳びをしている。時折こちらを気にするような素振りを見せるが、健太はいつも気づかないふりをしてカーテンを引いてしまう。美咲が生きていた頃は、よく三人で笑い合った。あの賑やかな声は、もう聞こえない。
健太は万年筆をそっと箱に戻し、棚の奥へと押し込んだ。美咲の思い出は、美しいまま封印しておくべきだ。そうしなければ、自分が壊れてしまう。アトリエの時計の針は、今日もまた、三年前のあの日を指したまま動こうとしなかった。
***第二章 万年筆が綴る旋律***
数日が過ぎても、青い万年筆の存在が健太の頭から離れなかった。仕事である建築模型の制作にも、身が入らない。依頼主が求めるのは「家族が笑い合う、温かい家」の模型。しかし、今の健太が作るのは、どこか生命感の欠けた、ただの箱だった。接着剤のツンとした匂いが、彼の孤独を際立たせる。
そんなある日の午後、アトリエのドアが控えめにノックされた。健太が訝しげにドアを開けると、そこには隣の家の陽菜ちゃんが、一枚の便箋を手に、もじもじと立っていた。
「あの、高橋さん……」
「……どうしたんだい」
低い声で応じると、陽菜はびくりと肩を震わせた。健太は自分が、この小さな少女を怯えさせていることに気づき、胸の奥がちくりと痛んだ。
「おばあちゃんに、お手紙を書きたくて……。でも、私の字、汚いから……」
陽菜が差し出した便箋には、拙いながらも一生懸命に書かれたであろう文字が並んでいた。健太はしばらく黙ってそれを見つめていたが、ふと、棚の奥にしまった万年筆のことを思い出した。なぜだろう。柄にもなく、手を貸してやりたいという気持ちが湧き上がったのだ。
「……ちょっと待ってなさい」
健太は棚から箱を取り出し、青い万年筆を手に取った。インクカートリッジをセットすると、ペン先から深い青色の雫がぽたりと落ちる。久しぶりに嗅ぐインクの香りが、記憶の扉を静かにノックした。美咲も手紙を書くのが好きだった。彼女が綴る言葉は、いつも陽だまりのように温かかった。
健太は陽菜の隣に座り、新しい便箋の上に万年筆を滑らせた。カリ、カリ、という心地よい音がアトリエに響く。それは、止まっていた彼の世界で、久しぶりに生まれた新しい音だった。陽菜が伝えたい言葉を、一文字一文字、丁寧に紡いでいく。「おばあちゃん、お元気ですか。私は毎日、学校で頑張っています」。ただそれだけの文章が、まるで魔法のように命を吹き込まれていくのを、健太は感じていた。
書き終えた手紙を陽菜に渡すと、彼女は目をきらきらと輝かせた。
「わあ、すごい! まるで印刷みたい! 高橋さん、ありがとう!」
屈託のない笑顔に、健太はうまく言葉を返せなかった。ただ、ほんの少しだけ、口角が上がったのを自分でも感じた。陽菜が帰った後も、アトリエにはインクの香りと、ペン先の残した旋律が、微かに漂っていた。凍てついていた心の湖に、小さな波紋が広がったような、不思議な感覚だった。
***第三章 驚くべき配達人***
その出来事をきっかけに、健太と陽菜の間には、ささやかな交流が生まれた。陽菜は時々、学校の宿題を持ってアトリエを訪れるようになった。健太は相変わらず無口だったが、以前のような人を寄せ付けない冷たさは、少しずつ和らいでいた。
しかし、健太の心の中の根本的な謎――亡き妻からの贈り物の謎――は、依然として解けないままだった。彼はその謎に触れることを恐れ、ただ受け入れるだけの状態を続けていた。
その均衡が崩れたのは、初夏の雨が降りしきる日のことだった。学校帰りの陽菜が、傘もささずにアトリエの前に立っていた。ずぶ濡れになった姿を見て、健太は思わず彼女を家の中に招き入れた。タオルで髪を拭いてやると、陽菜は小さな声でぽつりと呟いた。
「ごめんなさい……」
「何がだ」
「……美咲さんとの、約束だったのに」
その名前に、健太の心臓が大きく跳ねた。彼は陽菜の肩を掴み、自分でも驚くほど強い声で問い詰めた。
「約束? 美咲と、どんな約束をしたんだ」
陽菜の大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。雨音に混じり、少女の嗚咽がアトリエに響く。そして、陽菜は泣きながら、すべてを打ち明けた。
三年前、美咲は自らの死期を悟っていた。そして、遺される健太のことを誰よりも心配していた。彼女は、自分が亡くなった後も健太が一人で笑えるようになるまで、彼を支えたいと願った。そこで、数年分の誕生日プレゼントを用意し、当時まだ幼かった陽菜に、それを託したのだという。
「美咲さんが言ってたの。『私が死んだら、健太さんはきっと、自分の殻に閉じこもっちゃう。だから、陽菜ちゃんが毎年一つずつ、プレゼントを届けてほしいの。これは、健太さんがもう一度、外の世界と繋がるための、小さな道しるべだから』って……」
最初の年のプレゼントは、美しい風景写真集。家に籠もりがちな健太に、外の世界の美しさを思い出してほしかったから。二年目は、上質なコーヒー豆。誰かを家に招いて、一杯のコーヒーを淹れるきっかけになるように。そして今年の万年筆は、彼が誰かと「言葉を交わす」ことを願って。
すべては、健太を孤独から救い出すための、美咲が未来に向けて仕掛けた、壮大で優しい計画だったのだ。
健太は、その場に立ち尽くした。驚き、悲しみ、そして計り知れないほどの愛しさが、濁流のように胸の中を駆け巡った。彼は美咲の死をただ嘆き、過去に囚われていた。だが、彼女は死の淵にありながら、彼の未来を案じ、こんなにも温かい光を灯そうとしてくれていた。自分はなんて、愚かだったのだろう。
健太は泣きじゃくる陽菜を、そっと抱きしめた。それは、この三年間で、彼が初めて誰かに触れた温もりだった。雨はまだ、降り続いていた。しかし、彼の心の中を洗い流す、浄化の雨のように感じられた。
***第四章 未来を灯す模型***
美咲の真意を知った健真の心は、激しく揺さぶられた。アトリエに戻り、一人になると、堪えていた感情が堰を切ったように溢れ出した。彼は子供のように声を上げて泣いた。それは、単なる悲しみの涙ではなかった。美咲の深い愛に対する感謝と、その愛に応えられずにいた自分への悔しさ、そして、これからどう生きるべきかという戸惑いが入り混じった、複雑な涙だった。
夜が明ける頃、泣き疲れた健太は、ふと、アトリエの隅で埃を被っていた一つの模型に目を留めた。それは、美咲と二人で住むために設計した「未来の家」の模型だった。彼女が病に倒れてから、制作は中断されたままだ。
彼はゆっくりと模型に近づき、そっと指でなぞった。美咲が好きだった、日当たりの良いリビング。二人で並んで本を読むための、窓際の長いソファ。すべてが、叶わなかった夢の残骸に見えた。しかし、今の健太には、それが違うものに見えていた。これは過去の遺物ではない。美咲が彼に託した、未来へのバトンなのだと。
健太は作業机に向かい、カッターナイフを握りしめた。その手にはもう、惰性も迷いもなかった。彼は設計図を広げると、青い万年筆で、そこに新しい線を描き加えた。リビングから続く庭に、小さなブランコを一つ。いつでも陽菜が遊びに来られるように。そして、アトリエの窓を大きくし、もっとたくさんの光が入るように設計を変更した。
カリ、カリ、と木材を削る音が、再びアトリエに響き始めた。それはもう、過去をなぞる音ではない。未来を創造する、力強い生命の音だった。健太は、美咲の思い出と共に、しかし前を向いて生きていく覚悟を決めた。悲しみを消し去るのではなく、その悲しみさえも抱きしめて、自分の人生の一部として歩んでいくのだ。
数週間後、新しい「未来の家」の模型が完成した。健太はそれを、陽光が最も美しく差し込む窓辺に置いた。ミニチュアの窓ガラスが夕日を反射し、家全体が温かいオレンジ色に輝いている。それはまるで、これから始まる健太の新しい日々に、祝福の光が灯ったかのようだった。
隣の庭から、陽菜の明るい笑い声が聞こえてくる。健太は窓を開け、茜色に染まる空を見上げた。彼は心の中で、空の向こうにいる美咲に語りかけた。
『見てるか、美咲。俺、ちゃんと前を向けてるかな』
返事はない。だが、頬をそっと撫でていく優しい風が、まるで彼女の「大丈夫だよ」という囁きのように感じられた。悲しみは、きっとこの先も完全に消えることはないだろう。それでも、その隣には、確かな希望と、未来へと続く温かい光が、確かに存在していた。健太は、三年間止まっていた自分の時間を、ゆっくりと、しかし確実に、未来へと進め始めた。
未来からの贈り物
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